1945年8月9日午前11時2分、長崎市上空で原子爆弾が炸裂しました。爆発直後の長崎では、被害の全体像をすぐに把握することができませんでした。
その混乱の中で、被害情報を集め、救援・救護を指示し、県内外へ応援を求め、中央政府へ被害状況を伝えた場所が長崎市立山に残る長崎県防空本部跡、通称「立山防空壕」です。
爆心地から約2.7km。壕内には知事室、警察部長室、防空監視隊本部、無線室などが置かれ、空襲時の長崎県の防空行政を指揮する拠点となっていました。原爆投下時には県知事らが新型爆弾対策会議を行っており、そのまま原爆被災への対応拠点となりました。
- 立山防空壕は県の防空行政を動かす地下拠点だった
- 築造は1945年1月から4月ごろ
- 知事室・警察部長室・無線室が並ぶ内部
- 金比羅山が爆風と熱線を遮った
- 8月9日、県知事らは新型爆弾対策会議中だった
- 第一報だけでは壊滅的被害を把握できなかった
- 「広島と同じ新型爆弾」の可能性を探った
- 浦上の被害把握後、救援要請と中央への報告を進めた
- 原爆投下当日から被害調査も始まった
- 防空本部が残っても都市機能の被害は甚大だった
- 2005年から一般公開
- 国史跡「長崎原爆遺跡」への追加指定を目指す調査
- 2026年9月現在は無料で内部を見学できる
- 長崎の原爆関連遺跡の中での位置づけ
- 全国の地下壕と比べた立山防空壕の特徴
- 見学時に確認できる5つのポイント
- 参考文献・確認先
立山防空壕は県の防空行政を動かす地下拠点だった
長崎県防空本部は、空襲被災時にも監視、消防、警報、避難、救護、非常用物資配給、応急復旧などの防空業務を続けるために設けられました。
空襲警報が発令されると県知事らが集まり、警備、救援、救護、連絡、指揮、被害情報の収集、通信などを行いました。住民の一時避難を主目的とする防空壕とは役割が異なり、行政と警察の指揮通信機能を地下に収めた施設でした。
築造は1945年1月から4月ごろ
長崎市の2026年度資料では、築造時期を1945年1月から4月ごろ、構造を横穴式コンクリート造としています。戦争末期、本土空襲が激しくなる中で、行政中枢を地下に置くために造られました。
長崎は造船所や兵器工場など軍需施設が集中する都市でした。空襲下でも県の防空業務を維持する必要から、立山に防空本部が整備されました。
知事室・警察部長室・無線室が並ぶ内部
壕内には知事室、警察部長室、防空監視隊本部、主無線室、参謀室などが置かれていました。行政トップ、警察、防空監視、通信が同じ地下空間に集約されています。

各地から電話や無線で情報を集め、そこから救護や警備の指示を出す構造でした。現在の展示では、地下壕で発見された救護用電話の部品も公開されています。
金比羅山が爆風と熱線を遮った
立山防空壕は爆心地から約2.7kmにあり、爆心地との間に金比羅山があります。長崎市は、この山が原爆の熱線や爆風を遮ったと説明しています。
立山側の被害が爆心地周辺より小さかったため、防空本部の機能は残りました。一方で、山に遮られて爆心地方面の惨状を直接確認しにくく、原爆投下直後の被害把握にも影響しました。
8月9日、県知事らは新型爆弾対策会議中だった
広島への原爆投下から3日後の1945年8月9日、立山防空壕では長崎県知事らが新型爆弾対策会議を行っていました。
午前11時2分に原爆が炸裂すると、会議参加者はそのまま被災対応へ移りました。防空本部は、事前に想定された空襲指揮所から、実際の原爆災害への対応拠点となりました。

掲載写真は長崎原爆のキノコ雲を記録した歴史写真で、立山防空壕から撮影されたものではありません。
第一報だけでは壊滅的被害を把握できなかった
原爆投下直後、防空本部には人や家畜の死傷なし、全壊家屋なしといった軽微な被害を伝える報告も届きました。
すぐに連絡できた警察署は原爆で壊滅していない地域にありました。爆心地周辺では警察署や通信網そのものが大きな被害を受け、被害情報を直ちに送ることが困難でした。そのため、通信可能地域の第一報だけでは市全体の被害を捉えられませんでした。
「広島と同じ新型爆弾」の可能性を探った
長崎市が紹介する記録では、被爆直後の防空本部で、警察幹部と県知事が広島と同じ新型爆弾の可能性についてやり取りしています。広島への投下から3日しかたっておらず、行政側にも兵器の実態について十分な情報はありませんでした。
現場から届く断片的な報告をつなぎ合わせながら、爆発の規模と被害範囲を判断する状況が続きました。
浦上の被害把握後、救援要請と中央への報告を進めた
時間が経つにつれて浦上地区など爆心地周辺の被害情報が入り、防空本部は被害の大きさを把握していきました。
長崎市の2026年度資料によると、防空本部は長崎市内各地の警察官へ被害情報の把握と救護を指示し、県内各警察署と佐賀県警察部へ救援を要請しました。被害情報は中央にも発信されました。
立山防空壕は、市内の被害を外部へ伝え、外からの救援を求める通信拠点として機能しました。
原爆投下当日から被害調査も始まった
