第5回は、皇城を中心に、大手町、代官町、一番町、永田町、八重洲町周辺を読む4図です。江戸城と大名屋敷が並んだ政治中枢が、明治政府の官庁・軍用地・皇室関連施設へ変わる過程を追える地域です。
千代田区は、明治維新後に大手町・丸の内・霞が関界隈へ政府諸機関が置かれ、丸の内・日比谷界隈には軍用地が配置されたと説明しています。五千分一東京図は、その再編の最中を記録しています。
五千分一東京図測量原図とは
本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。
国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。
包括図で見る皇城・大手町・永田町・八重洲
国土地理院 資料番号1037「東京 第1号」

包括図「東京 第1号」は、1016・1017・1019・1020の4面を一続きで見られる図です。皇城を中心に、大手町・丸の内側、番町・代官町側、永田町側、八重洲町側の位置関係を、個別図の境界に分断されず把握できます。江戸城と武家地が皇城、官庁、軍用地へ再編される首都中枢の構造をつかむための全体図です。
欄外に残る測量班と地図の精度
元の高精細原図を欄外まで確認すると、左側に「明治十六年七月」「小地測量第五班」とあり、班長として工兵大尉早川省義の名が記されています。早川は陸軍の測量・製図に長く携わり、1888年に陸地測量部が発足すると製図科長を務めた測量技術者です。1037は、作成年だけでなく、実際に東京を測った組織と担当者まで原図自身が記録しています。
右下には「二米ノ等距離」とあり、等高線を2メートル間隔で表現していたことが分かります。街路や建物名だけでなく、濠や坂、高台などの微細な高低差まで読み取れることが、この地図の大きな特徴です。
東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍
国土地理院 資料番号1016
高精細原図では、大手町から神田錦町にかけて、文部省・内務省・大蔵省・農商務省・工部省・会計検査院などの官庁と、東京大学・外国語学校・学習院などの教育機関が近接して記されています。江戸城大手門前の大名屋敷地とその周辺が、明治国家の行政・教育・印刷・情報発信の拠点へ転用されていた時期です。
大名小路から官庁街へ
原図には「印刷局製造場」と読める大規模施設があります。国立印刷局の沿革では、大手町の印刷工場は1876(明治9)年に落成し、1878年に大蔵省紙幣局から印刷局へ改称しました。地図が測量された1883年7月には、印刷局が7月1日に官報第1号を製造し、翌2日に創刊号が発行されています。地図の日付と官報創刊が同じ月に重なる点は、この図の時代性をよく示します。
「会計検査院」は1880(明治13)年に太政官直属の財政監督機関として成立したばかりでした。地図上に各省庁と並んで名称が記されていることから、現在まで続く国家機関が制度として形を整えつつあった段階を確認できます。
同じ官庁街には「工部省営繕課出張所」と読める施設もあります。営繕は建物を新築・修繕する仕事で、工部省の建築部門は新政府の官庁建築や近代建築技術の導入を担いました。地図に「出張所」として現れることから、中央官庁が置かれただけでなく、建築・維持管理の実務拠点まで周辺に置かれていたことが分かります。近くには「郵便局出張所」もあり、行政機関を支える通信・業務施設がまとまっていました。
神田錦町の東京大学・外国語学校・学習院
「東京大學」は、現在の本郷だけを想像すると見落としやすい表記です。東京大学は1877(明治10)年、東京開成学校と東京医学校の統合で発足し、法・理・文の三学部は神田錦町の旧東京開成学校校地を引き継ぎました。法学部・文学部と本部が本郷へ移るのは1884年、理学部は1885年です。したがって1883年の原図は、神田錦町に東京大学が置かれていた短い時期を記録しています。
