両国駅の歴史を完全解説|房総ターミナルと3番線が残る理由

1935年、房総方面の列車を待つ旅客で混雑する両国駅 東京・街歩き・都市史
房総方面の列車を待つ旅客で賑わう両国駅、1935年。撮影:石川光陽/Wikimedia Commons/Public Domain。

両国駅には、中央・総武線各駅停車が使う高架の1・2番線とは別に、通常は立ち入れない地上の3番線があります。最盛期には地上の旧3~6番線、留置線、貨物設備が広がり、銚子、成田、勝浦、木更津、安房鴨川方面の列車が発着していました。

1904年に終着駅として開業し、1932年の御茶ノ水延伸で途中駅となった後も、房総方面の列車は両国発着を続けました。1972年に総武快速線が東京駅へ乗り入れると長距離列車の中心が移り、地上ホームは縮小されました。現在の3番線は、そのターミナル設備の一部です。

30秒で分かる結論

  • 両国駅は1904年4月5日、私鉄の総武鉄道が本所駅から路線を延ばし、「両国橋駅」として開業させました。
  • 駅は房総方面への旅客列車と貨物が集まる大ターミナルへ発展し、最盛期には現在よりはるかに多くのホームと線路を持っていました。
  • 1923年の関東大震災で構内と高架橋が被害を受け、1929年に現在まで残る駅舎が完成しました。1931年に「両国駅」へ改称されます。
  • 1932年に総武線が御茶ノ水まで延びると、両国は終着駅から途中駅になりました。それでも房総方面の準急・急行・季節列車は長く両国から発着しました。
  • 1972年7月15日、総武快速線が東京駅へ乗り入れ、房総方面の優等列車の中心は東京駅へ移りました。旧駅舎と3番線は、かつてのターミナルの記憶を今に残しています。
時代両国駅の役割
1904年から東京東部と房総各地を結ぶ終着駅
1932年から都心へ延びる通勤電車の途中駅であり、房総列車の発着駅
1972年から各駅停車を中心とする駅。長距離機能は東京駅へ移動
現在旧駅舎・3番線・国技館が鉄道史と地域文化を伝える駅

江戸の両国から鉄道の両国へ

鉄道開業前の両国は、江戸を代表する盛り場でした。両国橋の東西に火除地として広小路が設けられ、東側の回向院えこういんでは勧進相撲や開帳が行われました。隅田川の舟運、橋を渡る人々、見世物小屋や飲食店が集まる交通と娯楽の拠点でした。

千葉県方面への鉄道を建設した総武鉄道そうぶてつどうは、1894年7月に市川―千葉―佐倉間を開業し、同年12月に本所駅(現在の錦糸町駅)まで延伸しました。市街地での用地取得や道路との交差を避けながら東京側の起点を都心へ近づけるため、隅田川東岸の両国橋付近まで約1.5キロメートルを延ばし、大規模な終着駅を設けました。

1904年、両国橋駅が開業した

1904年4月5日、本所―両国橋間が開通し、両国橋駅が営業を始めました。駅名は近くの両国橋りょうごくばしに由来しますが、駅は橋の東側、現在の墨田区横網に設けられています。

延伸区間は市街地を通るため、線路を地上に敷けば道路交通を分断します。そこで煉瓦造りの橋脚に鉄桁を載せる高架線が採用されました。船橋市のデジタル資料は、この区間を日本で最初の高架鉄道と紹介しています。後年の東京では高架線が当たり前になりますが、両国橋への延伸は、その先駆けに位置づけられる工事でした。

駅が開くと、千葉・佐倉・銚子方面、さらに房総鉄道や成田鉄道につながる列車の東京側ターミナルになりました。農産物、魚介、雑貨なども房総から運ばれ、両国周辺には運送、宿泊、飲食の仕事が集まりました。

房総各地へ列車が出る巨大ターミナル

両国橋駅の発展を支えたのは、千葉県内へ伸びる鉄道網でした。総武線は佐倉から銚子方面へ、千葉からは大原・勝浦方面や木更津方面へつながります。1907年に総武鉄道が国有化された後も、両国は房総方面への列車が集まる東京側の玄関口であり続けました。

最盛期の両国駅には、現在の高架1・2番線に加え、地上に後の3~6番線にあたる二面四線の旅客ホームがありました。その北側には留置線と貨物設備が広がっていました。千葉市立郷土博物館は、両国駅にかつて6つのホームがあり、房総方面の準急・急行が発着していたと紹介しています。

