明治五千分一東京図を徹底解説⑦|高田・小日向・牛込を読む

第7回は、高田、小日向、神楽町、牛込喜久井町周辺の4図を読みます。現在の豊島区・文京区・新宿区にまたがるこの地域では、台地と谷、寺社地、旧武家地、郊外的な土地利用が入り混じります。

新宿区の年表では、明治期の牛込・四谷周辺に軍施設、学校、工場などが相次いで置かれたことが確認できます。一方で高田・小日向には畑や広い屋敷地も残り、東京市街の西北端がどのように都市化していったのかを読むことができます。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。

東京府武蔵国小石川区小日向水道町近傍

国土地理院 資料番号1025

五千分一東京図測量原図1025 東京府武蔵国小石川区小日向水道町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国小石川区小日向水道町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1025を高精細原図で確認すると、小日向台と神田川沿いの低地に、軍事医療、近代教育、製紙業、江戸以来の寺社・坂が同時に描かれています。明治16年(1883)の小日向は、旧武家地を引き継ぐ大きな敷地の隣で近代施設が動き始めた時期にあたります。

「陸軍馬病院」と軍馬診療の施設

原図北部には「陸軍馬病院」と読める大きな敷地があります。ただし陸軍の制度史では、軍用馬の診療機関は明治8年(1875)2月に「陸軍病馬院」として設けられ、同年11月に病馬厩びょうばきゅうへ改称されています。お茶の水女子大学の百年史が引用する明治13年(1880)の迅速測図でも、この大塚側の旧大名屋敷地は「陸軍病馬厩分厩」と記されています。したがって、1025の「陸軍馬病院」は地図上の表記として扱い、当時の正式な官制名称と同一視しない方が安全です。

この一帯は幕末には磐城平藩安藤家の下屋敷でした。明治23年(1890)には旧病馬厩地に大塚陸軍弾薬庫が設けられ、その後は東京陸軍兵器支廠の用地となります。兵器支廠の移転後、その大部分が東京女子高等師範学校へ交付され、現在のお茶の水女子大学につながりました。1025は、大名屋敷から軍用地、さらに教育施設へと土地利用が変わる途中を記録しています。

小日向の陸軍副病院

原図には「陸軍副病院」も明瞭に記されています。明治期の陸軍関係史料には小日向の副病院が現れ、測量時期の前後に軍人・軍属の診療や療養を担った施設でした。軍馬の診療施設と人のための軍病院が近い範囲に描かれている点は、明治初期の東京で軍事医療施設が旧武家地へ配置されていった過程を示しています。

同人社どうじんしゃ中村正直なかむら・まさなお

南東部には「同人社」と読める表記があります。中村正直なかむら・まさなお(敬宇)は幕府の昌平坂学問所に学び、幕末には遣英留学生の監督として渡英しました。帰国後、『西国立志編』『自由之理』などの翻訳で知られ、明治6年(1873)に家塾の同人社を開設しました。国立国会図書館には、同人社を出版者とする明治6年の『共和政治』や明治7・9年刊の『西稗雑纂』が残ります。現在の文京区水道1丁目2番付近は東京都指定旧跡「同人社の跡」です。

長成社ちょうせいしゃ製紙場と江戸川製紙場

神田川沿いには「長成社製紙場」と「江戸川製紙場」が別々に記されています。文京区史では長成社が独立項目として扱われ、旧武島町の案内では明治14年(1881)創業の製紙業者とされています。江戸川製紙場についても、明治12年(1879)の日記史料に「江戸川製紙場製」の紙が贈答品として現れ、1025の測量以前から製品が流通していたことを確認できます。

この地域では、江戸時代から神田川の水を利用した紙漉きが行われました。原図に二つの製紙場が並ぶ姿は、従来の水利用と明治期の都市工業が重なった時期を示します。両者の経営主体や企業としての連続関係は、現段階では一意に確定できないため別施設として扱います。

