民藝SHOCK!!|河井寬次郎とは何者?静嘉堂51件でたどる民藝と作風の変化

静嘉堂@丸の内「民藝SHOCK!! ―没後60年 静嘉堂の河井寬次郎」入口の展覧会ビジュアル

2026年9月9日、静嘉堂@丸の内で「民藝SHOCK!! ―没後60年 静嘉堂の河井寬次郎」を鑑賞しました。会期は9月5日から11月8日までです。静嘉堂が所蔵する河井寬次郎作品51件を軸に、中国・朝鮮の古陶磁、英国のスリップウェア、日本各地の民藝陶器を並べ、河井が受けた刺激と作風の変化をたどる展覧会です。

河井寬次郎は、東京高等工業学校と京都市立陶磁器試験場で窯業技術を学び、東洋古陶磁を研究したのち、民藝運動の中心人物となりました。戦後は器の用途から離れた造形や木彫、書、文章にも活動を広げています。窯業技術者、民藝運動家、個人作家という複数の側面を持つ人物です。

民藝SHOCK!!は何を見る展覧会なのか

展示の中心は、静嘉堂が所蔵する河井寬次郎かわい・かんじろう(1890~1966)の51件です。公式出品目録を見ると、静嘉堂蔵の河井作品は1924年の《三彩薬師像》から1936~37年頃の《草絵壺》まで、民藝との出会い前後から昭和戦前期に集中しています。河井の作風が大きく変化した時期を厚く持つコレクションです。

初期作のそばには南宋・元などの中国陶磁が置かれ、民藝との出会いを扱う章では英国のスリップウェア、瀬戸、丹波、朝鮮陶磁などが並びます。河井作品と、その造形や技法の源泉となった器を同じ空間で比較する構成です。

静嘉堂『民藝SHOCK!!』Gallery 1の展示風景
Gallery 1「彗星出現―寬次郎の大正時代」の展示風景。中国古陶磁と河井寬次郎の初期作品を比較して見られる構成です。2026年9月9日撮影。

静嘉堂の国宝《曜変天目(稲葉天目)》も出品されます。河井の《曜変壺》《曜変櫛目盒子》と南宋・建窯の曜変天目を並べることで、古陶磁の技法や名称を研究しながら新しい表現へ展開した河井の仕事を確認できます。

2026年9月9日に実際に行ってわかったこと

2026年9月9日14:00ごろに入館し、15:00ごろまで約1時間鑑賞しました。チケット・インフォメーション前は数人が並ぶ程度で、長い待ち時間はありませんでした。会場内も歩きにくい混雑はありませんでした。

静嘉堂@丸の内のチケット・インフォメーション前
14時ごろのチケット・インフォメーション前。数人が並んでいましたが、長い待ち時間はありませんでした。2026年9月9日撮影。

ホワイエ中央には休憩用の座席があり、この時間帯は座る場所にも困りませんでした。展示室は広くなく、約1時間で全体を一巡できました。

静嘉堂@丸の内のホワイエと各展示室入口
静嘉堂@丸の内のホワイエ。中央に休憩用の座席があり、周囲にGallery 1~4の入口があります。2026年9月9日撮影。

ミュージアムショップは入口側にあり、展覧会図録や関連グッズが並んでいました。14~15時台はショップでも待ち時間はほぼありませんでした。

静嘉堂@丸の内ミュージアムショップ
静嘉堂@丸の内のミュージアムショップ。展覧会関連グッズや図録などが並んでいました。2026年9月9日撮影。

訪問日は会期前半の展示替え期間に当たります。公式出品目録では「◆」が9月5日~10月12日の展示、「◇」が10月14日~11月8日の展示です。訪問時には、《流し薬壺》(1930~31年頃)、《櫛目鉢》(1930年頃)、《草絵丸紋壺》(1932年頃)など、前期指定の作品が展示されていました。

写真撮影が認められているのはGallery 1とホワイエのみです。Gallery 2~4は撮影不可で、動画・フラッシュ撮影もできません。会場案内には三脚・セルフィースティックの持ち込み不可、混雑時は撮影を断る場合があることも明記されていました。

静嘉堂@丸の内『民藝SHOCK!!』会場の撮影可能エリア案内
会場ではGallery 1とホワイエのみ写真撮影が可能。Gallery 2~4は撮影不可で、動画・フラッシュ撮影も禁止されています。2026年9月9日撮影。