長崎県防空本部は、原爆の威力について投下当日から調査を始めました。長崎市「ながさきの平和」によると、8月9日に判明した内容を『原爆災害報告』第四報で報告し、その後も長崎市防衛本部と調査を続けています。
救護と並行して、爆発の範囲、被害状況、兵器の性格を把握する作業が進められました。
防空本部が残っても都市機能の被害は甚大だった
立山防空壕は機能を維持し、県外への救援要請などを行いました。一方、爆心地周辺では医療機関、消防、警察、道路、通信などが大規模に破壊されました。
指揮拠点が残っていても、現場組織や通信網が破壊されれば情報収集と救援は大きく制約されます。立山防空壕には、原爆災害下で行政機能を維持しようとした記録と、その限界の両方が残っています。
2005年から一般公開
立山防空壕は、原爆投下直後の行政対応を伝える被爆建造物として保存され、安全確保の補強工事を経て2005年11月から一般公開されています。長崎市の2020年度資料では、公開後の年間来場者は1万人を超えていました。
一方、地下構造物は公開すればそのまま保存できるわけではありません。公開から14年ほどたった時点で、見学スペースには壁面のひび割れ・剥離、湧水などの劣化が確認されました。長崎市は2020年度に三次元レーザー測量、ボーリング、覆工調査、岩石試験、地下水調査、弾性波調査、地盤解析などを実施し、地下壕の構造と劣化状況を把握しました。単なる補修ではなく、山体とコンクリート覆工の状態を計測して長期保存方法を検討する事業です。
その後も応急修理や電気設備の更新、立入制限区域の公開に向けた調査が進められています。被爆直後の姿を残すことと、見学者の安全を確保することを両立させる必要があり、保存工事そのものが現在進行形の文化財保護事業になっています。
原爆資料館が投下の経緯や被害全体を体系的に伝えるのに対し、立山防空壕では被爆直後に県行政と警察がどのように情報を集め、救援を手配したのかを実際の場所で確認できます。壕内に残る部屋配置や通信設備の痕跡は、原爆被害を「破壊された都市」だけでなく、「破壊の直後に行政が何をしようとしたか」という視点から読むための資料です。
国史跡「長崎原爆遺跡」への追加指定を目指す調査
2026年9月時点で、立山防空壕は国史跡「長崎原爆遺跡」の構成遺構にはまだ追加指定されていません。
長崎市は追加指定を目指して調査を進め、2024年度に遺構範囲を確認する試掘調査を実施しました。2026年度の市議会資料では、2025年度末に刊行予定の調査報告書をもとに文化庁へ意見具申を行う計画が示されています。
被爆時に行政・警察の指揮通信拠点として実際に使用された点が、文化財として高く評価されています。
2026年9月現在は無料で内部を見学できる
- 開壕時間:9:30~17:00
- 入壕料:無料
- 閉壕日:毎月第3月曜日。祝日の場合は翌日
- 所在地:長崎市立山1丁目
- 爆心地から:約2.7km
- 最寄り:「歴史文化博物館」バス停から徒歩約5分
- トイレ:現地にはなし
点検などによる臨時休壕があります。壕内では当時地下壕にいた人の証言パネルや、救護用電話の部品などを見学できます。訪問時は長崎市公式「ながさきの平和」で最新の開壕状況を確認してください。
長崎の原爆関連遺跡の中での位置づけ
爆心地は原爆が炸裂した地点、旧城山国民学校校舎は爆心地近くの学校被害、山王神社二の鳥居は爆風による建造物被害を伝えます。長崎原爆資料館は投下の経緯と被害を体系的に展示しています。
立山防空壕が伝えるのは、投下直後の行政・警察による情報収集、救援指示、通信です。被害発生後に行政組織がどのように動いたのかを追える点に特徴があります。
全国の地下壕と比べた立山防空壕の特徴
日本各地の地下壕・地下軍事施設には用途の違いがあります。長崎では、三菱兵器住吉トンネル工場が軍需生産と地下避難・救護に関わったのに対し、立山防空壕は原爆投下直後の行政・救援対応を担いました。無窮洞は学校の防空壕で、地下化した機能の違いを比較できます。
立山防空壕は地方行政と警察の防空・災害対応拠点であり、計画された機能が1945年8月9日の原爆災害対応で実際に使われました。
見学時に確認できる5つのポイント
1.知事室と無線室の配置
行政トップと通信部門が同じ地下空間に配置され、情報収集と指揮を近距離で行える構造になっています。
2.被害第一報と通信網
原爆投下直後は通信できた地域から情報が集まりました。通信不能地域の被害が初期情報から抜け落ちたことを、災害時の情報収集という視点で確認できます。
3.金比羅山との位置関係
爆心地との間にある金比羅山が熱線と爆風を遮り、防空本部の機能維持と爆心地方面の視認の難しさの両方に関係しました。
4.電話と無線
警察電話や無線は、被害情報を集め、救援要請を外部へ送る行政の基盤でした。通信設備が破壊された地域では情報伝達そのものが途絶えました。
5.通常空襲への備えと原爆被害
立山防空壕は空襲下の行政機能維持を目的に造られました。原爆では、指揮所が残っても都市機能全体が甚大な被害を受け、救護や情報収集に大きな制約が生じました。

