明治五千分一東京図を徹底解説③|築地・石川島・越中島を読む

第3回は、築地東部から石川島・越中島、隅田川河口にかけての3図を読みます。この地域では、東京の中心市街地と海・河川の境界がどのようにつながっていたのかが主題になります。

明治初期の東京湾岸は、現在の埋立地が広がる以前で、水面、浅洲、島、河口、船着場が都市のすぐそばにありました。石川島・越中島は、造船、軍事、教育、物流といった近代化の機能が水辺に集まる地域として重要です。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。

東京府武蔵国深川区越中嶋及京橋区石川島

国土地理院 資料番号1009

五千分一東京図測量原図1009 東京府武蔵国深川区越中嶋及京橋区石川島
国土地理院所蔵「東京府武蔵国深川区越中嶋及京橋区石川島」を加工(周囲の余白をトリミング)

明治17年(1884)2月測量の高精細原図では、石川島に「石川嶋造船所」「石川嶋監獄署」、越中島側に「練兵場」「越中嶋新田」と明瞭に記されています。いずれも地図作成前後に制度や土地利用が大きく変わった場所です。

石川島と近代工業

原図の「石川嶋造船所」は、IHIの前身である石川島平野造船所の施設です。幕府は嘉永6年(1853)、欧米列強への対応から水戸藩に石川島での造船所設立を命じました。明治9年(1876)には平野富二ひらの・とみじが海軍省から石川島修船場跡を借り受け、石川島平野造船所を設立します。翌明治10年には民間造船所初の蒸気船「通運丸」を建造し、明治16年には民間企業として初めて横浜の都橋を製作しました。1009は、その翌年の造船・機械工業拠点を描いています。のちに有限責任石川島造船所、東京石川島造船所へと発展し、現在のIHIにつながります。

造船所の南側には「石川嶋監獄署」とあります。ここは寛政2年(1790)、老中松平定信まつだいら・さだのぶのもとで長谷川平蔵宣以はせがわ・へいぞう・のぶためが設置に尽力した石川島人足寄場にんそくよせばを起源とします。明治維新後は石川島徒場、懲役場、懲役署と改称され、明治14年(1881)に石川島監獄署となりました。この名称は明治17年(1884)に石川島監獄分署へ改称されるまでの短期間しか使われていません。原図が「監獄署」と記録した1884年は、まさに名称変更の年でした。

石川島監獄には原胤昭はら・たねあきも収監されました。原は旧南町奉行所与力の家に生まれ、明治期にはキリスト教出版や教育に携わった人物です。石川島監獄での収監経験を契機に監獄改良と出獄者保護へ進み、明治17年6月26日には土方久元ひじかた・ひさもと宛てに監獄の現況報告を兼ねた改良意見書を提出しています。地図の作成年と、日本の更生保護史につながる原の活動が重なります。

越中島と水辺の公共施設

越中島の広い空地には大きく「練兵場」と記されています。原図上の名称は「練兵場」ですが、位置と史料から越中島練兵場と特定できます。越中島では幕末以前から軍事利用が進み、天保14年(1843)には江戸湾防備を担った忍藩おしはんが屋敷地を拝領して馬場や射撃場などを整備しました。安政4年(1857)に講武所が開設されると幕府の砲術調練場となり、明治維新後は新政府の陸軍練兵場へ引き継がれます。明治3年(1870)には明治天皇がここで軍隊の練兵を観閲しました。

地図測量の前年、明治16年(1883)には陸軍歩兵大佐乃木希典のぎ・まれすけが越中島練兵場の拡張工事を提案しています。1009はその直後の姿です。練兵場は明治24年(1891)に廃止され、土地利用の整理を経て、明治35年(1902)には東京商船学校が霊岸島から越中島へ移転しました。現在の東京海洋大学越中島キャンパスにつながります。

練兵場の北側には「越中嶋新田」の地名も残っています。これは単なる町名ではなく、宝暦年間に干潟を埋め立てて開発された新田に由来します。江東区では現在も牡丹一丁目付近を「越中島新田跡」として史跡登録しており、土地所有の変遷も研究されています。1009では、江戸中期の埋立新田と、幕末から明治へ続く軍事用地が隣り合う状態を確認できます。

東京府武蔵国京橋区新湊町近傍

国土地理院 資料番号1010

五千分一東京図測量原図1010 東京府武蔵国京橋区新湊町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国京橋区新湊町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

明治17年(1884)の高精細原図では、築地本願寺、米国公使館、立教大学校、立教女学校、海岸女学校、川崎造船所、蒸水器、海軍兵学校、兵器局製鋼所、治安裁判所、東京府旧運上所、水上警察署、陸軍省會計司倉庫、住吉社、佃嶋渡船場、石川嶋監獄署渡船場など、宗教・外交・教育・司法・軍事・工業・通信・警察・水運に関わる施設や設備が同じ図面に集中しています。築地・佃島・石川島の水際が、明治政府の制度、近代産業、日常交通を同時に支えていた時期を記録した図です。