「外國語學校」は現在の東京外国語大学につながる東京外国語学校です。同校は1873年から1885年まで神田一ツ橋通町一番地に置かれました。近くの「體操練習場」は、1878年に文部省が設けた体操伝習所の練習施設である可能性が高いと考えられます。体操伝習所は学校体育の方法研究と教員養成を担った、日本の近代体育史上の重要機関でした。
「學習院」は1877年に神田錦町で開校した華族学校です。明治天皇から「学習院」の名称を賜り、1884年には宮内省所轄の官立学校となりました。原図はその制度変更の前年にあたります。
報知新聞社・演説館と自由民権期の言論空間
右横書きで「報知新聞社」と読める施設もあります。当時の新聞名はまだ『郵便報知新聞』で、1872年創刊、1873年に日刊化し、栗本鋤雲、矢野竜渓、犬養毅、尾崎行雄、原敬らが関わった自由民権派の政論新聞でした。『報知新聞』への改題は1894年なので、地図上の社名と新聞題号は区別して読む必要があります。
その近くには「演説館」と明記された建物があります。三田演説館とは位置が異なり、今回の調査では運営主体を一意に特定できませんでした。ただし、政治演説や政談演説が盛んになった自由民権運動期の東京に、演説を掲げる施設が地図上で確認できる点は注目できます。
徳大寺実則につながる「徳大寺邸」
原図の邸宅名は「大徳寺邸」ではなく「徳大寺邸」です。徳大寺家の中心人物だった徳大寺実則は明治天皇の侍従長を務め、宮内卿にも就いた人物で、西園寺公望の実兄です。神田錦町には華族教育の学習院もあり、この周辺では新政府の官庁、教育機関、華族社会が近接していました。
東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍
国土地理院 資料番号1017
八重洲町から丸の内・日比谷側の高精細原図には、現在の東京駅も丸の内オフィス街もまだなく、元老院、大審院、東京控訴裁判所、司法省、華族会館、警視庁と、東京鎮台・監軍本部・教導団・陸軍練兵場などが密集しています。現在のビジネス街や日比谷公園になる前の土地が、司法・警察・軍事の中枢として使われていた時代です。
元老院・大審院と近代司法制度
「元老院」と「大審院」は、1875(明治8)年4月14日の立憲政体樹立の詔に伴って設けられました。元老院は立法審議を担い、大審院は司法府の最高機関となりました。原図の「東京控訴裁判所」は、東京上等裁判所が1882年に改称された翌年の名称です。1886年には東京控訴院へ再改称されるため、この表記も短い制度移行期を記録しています。
近くの「法學校」は司法省法学校を示す可能性が高いと考えられます。司法省法学校ではフランス法を中心とした法曹教育が行われ、のちの司法官や法学教育者を多く送り出しました。東京大学所蔵史料には、ちょうど1883年7月の「法学生徒卒業証書授与式」に関する文書も残っています。
東京鎮台・教導団・陸軍練兵場
原図では東京鎮台歩兵営・騎兵営・輜重兵営、教導団騎兵営、監軍本部、軍用電信隊、陸軍省会計倉庫などが広い区域を占めます。輜重兵は兵站輸送を担当する兵科です。教導団は下士官養成を担い、歩兵・騎兵・砲兵・工兵など複数兵科を教育しました。1883年の丸の内周辺は、軍の指揮・教育・輸送・通信を一体で支える空間でした。