切支丹坂きりしたんざかと切支丹屋敷

原図には切支丹坂きりしたんざかが記されています。近くには江戸幕府が宣教師やキリスト教徒を収容・取り調べるために置いた切支丹屋敷があり、宝永5年(1708)に屋久島へ潜入したイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチもここに収容されました。新井白石あらい・はくせきはシドッチを尋問し、その知識を『西洋紀聞』などにまとめています。

平成26年(2014)の発掘調査では旧切支丹屋敷跡から3基の墓と人骨が見つかり、そのうち1体はシドッチである可能性が高いと判断されました。現在の史跡は小日向1丁目24番付近です。原図の坂道を現在の道路へ厳密に重ねるには旧地籍との照合が必要ですが、地名の背後に江戸の禁教政策の記憶が残っていることは確認できます。

林泉寺りんせんじと「しばられ地蔵」

林泉寺は慶長7年(1602)の開創とされ、江戸時代から「しばられ地蔵」で信仰を集めました。願をかける際に地蔵へ縄をかけ、願いがかなうと縄をほどく習俗が伝わります。現在も小日向4丁目7番2号にあり、1025に描かれた寺院と現在地を直接結べる例です。

「氷川神社」と明治2年の改称

原図には「氷川神社」とありますが、現在の小日向神社の由緒では、氷川神社と田中八幡神社を合祀し、明治2年(1869)に「小日向神社」と改称したとされています。測量はその14年後です。正式な社名変更後も旧称が地図に残った理由までは確定できませんが、地域で「氷川神社」という呼称がなお通用していた可能性があります。後世の正式名称を遡らせず、原図表記と制度上の名称を分けて読む必要がある例です。

大日坂だいにちざかと大日堂

原図では「大日坂」と「大日堂」が近接して確認できます。大日坂の名は、坂の近くにあった大日如来を祀る堂に由来するとされます。宗教施設の名称が周辺の坂名として残り、明治期の地図にも受け継がれた例です。

東京府武蔵国牛込区神楽町近傍

国土地理院 資料番号1026

五千分一東京図測量原図1026 東京府武蔵国牛込区神楽町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国牛込区神楽町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1026の高精細原図では、神楽坂と牛込台地に「善國寺」「赤城社」「愛日學校」「酒井邸」が明瞭に記されています。江戸の寺社と大名屋敷の系譜が残る一方、明治13年(1880)に創立したばかりの学校も描かれ、牛込が近世の武家地から近代の市街地へ移る時期を捉えています。

善國寺ぜんこくじと神楽坂の門前町

神楽坂の「善國寺」は、徳川家康から日本橋馬喰町に寺地を与えられて成立し、火災による移転を重ねた後、寛政4年(1792)に現在の神楽坂へ移りました。寺の毘沙門天信仰は江戸後期に広まり、善國寺の移転に伴って門前に店が増えました。明治初期には周辺に花街が形成され、後の神楽坂の繁華街へつながります。1026は、寺院とその門前に密集する町並みを同じ図上で確認できる資料です。

原図の「赤城社」と赤城神社

原図には現在の赤城神社にあたる場所が「赤城社」と記されています。神社の由緒では、正安2年(1300)に群馬の赤城山麓から牛込へ移住した大胡氏おおごしが赤城神社の分霊を祀ったのが始まりとされます。寛正元年(1460)に太田道灌が牛込台へ移し、弘治元年(1555)に現在地へ遷座したと伝わります。天和3年(1683)には幕府から牛込の総鎮守として重んじられ、明治6年(1873)には郷社に列しました。1026は、その10年後の境内と周辺市街を描いています。

愛日學校あいじつがっこう――開校3年後の姿

原図には「愛日學校」と読める校地があります。現在の新宿区立愛日小学校の沿革によれば、明治13年(1880)7月、吉井学校と市ヶ谷学校を合併して牛込区北町26番地に愛日校が創立されました。創立時は敷地272坪余、校舎136坪、教室8、職員5人、児童100人余でした。1026の測量は明治16年(1883)なので、地図は開校からわずか3年後の校舎を記録しています。