Gallery 1の入口には、展覧会タイトルと河井寬次郎を紹介する大型パネルが置かれていました。各展示室はホワイエから入る構成で、展示室間の移動でも大きな滞留は見られませんでした。

『民藝SHOCK!!』Gallery 1入口と展覧会解説パネル
撮影可能なGallery 1の入口。展覧会名と河井寬次郎を紹介する大型パネルが設置されています。2026年9月9日撮影。

河井寬次郎はどんな人物だったのか

窯業技術者として出発した

河井寬次郎かわい・かんじろうは1890年、島根県安来に生まれました。1910年に東京高等工業学校窯業科へ入り、のちに濱田庄司はまだ・しょうじと親しくなります。卒業後は京都市立陶磁器試験場で技師として働き、土や釉薬、焼成を科学的に研究しました。

河井の出発点は、近代的な窯業教育と試験研究でした。京都国立近代美術館が河井を「釉薬の河井」と評された作家として紹介するように、色や表面の変化を生む釉薬への探究は生涯の基礎になりました。

1921年のデビューは東洋古陶磁の技法で注目された

1920年、京都・五条坂に住居と工房「鐘溪窯」を構え、翌1921年に初個展を開きました。初期作品では中国・朝鮮を中心とする東洋古陶磁の技法を高度に消化し、青磁、三彩、鉄釉などを使い分けました。技術の確かさと華やかな造形で高い評価を得ます。

民藝参加後も東洋古陶磁の研究を生かした

民藝との出会いの後、河井は日常で使える鉢、皿、壺、食器などへ比重を移し、作品に窯印を押さなくなります。装飾も、英国のスリップウェアや日本各地の雑器に通じる流し掛け、筒描、櫛目などが前面に出るようになりました。

《紫紅瓜壺》には鈞窯を思わせる青と紫紅の釉調が残り、《草絵食籠》では朝鮮陶磁を思わせる器形と日本の民窯的な文様感覚が交差します。民藝参加後も、初期に蓄えた東洋陶磁の知識へ新たに発見した民藝の美を重ねました。

河井寬次郎と朝鮮―1919年の旅行から民藝、1930年代の再訪まで

河井寬次郎と朝鮮陶磁の関係は、1919年の実地旅行、1921年の流逸荘での展覧会、1920年代半ばの民藝への転換、1930年代の再訪へと続きます。会場の「河井寬次郎・岩﨑小彌太年表」と東京文化財研究所の河井年譜でも、この流れを確認できます。

1919年―濱田庄司と朝鮮・満州・大連を旅する

1919(大正8)年、河井は濱田庄司と朝鮮、満州、大連を旅しました。河井は京都市立陶磁器試験場を辞した後も各地の窯業を実地に見ており、この旅行も初期の陶磁研究の一環に位置づけられます。民藝という言葉が生まれる6年前の出来事です。

1921年―神田・流逸荘で李朝陶磁を集中的に見る

1921(大正10)年5月、河井は東京・神田の流逸荘で開かれた「朝鮮民族美術展覧会」を見ました。日本民藝館は同展を日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」と位置づけ、東京文化財研究所の年譜は、河井がここで李朝陶磁器の真髄に触れたと記しています。1919年の現地旅行に続き、李朝陶磁をまとまった形で見直す機会になりました。

河井寬次郎《魚文茶琖》大正10年(1921)頃
河井寬次郎《魚文茶琖》大正10年(1921)頃、個人蔵。吉州窯の玳玻天目に見られる技法を研究し、魚文を表した初期作。Gallery 1、2026年9月9日撮影。

1922(大正11)年の「李朝陶磁器展覧会」は京城(現ソウル)の朝鮮貴族会館で開催されました。1921年の東京・流逸荘の展覧会とは別の催しです。

河井寬次郎《繍花青瓷蟹爪文花瓶》大正11年(1922)頃
河井寬次郎《繍花青瓷蟹爪文花瓶》大正11年(1922)頃、個人蔵。南宋官窯など中国青磁への強い関心を示す初期作。Gallery 1、2026年9月9日撮影。

河井の作風の転換は段階的に進みました。1922年頃の《繍花青瓷蟹爪文花瓶》には中国青磁研究の成果が明瞭に残り、朝鮮陶磁への関心と中国古陶磁の研究が並行していたことが分かります。

1924~25年―柳宗悦と結びつき「民藝」へ向かう

1924年、英国から帰国した濱田庄司が河井と柳宗悦を結びました。柳は朝鮮工芸の蒐集と研究をすでに進め、同年には京城に朝鮮民族美術館を開設しています。河井は木喰仏、濱田が英国から持ち帰ったスリップウェア、京都の朝市で見た日用雑器などにも接し、関心を名品中心の古陶磁研究から無名の作り手による生活の器へ広げました。