1935年に石川光陽いしかわこうようが撮影したホーム写真には、大きな風呂敷包み、柳行李やなぎごうり、茶箱を持つ旅客が写っています。左側には銚子方面、右側には勝浦経由の安房鴨川あわかもがわ方面へ向かう列車が停車しています。帰省、商用、行楽の利用者が両国駅に集まりました。

1935年、房総方面の列車を待つ旅客で混雑する両国駅
房総方面の列車を待つ旅客で賑わう両国駅、1935年。撮影:石川光陽/Wikimedia Commons/Public Domain。

両国は旅客だけでなく、東京東部へ物資を運び込む貨物駅でもありました。三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」が紹介する1935年の統計では、到着貨物で最も多かった品目は醤油、発送貨物では大豆でした。銚子の醤油は総武本線を通じて東京へ運ばれました。隣接する江東青物市場への野菜類の到着も多く、1956年には雑穀、米、紙が主な到着貨物になりました。

海水浴の季節には、東京湾岸や外房へ向かう旅客が集中し、通常列車に加えて季節列車も運転されました。両国駅には通勤電車、房総方面の長距離列車、貨物列車が発着しました。貨物営業は1970年に廃止され、跡地の一部には後に現在の両国国技館が建設されました。

機能最盛期の両国駅現在
旅客ホーム高架1・2番線と、地上の旧3~6番線定期列車は高架1・2番線。地上3番線は特別利用が中心
長距離列車銚子・成田・勝浦・木更津・安房鴨川方面房総方面の中心は東京駅・総武快速線へ移動
貨物醤油、野菜、米、紙などを取扱い1970年に貨物営業を廃止

国技館ができ、両国駅は相撲の駅にもなった

1909年6月、回向院の近くに常設の旧両国国技館が開館しました。それまでの相撲興行は仮設小屋に依存する面がありましたが、大屋根を持つ常設館の誕生によって、両国は相撲の街としていっそう強く認識されます。

両国橋駅から旧国技館までは近く、本場所の日には鉄道が多数の観客を運びました。鉄道が国技館の集客を支え、国技館が駅前のにぎわいを強める関係です。ただし、この時代の駅の中心的な役割は、なお房総方面への大ターミナルにありました。「相撲の駅」という顔は、広い機能の一部として加わったものでした。

関東大震災と1929年の新駅舎

1923年9月1日の関東大震災は、両国橋駅と周辺市街地に大きな被害を与えました。駅舎そのものは完全倒壊を免れたとされますが、構内の車両、線路、ホーム、高架橋は損傷し、本所ほんじょ一帯は火災に包まれました。

1923年の関東大震災で被害を受けた両国橋駅の線路とホーム
関東大震災で被害を受けた両国橋駅構内、1923年ごろ。撮影者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain。

駅は応急施設で営業を再開しましたが、増え続ける旅客と貨物をさばくには不十分でした。震災復興と輸送力の回復を背景に、鉄筋コンクリート造の新駅舎が建設され、1929年に完成します。正面の三つの大きなアーチ窓と時計を備えた建物が、現在の西口旧駅舎です。

1929年に完成した両国橋駅の駅舎正面
1929年に完成した両国橋駅(現在の両国駅)の駅舎。撮影者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain。

帝都復興事業では、道路、公園、橋梁、高架鉄道が整備され、両国の交通と市街地が再編されました。両国駅の北東にある東京都復興記念館と横網町公園には、関東大震災と東京大空襲に関する資料が展示されています。

1932年、総武線は御茶ノ水へ伸びた

1931年10月1日、両国橋駅は「両国駅」へ改称されました。翌1932年7月1日、総武線は両国から秋葉原を経て御茶ノ水まで延伸します。新線は隅田川橋梁すみだがわきょうりょうで川を渡り、秋葉原では既存の鉄道と立体交差し、御茶ノ水で中央線につながりました。

開通後、両国駅は終着駅から途中駅へ変わり、千葉県側の利用者は秋葉原や御茶ノ水まで直通できるようになりました。

1933年には両国―市川間で電車運転が始まり、同年に船橋まで、1935年7月には千葉まで電化が延びました。通勤電車は高架線、房総方面の長距離列車は地上設備を使用し、両国駅では二つの運転体系が併存しました。

途中駅になっても、房総列車は両国から出続けた

御茶ノ水延伸後、各駅停車の電車は高架線を通って都心へ直通しました。蒸気機関車牽引の列車や長編成の客車列車には広い地上設備と折り返し機能が必要だったため、房総方面の普通列車、準急、急行、季節列車の多くは両国発着を続けました。

構内では、通勤電車用の高架ホームと長距離列車用の地上ホームが使い分けられました。車両がディーゼルカーや電車へ置き換わった後も、夏の海水浴列車や房総方面の優等列車が地上ホームを使用しました。

