無窮洞とは?児童生徒が掘った約600人規模の地下教室・防空壕を解説

佐世保市の旧宮村国民学校の児童生徒らが掘った無窮洞

長崎県佐世保市には、太平洋戦争中に旧宮村国民学校の教師と児童生徒が掘った地下教室・防空壕「無窮洞(むきゅうどう)」が残っています。

佐世保市の最新資料では、主洞は幅5m・奥行19m、副洞は幅3m・奥行15m。内部には教壇、書類室、台所、食糧庫、水飲場、便所、避難道、非常階段などが設けられ、空襲時には全校約600人が避難しました。

掘削は1943年8月29日に始まり、1945年8月15日の終戦まで続きました。教師の指導のもと、高等部の生徒を中心に、男子が掘削、女子が壁面の整形、下級生が土砂や石の搬出を担いました。

無窮洞はどこにある?

無窮洞は長崎県佐世保市城間町にあり、旧宮村国民学校、現在の佐世保市立宮小学校の裏山に掘られました。佐世保中心部からは離れ、ハウステンボスに比較的近い地域です。

2002年、佐世保市の市制100周年を記念して整備され、一般公開が始まりました。現在は無窮洞顕彰保存会が維持管理と案内を行っています。

軍港都市・佐世保の学校防空施設

佐世保は1889年の佐世保鎮守府開庁以後、海軍工廠、軍港、航空隊、砲台、倉庫、鉄道などが集まる軍港都市として発展しました。太平洋戦争期には海軍艦艇の建造・修理と軍需輸送を担う重要拠点となり、空襲への備えは軍施設だけでなく、市役所、町内会、学校、家庭へ広がりました。

宮村国民学校があった宮地区は佐世保中心市街地から離れていますが、軍港都市全体が空襲対象となる状況では、郊外の学校も防空体制の外にはありませんでした。国民学校は1941年の国民学校令で小学校から改編された学校制度で、戦時下では防空訓練、勤労、集団行動が教育の日常へ組み込まれていきます。無窮洞は、こうした戦時教育と地域防空が重なった場所です。

無窮洞の特徴は、単に児童生徒を短時間退避させる壕ではなく、地上校舎が使えなくなっても授業と学校生活を続ける「地下教室」として造られたことです。主洞の教壇、書類室、台所、食糧庫、水飲場、便所、避難道まで備えた構造は、空襲が一時的な出来事ではなく、学校そのものを地下へ移さなければならない事態として想定されていたことを示します。

掘削開始は1943年8月29日

佐世保・小値賀公式観光サイトによると、掘削は1943年8月29日に当時の宮村国民学校校長の発案で始まりました。工事は1945年8月15日の終戦まで約2年間続きました。

佐世保市の資料では、学校裏山の凝灰岩をくり抜いて造ったと説明されています。終戦まで拡張が続いたため、完成後に長期間使われた施設ではなく、戦争末期の防空強化と並行して掘り進められた地下施設です。

教師と児童生徒が分担して掘った

佐世保市の最新案内では、教師の指導のもと、国民学校高等部の生徒たちが掘削の中心を担ったと説明しています。高等科は現在の中学生に近い年齢層です。一方、佐世保市の地域コミュニティ資料には「4年生以上の生徒と教師」が約2年間掘ったという地域側の説明も残ります。資料によって参加範囲の表現に差があるため、少なくとも高等科生徒が主要な掘削作業を担い、より下の学年も土砂搬出などに加わったと見るのが安全です。

  • 男子:ツルハシなどで凝灰岩を掘削
  • 女子:掘削後の壁面や天井を整形
  • 下級生:掘り出した土砂や石を坑外へ搬出

ここで重要なのは、専門の坑道部隊が学校のために完成品を造ったのではない点です。教師と児童生徒自身が、授業や学校生活と並行しながら日常的に掘削へ参加しました。主洞の教壇や各室が滑らかに整形されていることからも、単に穴を掘るだけでなく、実際に教室として使える形へ仕上げる作業まで学校側が担ったことが分かります。