築地本願寺と、現在とは異なる震災前の伽藍

原図には「本願寺」と記されています。現在の築地本願寺です。寺は元和3年(1617)に浅草近くで創建され、明暦3年(1657)の大火で焼失しました。幕府から再建地として与えられた場所は海上だったため、門徒らが埋め立てを行って寺地を築きました。築地という土地の形成そのものと深く結びついた寺院です。

1010が描くのは関東大震災以前の築地本願寺です。現在の本堂は震災で旧堂が焼失した後、昭和9年(1934)に伊東忠太いとう・ちゅうたの設計で再建されたため、1884年の原図に見える寺域・伽藍がらん配置は現在とは異なります。

米国公使館と、築地の学校群

明石町付近には「米国公使館」と読める施設があります。アメリカ公使館は明治7年(1874)から明治23年(1890)まで築地外国人居留地に置かれ、居留地1・2・21・22番、現在の明石町8番付近にありました。赤坂へ移転する以前のアメリカ外交の東京拠点です。建物に使われていた白頭鷲や星条旗の盾などの石造彫刻は、現在も明石町に保存されています。

同じ居留地区画では「立教大学校」も確認できます。立教の起源は明治7年(1874)、米国聖公会宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが築地で始めた教育活動です。明治16年(1883)には居留地37番に煉瓦れんが造校舎が完成し、「立教大学校」と称するようになりました。1010はその翌年の図で、現在の立教大学が大学校を名乗り始めた直後の築地時代を示しています。

さらに原図には「海岸女学校」と読める学校名があります。現在の青山学院につながる学校で、明治7年(1874)にドーラ・E・スクーンメーカーが開いた女子教育の場を前身とし、明治10年(1877)に築地明石町へ移転して海岸女学校と改称しました。明治14年(1881)には築地居留地13番に洋風の新校舎が建てられています。1010はその3年後で、築地外国人居留地が男子教育だけでなく女子教育の重要な拠点でもあった時期を記録しています。

同じ築地には「立教女学校」も記されています。立教女学院の公式沿革では、明治10年(1877)に開校した立教女学校は明治12年(1879)に築地へ移転し、地図と同じ明治17年(1884)にはJ・M・ガーディナー設計の3階建て木造校舎が完成しました。1010は、新校舎完成年の立教女学校と、立教大学校・海岸女学校が近接していた教育地区を描いています。

川崎造船所――川崎重工業の創業地

海岸部には「川崎造船所」と明瞭に読めます。川崎正蔵かわさき・しょうぞうは明治11年(1878)、築地南飯田町の官有地を借りて川崎築地造船所を創設しました。第一号船は西洋型木造船「北海丸」です。1010の明治17年は創業から6年後にあたり、川崎重工業が公式沿革で示す築地時代そのものです。明治19年(1886)には築地造船所の機能が兵庫へ集約されるため、この図は東京の創業地で造船を続けていた末期に近い姿を記録しています。

川崎造船所に近い水際には「蒸水器」と記されています。蒸水器は、海水などを加熱・蒸発させて真水を得るための船舶用機械です。後の海軍の軍艦勤務規程でも、蒸水器は濾水器ろすいきや製氷機などとともに輪機部が管理する機器として挙げられています。地図上にこの設備名が現れることから、築地海岸には造船所だけでなく、船舶運用を支える機械設備も置かれていたことが分かります。

海軍兵学校――江田島移転4年前の築地

築地には「海軍兵学校」と記された区画があります。前身は明治2年(1869)に築地で設けられた海軍操練所で、海軍兵学寮を経て明治9年(1876)に海軍兵学校となりました。海軍兵学校は明治21年(1888)に江田島へ移転するため、1010は移転4年前の東京時代を記録しています。現在「海軍兵学校」と聞いて連想される江田島より前に、近代海軍の士官教育は築地で行われていました。

兵器局製鋼所――近代製鋼開始から2年後

海岸寄りには「兵器局製鋼所」と明瞭に読めます。海軍は兵器用鋼材の国産化を目指し、明治15年(1882)に築地で坩堝炉るつぼろによる洋式製鋼を開始しました。1010はそのわずか2年後です。日本金属学会の資料では、この築地での製鋼を日本における近代製鋼の創始として位置づけています。

築地市場跡地の発掘調査では、文献史料との照合から明治15年設置のクルップ式製鋼炉とみられる煉瓦れんが遺構が確認されています。同じ場所では、後年のシーメンス式炉や大正期の光学ガラス溶解炉も見つかっています。地図上の「兵器局製鋼所」は、海軍兵器の素材国産化から国産光学ガラス製造へ続く技術史の出発点にあたります。