現在の1・2番線は中央・総武線各駅停車の高架ホーム、3番線は旧ターミナル側に残る地上ホームです。房総方面の列車が両国発着を続けたため、地上設備は段階的に縮小されました。

戦災と戦後の両国

1945年3月10日の東京大空襲では、本所・深川を中心とする東京東部が焼失し、両国駅周辺も大きな被害を受けました。駅付近上空から南へ向けて撮影された空中写真には、画面下に両国駅、中央右に焼けた旧両国国技館、右奥に隅田川が写っています。

1945年3月10日の東京大空襲後に上空から撮影された両国駅と周辺市街地
東京大空襲後の両国駅周辺、1945年3月10日。米軍撮影/Wikimedia Commons/Public Domain。

戦後は通勤・通学と物資輸送が再開され、総武線沿線の人口増加に伴って列車本数と輸送需要が増えました。

焼失した旧国技館は戦後に接収され、相撲興行の中心は蔵前へ移りました。両国駅では、通勤輸送と房総方面の列車発着が主要な役割になりました。

1972年、房総の玄関口が東京駅へ移る

大きな転換は1972年7月15日に訪れました。総武快速線が錦糸町から地下線で東京駅へ乗り入れ、総武本線の起点も東京駅へ改められます。房総方面の電車特急や快速列車が、都心の中心駅から直接発着できる仕組みが整いました。

これにより、両国が担っていた長距離列車の起終点機能は段階的に東京駅へ移ります。房総方面の利用者にとって、山手線や東海道・東北方面への乗り継ぎが便利になり、両国で乗り換える必要は薄れました。東京駅地下ホームは、近代的な「房総の玄関口」として両国に代わります。

両国発着の列車は減少し、広い地上ホームと留置線の役割も縮小しました。これは駅が衰退したというより、首都圏の鉄道網が拡張され、ターミナル機能がより都心へ移された結果です。両国は各駅停車を中心とする日常の駅へ変わり、巨大ターミナルだった空間が歴史の痕跡として残ることになります。

国技館が駅前へ戻り、鉄道の街から文化の街へ

鉄道の長距離機能が後退する一方で、両国駅前には文化施設が集まりました。1985年1月、現在の両国国技館が駅北側に開館し、蔵前に移っていた大相撲本場所が両国へ戻ります。駅と国技館が隣り合う現在の景観は、この時に形づくられました。

1993年には東京都江戸東京博物館が開館し、両国は江戸・東京の歴史を学ぶ街としても知られるようになります。同館は大規模改修を経て2026年3月31日にリニューアルオープンしました。鉄道で房総へ向かう人々を送り出した駅前は、相撲、歴史、観光を目的に人が集まる場所へ変化したのです。

両国国技館では大相撲本場所のほか、わんぱく相撲全国大会などが開かれ、大会日には駅周辺の人通りが増えます。

1929年の旧駅舎が残すターミナルの記憶

1929年完成の旧駅舎には、三つのアーチ窓、正面上部の時計、広い旧コンコースが残っています。2016年11月25日、旧駅舎内に「-両国- 江戸NOREN」が開業し、飲食・観光施設として再利用されました。

2016年のJR両国駅旧駅舎の外観
JR両国駅旧駅舎、2016年。撮影:D-s-yama/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

なぜ3番線だけ残ったのか

現在の3番線は、かつて房総方面の列車が発着した地上ホーム群の名残です。最盛期の両国駅には、高架の1・2番線とは別に、地上の旧3~6番線にあたる二面四線の旅客ホームがありました。1972年に総武快速線が東京駅へ乗り入れると、房総方面の快速・特急の中心は東京駅へ移り、両国で長距離列車を折り返す必要が急速に小さくなります。

その後、旧4~6番線側のホームと線路は、構内の縮小と再開発に伴って撤去されました。旧3番線は線路とホームが残され、臨時列車の発着、車両展示、催事に利用されています。公開資料で確認できるのは、現在も3番線が特別運行やイベントに使われていることまでです。

時期地上ホームの役割
ターミナル最盛期旧3~6番線から房総方面の普通・準急・急行・季節列車が発着
1972年以降快速・特急の中心が東京駅へ移り、地上ホームの役割が縮小
現在3番線のみが残り、臨時列車や特別企画で使用
2022年のJR両国駅3番線ホーム
JR両国駅3番線ホーム、2022年。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0。