「愛日」という校名は、牛込区長の秋山則白が、明治天皇の侍講を務めた長三洲ちょう・さんしゅうに依頼して選定されたと学校に伝わります。翌明治17年(1884)には児童数が339人となり校舎が増築されており、原図は児童急増直前の状態にあたります。

「酒井邸」と若狭小浜藩酒井家

矢来町の広い敷地には「酒井邸」と明瞭に記されています。ここは寛永5年(1628)、のちの若狭小浜藩主酒井忠勝さかい・ただかつが拝領した下屋敷に始まります。現在の「矢来町」という町名も、屋敷の周囲に竹矢来が巡らされたことに由来すると新宿区は説明しています。『解体新書』で知られる杉田玄白すぎた・げんぱくも享保18年(1733)、小浜藩医の家に生まれ、この矢来屋敷が生誕地とされています。

明治16年(1883)の酒井家当主は旧小浜藩主家の酒井忠道さかい・ただみちでした。後年の公的資料でも忠道の自邸は牛込区矢来町にあったことが確認できるため、1026の「酒井邸」は忠道の邸宅である可能性が高いと考えられます。忠道は翌明治17年(1884)に伯爵となり、のちに貴族院議員を務めました。

渡邊邸わたなべてい――市街地に残る大きな私邸

1026の高精細原図には「渡邊邸」と読めるまとまった屋敷地も描かれています。「邸」という表記は渡邊姓の個人または家の私邸を示すものと考えられ、敷地内には複数の建物と庭・樹木が表現されています。周囲の細かな市街地区画とは明らかに規模が異なり、神楽町近傍に町家や寺社だけでなく、まとまった屋敷地を持つ私邸が残っていたことが分かります。

東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍

国土地理院 資料番号1027

五千分一東京図測量原図1027 東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1027の高精細原図では、北豊島郡高田村を中心とする耕地の南端に「東京専門學校」「大隈邸」「穴八幡社」が明瞭に描かれています。とくに東京専門学校は明治15年(1882)10月の開校直後で、1027は現在の早稲田大学が誕生した最初期の景観を記録した地図です。

「東京専門學校」――早稲田大学創立翌年の校地

原図には「東京専門學校」と校舎群がはっきり記されています。早稲田大学の前身である東京専門学校は、大隈重信おおくま・しげのぶを中心に明治15年(1882)10月21日に開校しました。開校時には政治経済学科、法律学科、理学科、英学科を置き、入学生は80人でした。学校の正式所在地は南豊島郡戸塚村で、大隈の別邸が隣接する早稲田村にあったことから、当初から「早稲田学校」とも呼ばれました。大隈重信と佐賀県出身者が東京の制度・都市・建築に残した痕跡は、「東京で佐賀を探す」でまとめています。

測量年の明治16年(1883)には予科が設けられ、理学科を廃止して土木工学科を新設しています。同年には学校最初の運動会も飛鳥山で開かれました。校舎と寄宿舎は開校直前の明治15年9月下旬に落成したため、1027に描かれた建物群は完成からほぼ1年しか経っていない創立期の姿です。

「大隈邸」――学校の隣にあった創立者の別邸

東京専門学校のすぐ北東には「大隈邸」と大きく記されています。早稲田大学の記録によれば、大隈重信おおくま・しげのぶは早稲田村に別邸を持ち、明治15年(1882)にはその隣接地を東京専門学校の開設用地として取得しました。この配置は1027でも明瞭で、学校と大隈邸が隣接して成立したことを原図から確認できます。

測量時の明治16年には、大隈の本邸はまだ雉子橋付近にありました。大隈が早稲田の別邸へ本邸を移したのは翌明治17年(1884)2月です。したがって1027の「大隈邸」は、東京専門学校創設の拠点となった別邸が本邸へ変わる直前の状態を示しています。大隈の没後、邸宅と庭園は大学へ寄贈され、庭園は現在の大隈庭園につながります。