児童生徒が軍需工場へ学徒動員された事例は全国にありますが、無窮洞では自分たちの学校の防空施設そのものを自分たちで建設しました。戦時下の教育が勤労と防空をどこまで日常化していたのかを、空間そのものが示している点が無窮洞の大きな歴史的価値です。

主洞5m×19m、副洞3m×15m

無窮洞の主洞は幅5m、奥行19m、副洞は幅3m、奥行15mです。主洞正面には岩盤を削り残して造った教壇が設けられ、佐世保市の平面図では主洞を中心に書類室、台所、食糧庫、水飲場、便所、副洞、避難道が接続しています。大空間を一つ掘るだけでなく、学校運営に必要な機能を室ごとに分けた構成です。

避難道の奥にはらせん状の非常階段が設けられています。入口が爆撃や崩落で塞がれた場合に別方向へ脱出するための経路で、学校防空壕として避難後の安全まで考えた構造でした。現在の佐世保市案内図には、主入口側に「敢闘門」、副洞側に「嘗胆門」という名称も記されています。

公式観光案内では、天皇の写真である御真影を奉安するための部屋も設けられていたと紹介されています。教壇、書類室、御真影奉安の空間、台所、食糧庫、便所が同じ地下施設に組み込まれていることから、無窮洞は避難施設であると同時に、戦時下の学校制度と日常生活を地下へ再現しようとした施設だったことが分かります。

地下に教壇と台所が造られた

無窮洞には教壇があり、避難中も授業を行うことを想定した構造になっています。台所には現在もかまどが残り、食糧庫や水飲場も設けられました。

短時間の退避だけでなく、空襲が長引いた場合や校舎を使用できない状況まで想定した地下空間でした。

空襲時には全校約600人が避難

佐世保市の最新案内資料と公式見学案内では、空襲時に全校約600人が無窮洞へ避難したとされています。

一部の観光情報には約500人という表記もありますが、現在の佐世保市資料に基づき約600人とします。

600人避難時の酸欠と「唐み」の送風

約600人が避難した際、洞内は酸欠状態になりました。佐世保市資料には、農家から「唐み(とうみ)」を借り、入口から空気を送り込んだ記録が残っています。

唐みは、風を起こして穀物と籾殻などを選別する農具です。その送風機能が地下壕の換気に利用されました。多数の人が避難する地下空間では、換気、飲料水、便所、食料などの設備も必要でした。

1945年6月29日の佐世保空襲

1945年6月29日未明、佐世保市街は米軍爆撃機による大規模な空襲を受けました。佐世保市の2026年更新資料では、焼失面積178万平方メートル、全焼家屋12,037戸、被災者60,734人、死亡者1,242人、負傷者336人とされています。

1945年9月の空襲後に破壊された佐世保市街
1945年9月の空襲後の佐世保。U.S. Navy / Wikimedia Commons(Public Domain)

掲載写真は1945年9月に米海軍が撮影した空襲後の佐世保市街で、無窮洞を撮影したものではありません。

無窮洞と佐世保大空襲の位置関係

無窮洞がある宮地区は、佐世保中心市街地から離れています。6月29日の大空襲で焼失した中心市街地の中に無窮洞があるわけではありません。

無窮洞は、軍港都市佐世保への空襲が現実の脅威となる中で学校が整備した防空施設であり、実際の空襲警報時に児童生徒が避難した場所です。

「無窮」の文字と名前の意味

佐世保市の資料では、「無窮」は「極まりがなく、無限」という意味と説明されています。主洞正面の岩壁には当時の校長が書いた「無窮」の文字が刻まれています。

教壇と「無窮」の文字は、地下教室を象徴する部分として現在も残っています。

終戦の日まで掘削が続いた

無窮洞の工事は1945年8月15日の終戦まで続きました。1943年から約2年間、学校生活と並行して教師と児童生徒が掘削を続けました。

2002年から一般公開

戦後、無窮洞は学校防空壕の遺構として残り、佐世保市は2002年の市制100周年を記念して内部を整備し、一般公開を始めました。現在は無窮洞顕彰保存会が維持管理と案内を担い、地域住民が現地で戦時体験を伝える仕組みが続いています。