1925年4月には柳・河井・濱田が伊勢へ旅し、その車中で「民衆的工藝」を縮めた「民藝」という語が生まれました。河井の転換は、朝鮮陶磁だけでなく、木喰仏、英国スリップウェア、日本各地の雑器など複数の出会いが重なって進みました。

河井寬次郎《草花壺》大正14年(1925)頃
河井寬次郎《草花壺》大正14年(1925)頃、個人蔵。白化粧地に鉄絵で草花を描き、磁州窯系の技法を自作へ取り込んだ作品。Gallery 1、2026年9月9日撮影。

1936~37年―柳・濱田と再び朝鮮へ

1936(昭和11)年、河井は柳宗悦、濱田庄司と朝鮮を旅し、会寧を経て満州・吉林まで足を延ばしました。翌1937年にも三人で朝鮮を再訪しています。会場年表にも両年の旅行が記されています。1936年には日本民藝館が開館し、河井は理事となっており、1919年の研究旅行から民藝運動の実践へと立場が変化していた時期です。

そもそも「民藝」とは何か

「民藝」は「民衆的工藝」を縮めた言葉です。1925年、柳宗悦やなぎ・むねよし、河井寬次郎、濱田庄司らがこの語を生み出し、翌1926年には「日本民藝美術館設立趣意書」を発表しました。彼らは、名も知られない職人が暮らしのために繰り返し作ってきた器、布、木工品などに注目しました。

民藝の考え方では、実際に使われること、地域の材料や技術に支えられていること、共同的な蓄積の中で作られることなどが重視されました。柳は、鑑賞用の「美術」の外側に置かれていた日用品に美を見いだし、その価値を言葉と蒐集、展覧会、美術館によって社会へ示しました。1936年に日本民藝館が開館し、作品の展示・蒐集と作り手の支援が継続されました。

民藝が地方の生活用具をどう再評価し、新しい製品づくりへつながったかは、当サイトの吉田璋也の「新作民藝」を解説した記事でも扱っています。

柳宗悦・濱田庄司・バーナード・リーチとの関係

濱田庄司――学校と試験場から続く最も近い同志

濱田庄司はまだ・しょうじは東京高等工業学校で河井の後輩にあたり、京都市立陶磁器試験場でもともに研究しました。1920年にはバーナード・リーチと渡英し、英国で作陶します。帰国後、濱田が持ち帰った古いスリップウェアは河井に強い刺激を与えました。

二人は民藝運動の中心に立ちながら、異なる作風を築きました。益子の材料と技法へ深く根を下ろした濱田に対し、河井は釉薬研究で培った色彩と、中国・朝鮮・日本・英国の器を横断する編集力を強く発揮します。

柳宗悦――批判から始まり、美を見る基準を共有した

柳宗悦やなぎ・むねよしは河井の初期の装飾的な作風を厳しく批判し、両者には距離がありました。静嘉堂の担当学芸員・山田正樹氏へのインタビューによれば、濱田が仲介し、河井が柳のもとで木喰上人の仏像に強い衝撃を受けたことが関係の転機になったとされています。

その後、柳・河井・濱田は京都周辺で古い日用雑器を探し、1925年に「民藝」の語を共有します。柳は思想と言葉、蒐集と美術館構想を担い、河井と濱田は制作の側から運動を具体化しました。

バーナード・リーチ――東西を行き来する回路をつくった

バーナード・リーチは英国出身の陶芸家で、1909年に来日し、柳宗悦らと交流しました。1920年、濱田庄司と英国へ渡り、セント・アイヴスでリーチ・ポタリーを築きます。東アジアの陶芸と英国の伝統的スリップウェアを往復するリーチと濱田の活動は、日本の陶芸家たちが西洋の「民衆の器」を見直す契機になりました。

河井とリーチは、濱田や柳を介した国際的な工芸ネットワークの中で結ばれていました。本展に英国スリップウェアが置かれるのは、その技法が河井の「流し薬」「流し描」へつながる刺激になったためです。