現在の定期旅客列車は高架の1・2番線を使用します。3番線は、臨時列車、車両展示、駅員体験などの特別企画で利用されます。JR東日本の2026年の案内では、「普段立ち入ることのできない両国駅3番線」と紹介されています。

3番線には線路とホームが残り、現在も臨時利用されています。かつて地上に並んでいた旧3~6番線のうち、現存するホームです。

現在の両国駅で見つけられる歴史の痕跡

両国駅の歴史は、特別公開に参加しなくても駅周辺から読み取れます。まず西口では、1929年の旧駅舎正面、三連アーチ、時計、旧コンコースの広さが見どころです。現在の利用者数だけでは大きく感じる空間が、かつてのターミナル規模を物語ります。

場所読み取れる歴史
西口旧駅舎関東大震災後の復興と、房総ターミナルの玄関
高架の1・2番線1932年の御茶ノ水延伸後に強まった通勤路線の役割
地上の3番線房総方面の長距離列車が発着した旧ターミナル設備
隅田川橋梁総武線が両国を越えて都心へ延びた転換点
両国国技館1985年に相撲の本拠地が駅前へ戻った歴史
回向院と旧国技館跡江戸の勧進相撲から常設国技館へ続く土地の記憶

駅の東側には1904年に本所駅から延伸された高架線、西側には1932年の御茶ノ水延伸で開通した線路と隅田川橋梁があります。周辺には両国国技館、回向院、旧国技館跡、両国橋があり、江戸期から現代までの史跡が徒歩圏内に集まっています。

周辺の史跡を結ぶ経路は、両国歴史散歩にまとめています。

よくある質問

なぜ最初は「両国橋駅」という名前だったのですか?

1904年の開業時、駅は両国橋の東側にある東京側ターミナルとして設けられ、橋の名を取って両国橋駅と呼ばれました。1931年10月1日に両国駅へ改称されています。

両国駅はいつまで房総方面の始発駅でしたか?

1932年に御茶ノ水へ延伸した後も、房総方面の準急・急行・季節列車は両国発着を続けました。中心的な機能が東京駅へ移った転換点は、総武快速線が東京駅へ乗り入れた1972年7月15日です。その後も一部の臨時列車などで3番線が使われています。

3番線には普段入れますか?

3番線は通常の定期旅客列車には使われておらず、臨時列車、有料イベント、特別公開などの実施時に利用されます。公開条件は各催事の公式発表に掲載されます。

現在の駅舎は開業当時の建物ですか?

現在残る旧駅舎は、関東大震災後の輸送需要に対応するため1929年に完成しました。正面のアーチ窓と時計、旧コンコースが残っています。

国技館はずっと現在の場所にあったのですか?

現在の国技館は1985年開館です。1909年の旧国技館は回向院近くの別の場所にあり、戦後は本場所の会場が蔵前へ移りました。その後、駅北側の現在地へ戻っています。

両国駅120年の年表

年月出来事
1894年7月総武鉄道が市川―千葉―佐倉間を開業。
1894年12月9日市川―本所間が開通し、東京と千葉県が鉄道で結ばれる。
1904年4月5日本所―両国橋間が高架線で開通。両国橋駅が開業。
1907年9月総武鉄道が国有化される。
1909年6月旧両国国技館が開館。
1923年9月1日関東大震災で駅構内、高架橋、周辺市街地が被災。
1929年現在まで残る鉄筋コンクリート造の駅舎が完成。
1931年10月1日両国橋駅から両国駅へ改称。
1932年7月1日両国―御茶ノ水間が開通。両国は終着駅から途中駅へ。
1933年3月両国―市川間で電車運転が始まる。
1935年7月電化区間が千葉まで延び、通勤電車の役割が拡大。
1945年3月10日東京大空襲で両国駅周辺と旧国技館が大きな被害を受ける。
1972年7月15日総武快速線が東京駅へ乗り入れ、房総方面の中心ターミナルが移る。
1985年1月現在の両国国技館が開館。
1993年3月東京都江戸東京博物館が開館。
2016年11月25日旧駅舎内に「-両国- 江戸NOREN」が開業。
2026年3月31日東京都江戸東京博物館がリニューアルオープン。

まとめ

両国駅は、1904年に房総方面へのターミナルとして開業し、1932年の御茶ノ水延伸後も長距離列車の発着駅として使われました。戦後は房総方面の列車が段階的に東京駅へ移り、地上ホームの多くが撤去されました。

現在は、1929年完成の旧駅舎、中央・総武線各駅停車の高架ホーム、臨時列車や催事に使われる3番線、隅田川橋梁が残っています。これらは、両国駅が終着駅から途中駅へ移行した過程を示す施設です。

参考文献・資料