さらに高精細原図では、「陸軍軍馬局」「陸軍調馬廠」「陸軍病馬院」といった軍馬関係の施設も読み取れます。調馬は馬を乗りならすことで、陸軍では騎兵や輸送に使う軍馬の調教・管理・診療が独立した業務でした。アジア歴史資料センターによれば、陸軍病馬院は1875(明治8)年に軍用馬の診療機関として設置され、同年中に「病馬厩」へ改称されています。1883年の原図に「病馬院」の名称が見える点は、制度上の名称変更後も旧称系統の呼び方が地図上に残った可能性を考える材料になります。
「東京衛戍裁判所」と読める施設もあります。衛戍とは、軍隊が一つの土地に継続して駐屯し、その地域を警備することです。この裁判所は一般の大審院・東京控訴裁判所とは別に、東京に駐屯する軍隊の軍事司法を担う施設と考えられます。また「第一方面本署」は、周囲の工兵施設と当時の組織から工兵第一方面本署と考えられます。工兵方面は兵舎などの建築・修繕を担当し、第一方面は東京を拠点としていました。原図には「警視廳用地」と記された区画もあり、建物だけでなく、警察機関のために確保された土地まで描き分けられています。
「陸軍練兵場」が描かれた日比谷一帯は、幕末までは大名屋敷地でした。明治期に陸軍練兵場となった後、市区改正を経て1903(明治36)年6月1日に日比谷公園が開園します。現在の公園の下に、かつて大規模な軍用地が広がっていたことを原図から確認できます。
大神宮と華族会館
原図の「大神宮」は、1880(明治13)年に東京における伊勢神宮の遥拝殿として創建された日比谷大神宮、現在の東京大神宮につながります。関東大震災後に飯田橋へ移る前は日比谷にありました。また「華族會館」は華族の社交・教育活動の中心で、神田錦町の学習院創設にも深く関係しました。
岩倉邸・中山邸・鳥尾小弥太邸
個人邸では「岩倉邸」「中山邸」「鳥尾小弥太邸」が明瞭です。岩倉具視は右大臣として明治政府の中枢にありましたが、原図欄外の日付と同じ1883年7月20日に死去しました。地図が描いた時期と岩倉の最晩年がほぼ重なっています。
鳥尾小弥太は奇兵隊出身で、陸軍中将、陸軍省軍務局長、参謀局長、近衛都督などを歴任し、1880年に軍職を退きました。原図には姓だけでなく「鳥尾小弥太邸」とフルネームで記されています。「中山邸」も明瞭で、少なくとも中山家の名を冠した大規模邸宅がこの一帯にあったことが分かります。岩倉邸や鳥尾小弥太邸と並ぶ配置から、八重洲町・丸の内周辺が軍用地や司法機関だけでなく、華族・政府要人層の住宅地でもあったことを読み取れます。
東京府武蔵国麹町区代官町及一番町近傍
国土地理院 資料番号1019
代官町・一番町側では、靖國神社、遊就館、競馬場、内務省地理局測量課、測候所、英國公使館、近衛兵営などが、旧武家地の大区画と並んで描かれています。国家祭祀、軍事、測量・気象、外交、要人邸宅が皇城西側に集まっていた地域です。
靖國神社・遊就館・境内の競馬場
原図では靖國神社の境内に「遊就館」と「競馬場」がはっきり記されています。遊就館は西南戦争後に構想され、陸軍卿・山縣有朋を中心に計画が進められ、1881年に建物が竣工、1882(明治15)年2月25日に開館しました。1883年の地図は開館から約1年後の姿を描いています。
「競馬場」は参道を囲む細長い楕円形です。東京招魂社では1870(明治3)年9月、兵部省主催の競馬が行われました。馬事文化財団は、これを東京で最初の近代競馬であり、日本人の手による最初の近代競馬としています。約900メートルのコースで、奉納競馬は1898年まで続きました。現在の靖國神社の景観からは想像しにくい土地利用です。
測量課と測候所――1883年は日本の天気図が始まった年
原図の「内務省地理局測量課」と「測候所」は、近代国家が国土と気象を数値で把握し始めた時代を示します。気象庁によれば、ドイツ人技師クニッピングのもと、1883年2月16日に全国から気象電報を集めて東京で天気図の作製を試行し、3月1日から毎日の天気図を印刷配布、5月26日には最初の暴風警報を発表しました。原図欄外は「明治十六年七月」と記しており、これらの出来事からわずか数か月後です。
