2026年9月11日、銀座メゾンエルメス ル・フォーラムで、アン・ヴェロニカ・ヤンセンの日本初個展「東京、銀座5丁目4-1」が開幕しました。筆者も開幕日に会場を訪れています。
ヤンセンの作品には、絵画のような「正面」や、彫刻のような固定された形が見つけにくいものがあります。光、色、人工煙霧、ガラス、反射、音、温度といった現象が、鑑賞者の位置や動き、時間帯によって変化するからです。光、色、人工煙霧、ガラス、反射、音、温度といった現象は、鑑賞者の位置や動き、時間帯によって見え方が変化します。
実際に行ってわかったこと|初日のギャラリー・ツアーに参加
2026年9月11日の開幕日、16:00から銀座メゾンエルメス ル・フォーラムで行われた「ギャラリー・ツアー」に参加しました。公式案内での正式名称は「ギャラリー・ツアー」で、担当キュレーターがヤンセンの制作の様子や作品の背景を解説する催しです。初日の回は16:00に始まり、実際には17:00ごろまで約1時間かけて会場を巡りました。

初日のツアーでは、解説が始まると作品の周囲に参加者の輪ができました。ヤンセンの作品は、離れて全体を見るだけでは分かりにくく、見る位置を変えたり、作品の横へ回り込んだり、実際に身体を動かしたりすると変化が現れます。ツアー中も、参加者が位置を変えたり作品の横へ回り込んだりすると、色や反射、見える像が変化していました。

《Rose》は写真でも強い印象を残しますが、現地では7方向から伸びる光の筋と、その光を受ける空気の厚みがはっきり感じられました。16時台はガラスブロックから入る外光もまだ明るく、人工的なピンクの光と建物へ入る自然光が同時に見えます。光だけでなく、その光を受け止める銀座メゾンエルメスの建築まで作品体験に入り込んでいました。

《Untitled (blue glitter)》は床に広がる青いグリッターの作品です。正面のない作品なので、横を歩くと反射する場所が次々に移り、青の濃さも変わりました。写真では一枚の青い形に見えますが、現地では鑑賞者が動くことで作品の状態も変わって見えます。


特に印象に残ったのが《Magic Mirrors (Pink and Green)》です。ギャラリー・ツアーでは、作品は三層のガラスで構成され、中央のガラスが細かく砕かれていると説明されました。その亀裂の入り方は、防弾ガラスが割れたときに見られる状態にも似ています。左右や斜めから見ると、細かな亀裂の一つひとつが光を異なる角度で返し、ピンク、緑、青、黄などの色が大きく入れ替わります。正面から見た一枚の写真では、この変化はほとんど伝わりません。数歩動くだけで、反射と色彩が大きく変わりました。

新作《Calcium Carbonate》では、レンゾ・ピアノ設計の建物を象徴するガラスブロックそのものが作品の条件になっています。近づいて見ると表面の白い層によって外光が拡散し、普段のガラスブロックとは違う曖昧な透け方が生まれていました。今回の展覧会名が住所そのものになっている理由を、最も直接的に感じられる作品の一つです。

《Swings》では、鑑賞者が実際にブランコへ座ることで作品が成立します。熱反応性の塗料を使った座面には身体の熱が一時的な痕跡として残り、揺れる身体とともに周囲の見え方も変わります。「作品を見る側」と「作品の外側」がはっきり分かれない、ヤンセンらしい作品でした。