「穴八幡社」と高田馬場の流鏑馬やぶさめ

原図には現在の穴八幡宮が「穴八幡社」と記されています。社伝では康平5年(1062)、前九年の役から凱旋した源義家がこの地に的山を築き、兜と太刀を納めて八幡神を祀ったことを起源とします。江戸時代には将軍家の祈願所となり、享保13年(1728)には八代将軍徳川吉宗が世継ぎの病気平癒を祈って流鏑馬を奉納しました。

この流鏑馬は「高田馬場流鏑馬」として現在も伝承され、新宿区指定無形民俗文化財になっています。1027では穴八幡社の境内と周囲に広がる畑地、東京専門学校の新しい校地が同じ範囲に描かれ、江戸以来の信仰・武芸の場と明治の高等教育機関が隣り合う早稲田の転換期を確認できます。

松岡邸まつおかてい――耕地の中に描かれた私邸

1027の高精細原図では、北側の耕地が広がる区域に「松岡邸」と読める屋敷地も確認できます。姓に「邸」を付した表記から松岡姓の個人または家の私邸と考えられ、主屋とみられる建物や庭・樹木を含む一まとまりの宅地として描かれています。周囲には畑や茶・桑などの耕地表現が広がっており、東京専門学校や大隈邸の周辺まで一様に市街化していたわけではありません。農地の中に比較的大きな邸宅が点在していた高田村の土地利用を読み取れる区画です。

東京府武蔵国牛込区牛込喜久井町近傍

国土地理院 資料番号1028

五千分一東京図測量原図1028 東京府武蔵国牛込区牛込喜久井町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国牛込区牛込喜久井町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1028の高精細原図は、余白に「明治十六年六月」とあり、牛込喜久井町から戸山・弁天町方面を測った明治16年(1883)の景観を記録しています。原図では「陸軍戸山学校」「夏目坂」「済松寺」「宗参寺」「感通寺」が明瞭に読めます。軍事教育施設と旧大名庭園、夏目家の地域支配を伝える坂名、江戸以前から続く寺院が一枚に重なっています。

陸軍戸山学校りくぐん・とやまがっこう――尾張戸山荘から軍事教育の場へ

原図西部には「陸軍戸山学校」と広い校地が描かれています。ここでは明治6年(1873)に兵学寮戸山出張所が開かれ、翌明治7年(1874)に陸軍戸山学校へ改称されました。陸軍の史料では、射撃、体操、戦術、操練、ラッパなど歩兵教育に関わる研究・教育を担った学校です。1028は改称から約9年後の姿を記録しています。

この土地は江戸時代には尾張徳川家の下屋敷戸山荘とやまそうでした。二代藩主徳川光友とくがわ・みつともの時代、寛文9年(1669)頃から大規模な庭園が整えられ、築山の玉円峰ぎょくえんほうは現在の箱根山として残っています。明治15年(1882)11月には戸山ヶ原の近衛射的場で明治天皇が開場式に出席し、射的・砲術を天覧しました。測量はその翌年で、旧大名庭園が近代陸軍の教育・演習空間へ変わった直後の景観です。

夏目坂なつめざか――漱石の父が名付けた坂

喜久井町の道路には「夏目坂」と記されています。夏目漱石は慶応3年(1867)、現在の喜久井町1番地付近に生まれました。新宿区などの資料によれば、この坂を「夏目坂」と名付けたのは父の夏目直克なつめ・なおかつで、漱石自身も『硝子戸の中』にその由来を書いています。夏目家は牛込一帯の名主を務めており、「喜久井町」という町名も家紋の「井桁に菊」にちなむと伝えられます。

1028の測量は漱石誕生から16年後です。後世の文学者としての名声より前に、夏目家に由来する坂名と町名がすでに地域名称として定着していた時期の地図です。

来迎寺らいこうじ誓閑寺せいかんじ――江戸の旧郡名を残す石造物と梵鐘

夏目坂周辺には「来迎寺」「誓閑寺」も明瞭に記されています。来迎寺には延宝4年(1676)造立の板碑型庚申塔こうしんとうが残り、新宿区指定有形民俗文化財となっています。銘には「武州湯原郡牛込馬場下町」とあり、「湯原郡」は「荏原郡」を指すと考えられています。