見学者数からも、無窮洞が地域内だけの小規模な遺構ではないことが分かります。佐世保市教育委員会の統計では、2022年度15,334人、2023年度18,036人、2024年度14,958人が見学しました。コロナ禍前の2016年度には31,658人を記録しており、長年にわたり市内有数の公開文化財として利用されています。

無窮洞は日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財にも位置づけられています。佐世保市教育委員会は2020年度に、戦時中に無窮洞へ関わった人々の証言を収録した約17分の記録映像を制作しました。遺構そのものだけでなく、掘削した世代の記憶も記録して継承する取り組みです。

日本遺産は、個々の建物や遺跡を国の指定文化財にする制度ではなく、地域の歴史を一つのストーリーとして文化庁が認定する制度です。無窮洞は軍港都市佐世保の近代化と戦争末期の防空体制を伝える構成資産として、針尾送信所や旧鎮守府関連施設などと一緒に読み解くことができます。

2026年9月現在は無料で見学できる

  • 所在地:長崎県佐世保市城間町3-2
  • 営業時間:9:00~17:00
  • 見学受付:9:00~16:30
  • 休日:年末年始
  • 料金:無料
  • 見学所要時間:約30分
  • 定員:1~45人
  • 申込:当日まで・電話
  • 駐車場:無料

見学申込先は無窮洞顕彰保存会です。訪問時は佐世保・小値賀公式観光サイトで最新の見学条件を確認してください。

見学時に確認できる6つのポイント

1.岩盤を利用した教壇

避難中の授業を想定した教壇が、無窮洞の用途をよく示しています。

2.主洞と副洞の寸法

主洞は幅5m・奥行19m、副洞は幅3m・奥行15mです。約600人が避難した空間の規模を実際の寸法と比較できます。

3.台所とかまど

台所、かまど、食糧庫、水飲場は、一定時間の地下生活を想定した設備です。

4.避難道と非常階段

複数の脱出経路を設け、入口が塞がれる危険に備えた構造が残っています。

5.壁面の掘削痕

教師と児童生徒がツルハシなどを使って掘り進めた岩盤の表面を確認できます。

6.約600人と換気

多数の避難で酸欠が起き、唐みを使って送風した記録があります。地下空間では収容人数と換気設備が安全性に直結します。

軍事地下施設と比べた無窮洞の特徴

日本各地の地下壕・地下軍事施設には、司令部、軍需工場、航空基地などさまざまな用途があります。豊川海軍工廠の防空壕が軍需工場で働く人々を守る施設だったのに対し、無窮洞で地下に移されたのは学校生活でした。

同じ長崎県の長崎県防空本部跡(立山防空壕)は、行政と警察の指揮通信機能を地下に置いた施設です。無窮洞は教室、台所、食糧庫、便所、非常階段を備え、学校防空の実態を伝えています。

参考文献・確認先

  1. 佐世保市「無窮洞(旧宮村国民学校地下教室)」最新案内PDF
  2. 佐世保・小値賀公式観光サイト「巨大防空壕『無窮洞』見学」
  3. 佐世保・小値賀公式観光サイト「無窮洞」
  4. 佐世保市「佐世保空襲」
  5. 長崎県「戦争遺跡・遺構」
  6. 佐世保市「戸尾市場(とんねる横丁)」
  7. 佐世保市教育委員会「佐世保に残る歴史遺産『無窮洞』」
  8. 佐世保市教育委員会「令和7年度 歴史文化の保存・活用・継承」
  9. 佐世保市「地域コミュニティ推進事業・宮地区」
  10. 佐世保・小値賀公式観光サイト「巨大防空壕『無窮洞』見学」