床に置かれた《IPE 250》は、遠目には工業用の鋼材そのものに見えます。ところが片面が鏡面仕上げになっており、近づくと人の足や照明、床の色が映り込みます。鏡面には、周囲の人の動きや照明、床の色が次々と映り込みます。
初日のギャラリー・ツアーは、通常の自由鑑賞では見落としやすい「見る位置」「光の入り方」「身体の動き」を意識するきっかけになりました。公式案内では、同じギャラリー・ツアーが9月18日(金)16:00からも予定されています。9月25日以降の毎週金曜日などには、会場スタッフによる「ガイド・ツアー」も17:00から実施予定です。いずれも事前予約不要と案内されています。
「東京、銀座5丁目4-1」は何を見る展覧会なのか
この展覧会では、作品の見え方そのものが変化します。同じ場所に立っていても、自然光が変わると色が薄くなったり強くなったりします。少し歩けば、ガラスや鏡面に映る像が変わり、光の輪郭も動きます。霧がある空間では距離感が失われ、普段なら背景として処理している空気そのものが目に入ってきます。
この展覧会には、1990年代以降のヤンセンの仕事を代表する考え方が集約されています。エルメス財団によると、会場には10点余りが構成され、《Rose》《Untitled (blue glitter)》《Swings》、そして自身の声をメディウムとする新作《Donut》などが含まれます。銀座メゾンエルメスの住所をそのまま展覧会名にしたのは、作品を建物から切り離さず、この場所の光、壁、空気、動線まで含めて考えるためです。
アン・ヴェロニカ・ヤンセンとはどんな作家か
アン・ヴェロニカ・ヤンセン(Ann Veronica Janssens)は1956年、イギリスのフォークストン生まれ。現在はベルギー・ブリュッセルを拠点に活動しています。1970年代後半には合板、ガラス、コンクリートなど比較的単純な素材を使い、1990年ごろから光、音、人工煙霧など、形を固定しにくい要素へと制作を広げました。
国際的な評価を決定づけた節目の一つが、1999年の第48回ヴェネチア・ビエンナーレです。ヤンセンはミシェル・フランソワとともにベルギー館代表として《Horror Vacui》を発表しました。その後もシドニー・ビエンナーレ(1998、2012年)、マニフェスタ10(2014年)、シャルジャ・ビエンナーレ14(2019年)などに参加しています。
個展も、WIELS(ブリュッセル、2009年)、ウェルカム・コレクション(ロンドン、2015年)、ナッシャー・スカルプチャー・センター(ダラス、2016年)、ルイジアナ近代美術館(デンマーク、2020年)、サウス・ロンドン・ギャラリー(2020年)、ピレリ・ハンガービコッカ(ミラノ、2023年)、M WOODS(北京、2023年)などで開催されてきました。彫刻の物質性を極限まで減らしながら、鑑賞者の知覚そのものを作品化する現代美術家として位置づけられています。
光、色、霧、ガラス、音は、なぜ美術になるのか
ヤンセンが扱う光や霧は、絵を照らすための照明ではありません。光そのものが色や厚みを持つように見えたり、霧によって壁までの距離が分からなくなったりする現象が作品です。ガラスや鏡面も、完成した形を見るためというより、反射や透過によって周囲の空間を不安定にするために使われます。
この考え方では、鑑賞者も作品の条件に入ります。見る位置を一歩変える、座る、歩く、時間を置く。そうした身体の動きによって作品の見え方が変わります。写真にすると一瞬の像だけが固定されますが、会場では「見えていたものが消える」「同じ色が別の色に感じられる」といった変化が続きます。
インスタレーションは、作品単体だけでなく、配置、建築、光、音、鑑賞者の動きまで含めて空間全体で成立する表現です。ヤンセンの場合、見えない光や空気も空間の構成要素になるため、この考え方と特に相性があります。
ミニマル・アートとの関係
ヤンセンの作品は、形を簡潔にし、余計な物語や装飾を減らす点でミニマル・アートと接点があります。ナッシャー・スカルプチャー・センターも、その形式的な親近性を指摘しています。ただし、巨大で明快な物体を置く方向より、光や色、空気の変化によって個々の鑑賞者が異なる経験をする方向へ進みました。
ライト&スペース、知覚芸術との関係
1960~70年代の米国西海岸では、光、透明素材、建築空間を使って知覚そのものを扱う「ライト&スペース」の作家たちが登場しました。ヤンセンにもこの系譜との共通点があります。一方で、彼女が重視するのは光の美しさを見せることだけではなく、見るという行為がどれほど不確かかを体験させることです。
霧の中では遠近感が崩れ、色光の中では空間の境界が曖昧になります。自分の目が世界を正確に写しているという感覚が揺らぐ。その瞬間に、知覚そのものが作品の主題になります。