治安裁判所と東京府旧運上所

再確認した高精細原図では、裁判所の表記は「始審裁判所」ではなく「治安裁判所」と読めます。明治14年(1881)の司法制度改正と翌年の治罪法施行期には、区裁判所が治安裁判所へ改称されました。位置と年代から、1010の表記は京橋治安裁判所と特定できます。明治23年(1890)の裁判所構成法による再編より前の、短い制度段階を地図が記録しています。

近くには「東京府旧運上所とうきょうふきゅううんじょうしょ」とも記されています。東京運上所とうきょううんじょうしょは明治2年(1869)、鉄砲洲の外国事務局を東京府へ移管して設けられ、明治6年(1873)に運上所が税関と改称されたため、1884年の地図では「旧運上所」となっています。この場所は通信史でも重要で、明治2年に東京築地の運上所と横浜を結ぶ公衆電信業務が開始され、日本の公衆電信事業の出発点となりました。

水上警察署――東京湾岸警察署へ続く水上警察

水辺には「水上警察署」と記されています。警視庁によれば、水上警察署は明治12年(1879)10月28日に京橋区新船松町で創設されました。1010は創設から約5年後の姿です。その後、東京水上警察署と改称・移転を重ね、平成20年(2008)の東京湾岸警察署開設へつながりました。河川・運河・港の交通量が多かった明治東京では、水上を専門に取り締まる警察機構が必要とされていました。

このほか高精細原図には「陸軍省會計司倉庫」と記されています。地図上では水際に長方形の倉庫棟がまとまっており、陸軍の会計・供給系統に属する物資保管施設だったことが読み取れます。同時期の陸軍省中央組織には会計局が置かれ、会計系統は金銭だけでなく物品の出納・供給にも関わっていました。したがって、この区画は被服・糧食などを含む軍需物資を保管・管理する兵站へいたん施設として理解できます。原図の表記は「會計司」のまま示し、制度上の部局名とは区別して扱います。

住吉社と二つの渡船場――水運で結ばれた佃島・石川島

佃島には「住吉社」と記されています。現在の住吉神社で、摂津国せっつのくに佃の漁民が江戸へ移住したのち、正保3年(1646)に住吉三神などを祀って創建されました。佃島は江戸湊の入口にあったため、住吉神社は海運業者や問屋から海上安全・渡航安全の守護神として信仰を集めました。1010では、島の信仰拠点が水辺の交通施設と並んで描かれています。

隅田川岸には「佃嶋渡船場つくだじまとせんば」も確認できます。佃の渡しは正保2年(1645)に始まったとされ、佃島と対岸の船松町を結ぶ日常交通でした。地図測量の前年、明治16年(1883)には大倉組の経営に移って定期運航となり、渡し賃が一人五厘だったことから「五厘の渡し」とも呼ばれました。1010は、その運営が近代化した直後の渡船場を記録しています。

さらに「石川嶋監獄署渡船場いしかわじまかんごくしょとせんば」という表記もあります。これは石川島監獄署と対岸を結ぶ渡船の発着地点を示すもので、監獄が島状の水辺に置かれていたため、人員や物資の移動に船が必要だったことを地図から具体的に読み取れます。1009で見た監獄署の施設史と、1010に描かれた渡船場を合わせると、石川島監獄が水運によって都市と接続していたことが分かります。

東京府武蔵国隅田河口浅洲

国土地理院 資料番号1011

五千分一東京図測量原図1011 東京府武蔵国隅田河口浅洲
国土地理院所蔵「東京府武蔵国隅田河口浅洲」を加工(周囲の余白をトリミング)

明治17年(1884)3月測量の1011は、市街地よりも隅田川河口の水面と浅洲が大部分を占める図です。高精細原図の左上には「海軍省」と明瞭に記され、1010に描かれた築地の海軍施設群から連続する海軍省所管地の南端を確認できます。再点検では、この海軍省用地内の小字に「軍艦砲台ぐんかんほうだい」と読める表記も確認しました。海軍省用地の水際に置かれているため、艦砲や砲台に関係する設備・区画を示す表記と読めます。正式な設備名や個別機能までは資料で確定できませんが、築地の海軍用地に兵器・砲術関係の設備が組み込まれていたことを示す地図情報です。

「海軍省」と築地海軍用地の変遷

1011の「海軍省」は、海軍省庁舎一棟の名称というより、この一帯が海軍省の所管地であることを示す表記と考えられます。築地市場跡地周辺は江戸時代には大名屋敷地となり、19世紀初頭には白河藩主松平定信まつだいら・さだのぶが庭園浴恩園よくおんえんを築きました。幕末には講武所、軍艦教授所・軍艦操練所、海軍所などの軍事教育施設が置かれ、海軍所移転後には築地ホテル館も建設されました。明治になると周辺は海軍の施設用地となり、1010に見える海軍兵学校や兵器局製鋼所などの施設群へつながります。