隣接する誓閑寺には天和2年(1682)頃の梵鐘が伝わり、新宿区内に残る最古の梵鐘とされています。この鐘にも「荏原郡」の銘があり、すでに豊島郡となっていた土地で旧郡名がなお用いられていたことを伝えます。夏目漱石は後年、誓閑寺の鐘の音を『硝子戸の中』に記しました。1028では夏目坂と二つの寺院が近接して描かれ、江戸以来の地域呼称と明治・大正期の文学史が同じ範囲でつながります。

済松寺さいしょうじ――徳川家光と祖心尼そしんに、戸山荘につながる寺

原図北東部の大きな境内には「済松寺」とあります。済松寺は三代将軍徳川家光が帰依した祖心尼と深い関係を持ち、正保年間に牛込へ寺地が定められたとされる臨済宗寺院です。新宿区に残る「済松寺文書」には、家光と祖心尼、寺領経営などに関する江戸時代から明治初年までの記録がまとまって残されています。

尾張徳川家の戸山荘は、祖心尼から二代藩主徳川光友へ譲られた約4万6千坪の土地を核として整備されたと新宿区は説明しています。1028に同時に描かれた「済松寺」と「陸軍戸山学校」の土地は、江戸時代には祖心尼と尾張徳川家を介して結び付いていました。

宗参寺そうさんじ――「牛込」の領主と山鹿素行やまが・そこう

弁天町側には「宗参寺」が明瞭に記されています。宗参寺は天文13年(1544)、この地域を支配した牛込氏が父祖の菩提寺として創建したとされます。牛込氏はもと大胡氏を称し、戦国期には小田原北条氏に仕えて牛込地域の領主となりました。現在も寺には牛込氏歴代の墓が残り、「牛込」という地名の中世史を直接たどれる場所です。

宗参寺には江戸前期の儒学者・兵学者山鹿素行やまが・そこうの墓もあり、国指定史跡となっています。素行は朱子学を批判して赤穂へ流された後、江戸へ戻って門弟を教育しました。戦国期の在地領主と江戸思想史が一つの寺に重なっています。

感通寺かんつうじ――1945年の空襲記憶へつながる寺

喜久井町には「感通寺」もはっきり描かれています。明治16年の原図では近隣の寺院の一つですが、この場所は後世、戦災の記憶と強く結び付きました。昭和20年(1945)5月25日の山の手大空襲では、現在の早稲田大学喜久井町キャンパスにあった防空壕で300人を超える人々が亡くなりました。

新宿区によれば、現在は早稲田大学構内と感通寺境内に犠牲者を慰霊する観音像があり、慰霊祭が続けられています。1028に記された寺が地域に残り、戦災を記憶する場所になった例です。

4枚を続けて見ると見えてくる西北部の都市化

1025〜1028を続けると、牛込の市街地から小日向・高田の郊外へ、土地利用の密度が徐々に変化する様子を追えます。明治東京の境界は一本の線ではなく、町家、寺社、屋敷、畑が混在する帯として広がっていました。

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主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 新宿区「新宿区史年表 明治時代」
  • 文京区「近代の文京(明治から昭和)」
  • アジア歴史資料センター「陸軍戸山学校」
  • 新宿区「温故知しん!じゅく散歩 尾張徳川家下屋敷(戸山荘)跡」
  • 新宿区「夏目漱石生い立ち」「えのき散歩道」
  • 新宿区教育委員会「済松寺文書」
  • 新宿観光振興協会「宗参寺 山鹿素行の墓 牛込氏の墓」
  • 新宿観光振興協会「来迎寺 庚申塔」「誓閑寺 梵鐘」
  • 新宿区「喜久井町戦没者慰霊祭」