代表作から知るヤンセンの特徴
1999年のヴェネチア・ビエンナーレで発表した《Horror Vacui》は、人工煙霧や光によって視界を変化させ、建築空間の確かさを揺さぶる仕事でした。2001年の《Blue Red Yellow》では、色のついた霧と光によって、鑑賞者が色の中へ入ったような状態を生み出します。ヤンセン自身は、霧によって光が物質化し、観客が彫刻の「中」にいるような状態になると語っています。
ロンドンのウェルカム・コレクションで2015年に発表された《yellowbluepink》も、濃い色霧の中で距離や方向感覚が変化する代表例です。2020年のサウス・ロンドン・ギャラリーでは《Hot Pink Turquoise》などを通じ、自然光と色、空間、身体の関係を扱いました。2023年のピレリ・ハンガービコッカ「Grand Bal」は、約40年に及ぶ実践を振り返る大規模展となりました。
「東京、銀座5丁目4-1」というタイトルの意味
展覧会名は銀座メゾンエルメスの所在地そのものです。これは住所を洒落として使った題名ではなく、作品が「どこに置かれるか」を明示しています。
エルメス財団は、今回の10点余りの作品を、この住所の物理的な観察から構想されたものとして紹介しています。床、窓、壁、自然光、ガラスブロック、街の明るさ、鑑賞者の移動。通常は作品の背景になるものが、ヤンセンにとっては制作材料です。別の白い展示室へ同じ作品を移せば、同じ体験にはなりません。
レンゾ・ピアノの建築と作品はどう結びつくのか
銀座メゾンエルメスは、建築家レンゾ・ピアノの設計で2001年に完成しました。外壁を覆う約1万8,000個のガラスブロックが大きな特徴で、昼は外光を柔らかく室内へ取り込み、夜は建物全体が街へ光を放つ「ランタン」のように見えます。
この建築は、ヤンセンの作品にとって特別な条件になります。壁で外界を遮断した美術館では照明を一定に保てますが、銀座メゾンエルメスでは天候や時間によって自然光が変化します。《Rose》の色光も、昼の外光が強い時間と夕方以降では見え方が変わります。会場のガラス面には新作《Calcium Carbonate》として炭酸カルシウムが吹き付けられ、ガラスの質感と光の透過も変えられています。
建物の透明性と、ヤンセンが扱う透過・反射・拡散が重なることで、展示室と銀座の街を完全には切り分けられない状態が生まれます。時間帯まで含めて作品条件になるため、写真一枚から完成形を想像しにくい展覧会です。
今回の展示に並ぶ主な作品
《Rose》──光を「物体」のように見る
《Rose》(2007年)は、複数のスポットライトと人工煙霧を使う作品です。霧の微粒子が光を散乱させることで、本来は見えない光の通り道が空間に現れます。見る位置によって光が星形のように重なったり、輪郭が崩れたりします。
《Rose》では、触れられない光が霧の中で厚みのある物体のように感じられます。ヤンセンは光と空気を使い、彫刻のような空間的な体験をつくります。
《Untitled (blue glitter)》──床のきらめきと時間
《Untitled (blue glitter)》は、微細な青いグリッターを使う作品です。固定された色面ではなく、光の角度や鑑賞者の位置によって反射が移動します。歩くことで明るい部分と暗い部分が入れ替わるため、作品の姿は一つに定まりません。
《Swings》──身体の熱が一時的な像になる
《Swings》(2000–2023年)は、ロープと木でできたブランコに熱反応性の塗料を使った作品です。身体が接した場所に熱の痕跡が現れ、やがて消えていきます。形のある家具と、すぐ消える体温の像が同居しています。
《Magic Mirrors (Pink and Green)》──三層ガラスの亀裂と色の変化
《Magic Mirrors (Pink and Green)》(2013年)は、三層のガラスを用いた作品です。三層のガラスのうち中央層が細かく砕かれ、その亀裂を外側のガラスが保持しています。ギャラリー・ツアーでは、この割れ方は防弾ガラスが割れたときの状態にも似ていると説明されました。作品自体が防弾ガラスという意味ではなく、中央層に広がる細かな亀裂の見え方についての説明です。
ガラスの層には光を選択的に通すフィルムが組み合わされ、亀裂の一つひとつが異なる角度で光を反射します。そのため、正面では緑が強く見えた部分が、数歩移動すると黄色や青、ピンクへ変わり、周囲の人影や展示室も重なって見えます。所属ギャラリーのエスター・シッパーも《Magic Mirrors》について、三層ガラスの中央層を細かく破砕し、見る人の移動と光によって色と反射が変化する作品と説明しています。