この土地利用は現在の発掘成果とも結びつきます。東京都埋蔵文化財センターが築地市場跡遺跡の隅田川沿いで行っている調査では、江戸時代から明治時代にかけての石積護岸が確認され、その一部は海軍省時代の地図に描かれた突堤と位置が一致しています。1884年の地図に描かれた海軍用地の水際が、140年以上後の遺構調査で具体的にたどれる場所です。

関東大震災では築地の海軍施設群の大部分が火災で失われ、機能は各地へ移転しました。防衛省防衛研究所が紹介する史料では、その跡地が東京市中央卸売市場として利用された経緯を確認できます。1011左上の「海軍省」は、幕末の軍事施設、明治海軍、築地市場へと続く土地利用の途中段階を示しています。

月島造成前の隅田川河口と浅洲

1011の大部分を占める浅洲も重要な情報です。現在の月島は明治20年(1887)から行われた埋立てによって形成された地域で、1011の測量はその3年前に当たります。現在は市街地となった場所の沖合に、まだ広い浅い水域が残っていた時期です。

東京港の近代的な整備はさらに後です。東京都港湾局によれば、明治13年(1880)に東京府知事が築港論を提案し、本格的な第1期隅田川口改良工事は明治39年(1906)に始まりました。永代橋下流から航路入口までの浚渫しゅんせつが進められ、その土砂は月島や芝浦などの埋立造成にも使われました。1011は、この本格的な河口改良工事が始まる22年前の隅田川河口を記録しています。

そのため1011では、名称を無理に拾うよりも、「海軍省」と記された築地側の陸地と、その沖に広がる浅洲の対比が重要です。築地の海軍用地が近代的な施設群へ変わる一方、沖合には埋立てと港湾改修以前の地形が残っていました。

3枚を続けて見ると見えてくる明治東京の水際

1009では石川島の造船所・監獄署と越中島練兵場、1010では築地本願寺、米国公使館、立教大学校・立教女学校・海岸女学校、川崎造船所と蒸水器、海軍兵学校、兵器局製鋼所、治安裁判所、東京府旧運上所、水上警察署、陸軍省會計司倉庫、住吉社と二つの渡船場、1011では海軍省用地・軍艦砲台の表記と隅田川河口の浅洲を確認できます。3枚を続けると、江戸以来の埋立地や寺院地が、明治初期に工業・軍事・外交・教育・司法・通信・警察・水運の拠点へ組み替えられていく過程が具体的に追えます。

一方、1011の沖合には、月島造成や隅田川口改良工事より前の浅い水域が広がっています。石川島・越中島・築地で近代施設の整備が進む一方、そのすぐ沖には後に埋立てと浚渫しゅんせつで姿を変える河口地形が残っていました。1009〜1011は、明治17年(1884)の東京東南部で、近代都市の施設整備と湾岸地形の改造がまだ異なる段階にあったことを同時に記録しています。

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主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 中央区「中央区の沿革・ダイジェスト」
  • IHI「IHIの歴史」
  • 国立公文書館「旗本御家人III 仕事と暮らし―長谷川平蔵と人足寄場―」
  • 中央区「原胤昭関係文書」
  • 江東区「越中島練兵場跡」ほか越中島関係文化財資料
  • 築地本願寺「築地本願寺の歴史」
  • 中央区「アメリカ公使館跡の記念碑」
  • 立教大学「立教大学の歴史」
  • 青山学院「沿革」
  • 川崎重工業「船舶の歴史」「企業系譜」
  • 海上自衛隊「海軍兵学校の歴史」
  • 東京都埋蔵文化財センター「築地市場跡遺跡」発掘トピックス
  • 警視庁「東京湾岸警察署 沿革」
  • 東京都総務局「東京府の組織変遷」
  • 郵政博物館「ブレゲ指字電信機」
  • 国立公文書館『北の丸』第58号掲載の明治期裁判制度関係資料
  • 東京都埋蔵文化財センター「築地市場跡遺跡(隅田川スーパー堤防地区)」
  • 東京都港湾局「東京港の歴史」
  • 中央区「月島地区」
  • 防衛省防衛研究所「関東大震災100年―関東大震災に関する旧日本陸海軍の史料―」
  • 立教女学院「創立者/沿革」
  • 中央区「佃島渡船場跡」
  • 住吉神社「由緒」
  • アジア歴史資料センター「陸軍省」「兵部省」
  • 東京大学工学・情報理工学図書館「軍艦海門蒸留器之図」