英國公使館と「旧楓山文庫」
一番町には「英國公使館」が描かれています。現在の英国大使館も一番町にあり、この一帯は明治初期から英国外交の拠点でした。外交官アーネスト・サトウもこの公使館に勤務しています。
皇城内には「旧楓山文庫」と読める表記があります。楓山文庫は紅葉山文庫の別称で、江戸幕府が将軍のために蓄積した大規模な書籍・記録群です。明治政府へ引き継がれ、1884年には太政官文庫へ移管、翌1885年に内閣文庫へつながりました。地図の「旧」という一字は、江戸城の知的資産が新政府の文庫制度へ組み替えられる途中だったことを示しています。
大隈邸・山縣邸と明治政府要人の住宅地
個人邸では「大隈邸」「山縣邸」「井伊邸」「飯田邸」が明瞭です。「大隈邸」は大隈重信の雉子橋邸とみてよく、1882年の東京専門学校設置願や開設広告でも麹町区飯田町一丁目一番地が学校事務所として使われています。大隈が本邸を早稲田へ移したのは1884年2月25日なので、1883年図は雉子橋邸を本邸としていた最後期にあたります。
前回「山内邸」と読んだ箇所は、高精細原図を再確認すると「山縣邸」です。山縣有朋は1883年に内務卿となり、陸軍制度と内政の双方で大きな影響力を持ちました。千代田区には山縣の邸宅史も残りますが、現在残る三番町の旧山縣邸庭園に結びつく邸宅は1885年建築とされるため、1883年の原図上の邸宅と後の建物を同一視しません。
「井伊邸」「飯田邸」も原図では明瞭です。個々の当主を無理に特定しなくても、井伊家・飯田家の名を冠した邸宅が大隈邸や山縣邸と同じ地域に並んでいたこと自体が、この一帯の性格を示します。代官町・一番町側は軍事・測量・外交施設だけでなく、華族や政府関係者の大規模邸宅が集まる住宅地でもありました。
東京府武蔵国麹町区皇城及永田町近傍
国土地理院 資料番号1020
皇城と永田町を含むこの図には、江戸城の濠・門と並んで、陸軍省、参謀本部、監軍本部、軍医本部、東京陸軍病院、外務省、外国公使館、旧大名・公家・政府要人の邸宅が描かれています。現在の国会・官庁街が完成する前、軍事・外交・華族社会が同じ地域に重なっていた姿です。
江戸城から皇城へ
城郭、濠、門という江戸城の骨格は残っていますが、政治権力の主体は幕府から皇室・明治政府へ移りました。1883年時点では、1873年の西の丸御殿焼失後のため明治天皇は赤坂仮皇居を使用しており、現在の明治宮殿が完成するのは1888年です。地図の「皇城」は、江戸城の空間を引き継ぎながら新しい宮殿を整備していた途中段階を示します。
正午号砲臺――東京に時刻を知らせた「ドン」
皇城旧本丸には「正午号砲臺」と記されています。これは毎日正午に大砲の空砲を撃ち、東京市中へ時刻を知らせる施設です。1871(明治4)年に旧本丸で始まり、午砲、あるいは砲声から「ドン」と呼ばれました。時計がまだ広く普及していなかった時代には、大きな音そのものが都市の公共時報でした。国立公文書館に残る兵部省文書にも、旧本丸で「正午号砲」を実施するための担当を定めた記録があります。1929(昭和4)年にサイレンへ置き換えられるまで続きました。
陸軍省・参謀本部・監軍本部
永田町側には「陸軍省」「參謀本部」「監軍本部」が近接します。参謀本部は1878(明治11)年12月、陸軍省から軍令機能を分離して天皇直属の軍令機関として設置され、初代参謀本部長は山縣有朋でした。監軍本部も同じ1878年12月に設けられ、平時の検閲と軍令執行などを担いました。さらに軍医本部、東京陸軍病院、教導団の歩兵・砲兵・工兵営が描かれ、中央指揮、軍事教育、医療までがまとまっています。
外務省と獨逸・佛國・清國公使館