同じ会場の《Water Glass Roll (110)》や《IPE 250》も、透明性や鏡面反射によって周囲を取り込む作品です。いずれも正面から一度見るだけでは特徴をつかみにくく、横へ動いたり、少し離れたりすることで見え方が変わります。
新作《Donut》──「見る作品」を声だけで想像する
新作《Donut》(2026年)は約8分46秒の音響作品です。ヤンセン自身の声で、さまざまな展覧会の作品説明が読み上げられます。実物を目の前に置かず、言葉だけから作品を想像するため、同じ説明を聞いても頭に浮かぶ像は人によって異なります。
光や霧で視覚の確かさを揺らしてきた作家が、ここでは言葉と想像のずれを扱っています。「見えるものをどこまで信じられるか」という問題が、「言葉から同じものを想像できるか」という問題へ広がっています。
写真だけでは伝わりにくい理由
ヤンセンの作品は、撮影すると魅力的な色面や光の写真になります。しかし写真は、鑑賞者が動いた時間と、自然光が変化した時間を一枚に固定します。霧の中で距離感を失う感覚、光の中へ身体ごと入った感覚、椅子に残る熱の時間、鏡面を横切る像の変化は静止画では残りません。
現地では、鑑賞者の移動と時間の経過によって作品の見え方が変化します。同じ展示でも、昼と夕方、晴天と曇天では自然光の条件が異なります。銀座メゾンエルメスの建築そのものが作品体験に組み込まれているためです。
なぜエルメスは無料で現代美術展を続けているのか
銀座メゾンエルメスのル・フォーラムでは、開館以来20年以上にわたり現代美術の展覧会が開かれてきました。2008年に設立されたエルメス財団は、エルメスを母体としながら非営利組織として運営され、現代美術、工芸、舞台芸術、教育、環境などを支援しています。
ル・フォーラムの展覧会では、既成作品を借りて並べるだけでなく、展示空間に合わせた新作制作を支援してきました。入場を無料とし、作品解説や批評を含む冊子も用意することで、購入者に限らない観客が現代美術へ接する場をつくっています。
銀座メゾンエルメスを構想したジャン=ルイ・デュマは、建物を「逆さまの木」にたとえ、上層部のギャラリーや映画館を文化を吸収する「根」と位置づけました。文化支援は公共的なメセナである一方、工芸、創造性、長期的な制作支援を重視する企業像を社会へ示す活動でもあります。無料展を単純な広告と見るより、非営利財団の文化事業と、企業が文化的価値を表現する場が重なっていると捉える方が実態に近いでしょう。
開催情報
- 展覧会名:「東京、銀座5丁目4-1」アン・ヴェロニカ・ヤンセン展
- 会期:2026年9月11日(金)~2027年1月11日(月・祝)
- 会場:銀座メゾンエルメス ル・フォーラム 8・9階
- 住所:東京都中央区銀座5-4-1
- 開館時間:11:00~19:00(最終入場18:30)
- 休館日:水曜日、年末年始
- 料金:無料
- 主催:エルメス財団
- 協力:エスター・シッパー
ル・フォーラムへはソニー通り側の専用エレベーターを利用します。混雑時には入場を待つ場合があります。開館・休館情報は変更される可能性があるため、来場前に公式情報を確認してください。
光や空間を使う現代美術を別の環境で見比べたい場合は、Hibiya Art Park 2026の見どころ解説も参考になります。屋外と建築内部では、同じ「光」でも作品の成立条件が大きく異なります。
参考資料
- エルメス公式「『東京、銀座5丁目4-1』アン・ヴェロニカ・ヤンセン展」
- エルメス公式「銀座メゾンエルメス」
- Fondation d’entreprise Hermès, “Le Forum”
- Fondation d’entreprise Hermès, “Exhibitions at Le Forum 2008–2016”
- Lanterne Hermès, “The secret of the glass blocks”
- Esther Schipper, “Ann Veronica Janssens, Magic Mirrors”
- Nasher Sculpture Center, “Ann Veronica Janssens”
- Sharjah Art Foundation, “Ann Veronica Janssens”
- Louisiana Channel, “Ann Veronica Janssens: In Dialogue with Physics”
- Studio International, Ann Veronica Janssens interview
- Burlington Contemporary, “Ann Veronica Janssens”