「民藝SHOCK!!」のSHOCKとは何か

静嘉堂の山田正樹学芸員によると、展覧会名の「SHOCK」は、河井が民藝へ向かう過程で受けた複数の衝撃を指します。

  • 朝鮮陶磁との出会い:河井は早くから朝鮮の器に強い関心を持ち、簡潔な形や鉄砂・染付などを自作へ取り込みました。
  • 木喰仏との出会い:柳宗悦が見いだした木喰上人の素朴で力強い彫刻に河井が衝撃を受け、柳との関係が深まる契機になりました。
  • 英国スリップウェアとの出会い:濱田庄司が英国から持ち帰った日用陶器の大胆な装飾は、河井の「流し薬」「流し描」へつながりました。

河井は、英国のスリップ技法と日本の丹波・瀬戸などの民窯に通じる装飾を結びつけ、朝鮮の器形と日本の文様も一つの器に組み合わせました。異なる土地と時代の器を比較し、窯業知識を使って自作へ再構成しています。

なぜ静嘉堂に河井寬次郎作品が51件もあるのか

静嘉堂のコレクションは、三菱第二代社長の岩﨑彌之助いわさき・やのすけと、その長男で三菱第四代社長となった岩﨑小彌太いわさき・こやたの父子が形成しました。静嘉堂によると、現在の美術品約6,500件は明治初期から1945年までに父子が蒐集したものを核としています。とくに小彌太は中国陶磁を体系的に集め、同時代の作家の作品も多数所蔵しました。

静嘉堂@丸の内ホワイエの岩﨑彌之助・岩﨑小彌太の胸像と館の案内パネル
静嘉堂のコレクション形成を担った岩﨑彌之助・岩﨑小彌太の胸像と、静嘉堂の沿革を紹介する案内パネル。2026年9月9日撮影。

河井の51件が集中する1924~37年頃は、小彌太が古陶磁と近代陶芸の双方へ目を向けていた時期と重なります。本展の第4章「岩﨑小彌太と近代陶芸―邸宅の装飾と愛用の品々」では、中国古陶磁の釉薬研究で知られ、小彌太の鳥居坂本邸のタイルも手がけた小森忍や、四代清風与平の作品も展示されています。

『民藝SHOCK!!』Gallery 3・4入口と河井寬次郎・岩﨑小彌太年表
Gallery 3・4入口。左右に河井寬次郎と岩﨑小彌太の年表が掲示され、両者が生きた時代と出来事を並べて確認できます。2026年9月9日撮影。

公開されている公式ウェブ資料では、河井51件それぞれの取得時期、入手先、価格までは示されていません。本展図録には山田正樹「静嘉堂の河井寬次郎―岩﨑家との関わりと初期から中期への作風の変化をめぐって」が収録され、岩﨑家との関係とコレクション形成を扱っています。

作風の変化を理解するために見たい作品

公式の出品目録(PDF)では、Gallery 1にあたる第1章「彗星出現―寬次郎の大正時代」に、中国古陶磁と河井の大正期作品が並びます。《三彩薬師像》は1924年作で、新海竹太郎が原型を制作し、河井が成形・施釉・焼成を担当しました。

新海竹太郎原型・河井寬次郎成形施釉焼成《三彩薬師像》大正13年(1924)
《三彩薬師像》大正13年(1924)。新海竹太郎が原型を制作し、河井寬次郎が成形・施釉・焼成を担当した作品。Gallery 1、2026年9月9日撮影。
作品年代見るポイント
《三彩薬師像》1924年民藝への大きな転換直前。新海竹太郎の原型を河井が成形・施釉・焼成した作品で、初期の高度な技術を確認できます。
《曜変壺》1927~28年頃黒釉の変化を「曜変」と捉えた研究的な仕事。古陶磁への探究が民藝参加後も続いていることが分かります。
《紫紅瓜壺》1929年頃鈞窯を思わせる青と紫紅の釉調と瓜形。民藝期にも中国陶磁から得た感覚が残ります。
《流し薬壺》1930~31年頃英国スリップウェアとの出会いを、白い化粧土の流れを生かした力強い装飾へ展開した作品。9月9日の訪問時に展示される前期指定作品です。
《流し描鉢》1931年頃白い泥漿を筒描で動かし、二つの手を思わせる文様を描きます。実用の鉢と大胆な図像が共存します。
《草絵食籠》1934年頃朝鮮陶磁を思わせる器形と、日本の民窯につながる草文様が一体化。複数の源泉を混ぜ合わせる河井の方法がよく表れます。
《練上鉢》1935年異なる色の土を組み合わせて模様を作る練上。唐代の絞胎など古陶磁との比較で、技法研究の広さが分かります。