原図には外務省の周囲に「獨逸公使館」「佛國公使館」「清國公使館」が記されています。外務省外交史料館の調査では、ドイツ公使館用地は1872年から永田町に置かれ、清国公使館用地も1878年に永田町二丁目で貸し渡されました。明治初期の永田町は国内政治だけでなく、条約外交を担う外国公館が集まる外交地区でもありました。
永田町の三條邸・有栖川邸・佐野邸
個人邸では「三條邸」「有栖川邸」「佐野邸」が特に重要です。「三條邸」は太政大臣三条実美の邸宅とみられます。三条は1871年から1885年の太政官制廃止まで太政大臣を務め、1883年当時の政府最高位にありました。
「有栖川邸」は有栖川宮家の邸宅です。当時の当主有栖川宮熾仁親王は戊辰戦争の東征大総督、西南戦争の征討総督を務め、のち参謀本部長・参謀総長となりました。「佐野邸」は東京都の永田町一丁目遺跡調査でも佐野常民邸と確認されています。佐野は西南戦争時に博愛社を設立し、同組織は1887年に日本赤十字社へ改称されました。
大久保邸・大木邸・西郷邸・浅野邸・鍋島邸
原図にはさらに「大久保邸」「大木邸」「西郷邸」「浅野邸」「鍋島邸」が明瞭です。「大久保邸」は三年町にあった大久保利通家の邸宅である可能性が高いと考えられます。利通本人は1878年の紀尾井坂の変で死去しているため、1883年の表記を本人の居住と説明することはできません。
「大木邸」は、1880年に元老院議長となった大木喬任の邸宅である可能性が高く、「西郷邸」も陸軍卿・農商務卿などを歴任した西郷従道邸の可能性が高いと考えられます。後年の官庁集中計画に関する史料でも、西郷の邸宅が永田町の丘にあったことが確認できます。
「浅野邸」は旧広島藩主家、「鍋島邸」は旧佐賀藩主家の東京邸とみられます。当主の浅野長勲は1882年にイタリア公使となり、鍋島直大も1880年にイタリア公使として赴任していました。したがって1883年の地図に家名があっても、両者本人がその時点で邸宅に居住していたとは限りません。邸名と本人の在京を分けて読む必要があります。
永田町と国家中枢の形成
1883年は内閣制度の発足より2年前、帝国議会の開会より7年前です。原図に見えるのは、後の国会・官庁街が完成する直前の永田町であり、陸軍中枢、外務省と外国公使館、旧公家・大名家、政府要人の私邸が混在しています。その後、官庁集中計画や議会制度の整備によって、この地域は現在につながる政治・行政の中枢へ再編されていきました。
4図を通して見る首都中枢
包括図「東京 第1号」は、1016・1017・1019・1020の4面を一続きで見られる図です。江戸城と武家地が皇城、官庁、軍用地へ再編される首都中心部を、個別図の境界に分断されず把握できます。現在の丸の内ビジネス街、官庁街、皇居外苑が完成する前の土地利用を追えることが大きな魅力です。
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主な参考資料
- 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
- 千代田区「大手町・丸の内・有楽町・永田町地域のまちづくり」
- 宮内庁「皇居全体図」
- 国立公文書館・アジア歴史資料センター「公文書に見る明治・大正の陸軍」および陸軍省関係公文書
- 国立印刷局「国立印刷局のあゆみ」
- 東京大学「東京大学の歴史」
- 東京外国語大学「東京外国語大学文書館」
- 学習院「学習院の歴史」
- 気象庁「気象庁の歴史」
- 靖國神社「遊就館」沿革資料
- 公益財団法人馬事文化財団「靖国神社の競馬」関連資料
- 早稲田大学「大隈重信・雉子橋邸」関連資料
- 外務省外交史料館「外国公使館」関連資料
- 東京都公文書館「午砲」関連資料