河井作品の間には、鈞窯、磁州窯、龍泉窯、朝鮮陶磁、瀬戸、丹波、武雄、英国スリップウェアが配置され、古い器と河井作品を比較できる構成になっています。

民藝運動家であり、近代陶芸の個人作家でもあった

日本民藝館は、河井を民藝運動の推進者として多くの工芸家を牽引した人物と位置づけています。同館には柳宗悦が選んだ河井作品が約250点あり、1930年代から1950年代の実用品が多く含まれます。

河井は高度な専門教育を受けた個人作家でもあり、釉薬の実験を重ね、作品の形や文様を自ら大きく変化させました。戦後には器としての用途からさらに自由な造形へ進み、陶芸に加えて木彫、書、文章などにも活動を広げます。

国立文化財機構の皇居三の丸尚蔵館が公開する近代陶磁の展覧会資料では、河井の《紫紅四耳壺》(1928年)が「個人作家の登場」を扱う章に置かれています。民藝運動の実践者と近代陶芸の個人作家という二つの位置づけが確認できます。

河井寬次郎記念館は旧宅と仕事場を公開し、河井の世界を「暮し」と「仕事」が分かれないものとして伝えています。2026年にニューヨークで開かれた「Kawai Kanjirō: House to House」も、陶芸と木彫など130点以上を通じて、日常生活と制作を結びつける思想を紹介しました。

大阪大学の宮川智美による研究は、戦時下を河井自身が「思想上の転機」と捉えていたことを検討しています。制作条件が制限される中で、手仕事と機械、自然と人間の関係について考えを深め、その思考は戦後の造形や文章へつながりました。

同時代の陶芸家と比べると何が独自なのか

東京高等工業学校で河井を教えた板谷波山いたや・はざんは、精緻な成形と釉調を追究し、陶芸を近代の美術表現として高めました。富本憲吉とみもと・けんきちは白磁・染付・色絵を通して、独自の模様と器形を一体化する個人作家としての道を築きました。濱田庄司は益子に根を置き、地域の素材と反復可能な仕事の中から民藝の実践を深めました。

河井は近代的な窯業科学を学び、中国・朝鮮の古陶磁を研究し、英国スリップウェアや日本の民窯を吸収しながら、色彩の強い釉薬と大胆な文様を生み出しました。戦後は器の形そのものを変形させ、木彫や言葉へも進みます。「研究者」「民藝運動家」「個人作家」という三つの側面が併存しています。

民藝運動を現在からどう評価するか

民藝運動は、美術館や美術市場が高く評価してこなかった日用品、地方の手仕事、無名の職人の仕事に美的価値を見いだし、それを保存・展示・継承する仕組みを作りました。現在も日本民藝館展は「用に即し、繰り返しつくり得る製品」を公募しており、作り手と暮らしを結ぶ実践が続いています。

現在の研究では、民藝を見る側の権力関係も検討されています。柳宗悦は朝鮮の工芸を高く評価し、保存に力を尽くしましたが、朝鮮美術を「悲哀」と結びつけた説明は韓国の研究者から批判されてきました。中央の知識人や蒐集家が地方・植民地の器に「民藝」という価値を与えることで、作り手の名前、生活、創意、地域固有の歴史が見えにくくなるという問題も指摘されています。

東京大学UTCPの2026年の講演報告は、植民地や地方への一方向のまなざし、作り手の主体性を軽視する危険を扱いながら、柳の思想を権力関係だけへ還元しない読み直しも紹介しています。朝鮮工芸と柳宗悦の関係については、当サイトの浅川巧と朝鮮民芸を扱った記事でも紹介しています。

開催情報

展覧会名民藝SHOCK!! ―没後60年 静嘉堂の河井寬次郎
会期2026年9月5日(土)~11月8日(日)
会場静嘉堂@丸の内(明治生命館1階)
開館時間10:00~17:00(入館は閉館30分前まで)
夜間開館9月23日・10月28日は20:00まで、11月6日・7日は19:00まで
休館日月曜日(9月21日・10月12日は開館)、9月24日、10月13日
料金一般1,500円、大高生1,000円、中学生以下無料。障がい者手帳をお持ちの方は700円(同伴者1名無料)
チケット日時指定予約優先。当日券あり
撮影Gallery 1、ホワイエのみ写真撮影可。動画・フラッシュ不可
鑑賞日2026年9月9日

会期中は一部作品の展示替えがあります。展示期間は静嘉堂文庫美術館が公開している出品目録で確認できます。

参考文献・関連資料

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

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