鹿児島県鹿屋市串良町には、太平洋戦争末期の地下通信施設が残っています。「串良基地跡の地下壕第一電信室」です。
地表から約7m下、全長約51mのコンクリート地下壕で、最も広い通信室は奥行約15m・幅約4mあります。旧海軍航空隊串良基地の関連部隊との通信を担い、基地から出撃した特別攻撃隊員が突入前に送る最後の電信を受信した場所として保存されています。
串良海軍航空隊は1944年4月1日に発足し、航空機の整備などを担う教育航空隊として約5,000人の飛行予科練習生・航空要員を教育しました。鹿屋市の戦跡資料では、整備・搭乗・通信などの訓練が行われたとされています。1945年3月になると沖縄戦に備える実戦・特別攻撃作戦の拠点へ転換し、全国各地の航空部隊が串良へ進出しました。鹿屋市は終戦までに特別攻撃隊員363人、一般攻撃隊員210人が串良基地から出撃し、命を失ったと記録しています。
串良基地はどこにあった?
串良海軍航空基地は現在の鹿児島県鹿屋市串良町にありました。鹿屋市内には戦時中、鹿屋基地、串良基地、笠野原基地など複数の飛行場がありました。
現在の基地跡は農地、道路、公園などに変わっていますが、旧滑走路跡の直線道路、串良平和公園、戦没者慰霊塔、地下壕第一電信室などから当時の配置をたどれます。
1944年4月1日、整備教育を担う串良海軍航空隊が発足
串良海軍航空隊は1944年4月1日に発足しました。防衛研究所の航空部隊資料目録や海軍航空隊関係資料では、航空機整備教育を主な任務とする教育部隊として位置づけられています。鹿屋市の戦跡資料は、串良基地で約5,000人の飛行予科練習生らが航空機の整備・搭乗・通信などの訓練を受けたとしています。
基地建設はそれ以前から進められており、戦争末期の大隅半島には鹿屋・笠野原・串良という複数の海軍航空基地が近接していました。串良は当初から特攻専用基地として造られたのではなく、航空要員を短期間で養成する教育基地として出発した点が重要です。
戦局悪化で教育と実戦の境界は急速に崩れました。1945年には教育機能が縮小し、沖縄戦に向けて他基地の攻撃部隊が串良へ集結します。基地の役割が「人を育てる場所」から「出撃させる場所」へ変わったことで、通信施設も訓練用の設備ではなく、実戦部隊と飛行中の航空機を結ぶ作戦基盤として使われるようになりました。
1945年3月、特別攻撃隊基地へ
1945年春、米軍は南西諸島への攻撃を強め、沖縄戦が迫りました。鹿屋市資料によると、串良基地は1945年3月から特別攻撃隊の基地として使用されました。
大隅半島の鹿屋・串良一帯は沖縄方面へ向かう航空作戦の前線に近く、特別攻撃隊や一般攻撃隊の部隊が集まりました。鹿屋市は串良基地から特別攻撃隊員363人、一般攻撃隊員210人、計573人が出撃し、命を失ったと記録しています。
菊水作戦と串良基地|戦闘詳報に残る実戦拠点
1945年4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸すると、日本海軍は航空兵力を集中して沖縄周辺の連合軍艦艇を攻撃する「菊水作戦」を発動しました。防衛研究所『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』では、4月6日から30日までを菊水一~四号作戦の時期として整理しています。大隅半島の鹿屋・串良などの基地は、この航空攻撃を支える出撃拠点になりました。
串良基地が実戦で使われたことは、戦後の証言だけでなく当時の部隊記録からも確認できます。防衛研究所には「第131海軍航空隊戦時日誌戦闘詳報 攻撃第256飛行隊 串良基地に於ける菊水1号作戦 南西諸島方面」という一次史料が残り、アジア歴史資料センターでも公開されています。串良が沖縄方面作戦の実戦基地だったことを、部隊側の戦闘詳報そのものが裏付けています。
この史料名にある攻撃第256飛行隊のように、串良には基地固有の教育部隊だけでなく、沖縄作戦に投入される実戦飛行隊が進出しました。そのため通信施設が扱う情報も、平時の訓練連絡から、出撃時刻、部隊間連絡、飛行中の航空機からの電信、戦況報告へ比重を移していきました。第一電信室は「特攻隊員の最後の通信」という記憶で知られますが、軍事施設として見ると、複数部隊が出入りする航空作戦基地の通信網を支えた施設です。
地下壕第一電信室の役割
航空基地を運用するには、滑走路や格納庫だけでなく通信施設が必要です。基地と航空隊、司令部、他部隊、飛行中の航空機の間で命令、位置、戦況などをやり取りします。
串良基地跡地下壕第一電信室は、その通信機能を空襲から守るため地下に置いた施設です。鹿屋市は「串良基地の関連部隊との連絡が行われていた」と説明しています。
基地の指揮・連絡を維持する軍事通信施設でした。全国の地下壕・地下軍事施設には司令部、工場、兵舎、通信など異なる機能の地下化が見られ、串良では電信が重要機能の一つでした。
深さ約7m・全長約51m
鹿屋市指定文化財の資料では、地下壕は深さ約7m、全長約51mです。最も広い通信室は奥行約15m、幅約4mあります。
主室のほか、通路や小部屋が配置され、全体はコンクリート造です。重要な通信機器と人員を地表から離し、空襲時にも通信機能を残す設計でした。
2か所の入口と爆風対策
地下壕には2か所の出入口があります。鹿屋市の調査資料では、それぞれの入口付近にコンクリート製の防御壁と土塁が設けられていたことが確認されています。
地下施設でも入口から爆風が入り込めば内部の機器や人員が被害を受けます。防御壁と土塁は、爆風が直線的に地下へ流れ込むのを抑えるための構造です。
受信機・送信機・電話・発電機
鹿屋市がまとめた元隊員の証言によると、地下壕内には受信機、送信機、電話、発電機などが配備されていました。
現在は地下空間が保存され、当時の機器構成は元隊員の証言から確認されています。受信、送信、電話連絡、電源確保を担う通信拠点でした。
「最後の電信」を受信した場所
特別攻撃隊の航空機は基地を出撃した後、突入前にモールス信号で電信を送ることがありました。鹿屋市の平和資料は、攻撃対象が戦艦、駆逐艦、空母などであることを示す符号例も紹介しています。
地下壕第一電信室は、そのような最後の通信を受信した施設です。通信が途絶えることは、搭乗員との連絡が終わることでもありました。
現在の戦跡案内では、壕内の音声ガイダンスでモールス信号を再現し、当時の通信業務を学べるようになっています。
363人という出撃者数と個々の通信記録は別
鹿屋市は、串良基地から特別攻撃隊員363人が出撃したことと、第一電信室が特攻隊員の最後の電信を受信していたことをそれぞれ記録しています。
363人は串良基地からの出撃者数です。第一電信室について公的資料が示すのは、串良基地から出撃した特攻隊員の最後の電信を受信した通信施設だったという役割です。個々の通信記録の残存状況は別の情報です。
「第一電信室」と「電信司令室」
現在の観光案内では「串良基地跡の地下壕第一電信室」という名称が使われています。鹿屋市指定文化財一覧では「海軍航空隊串良基地跡の地下壕 電信司令室」という名称も使われます。
名称は資料によって異なりますが、同じ遺構を指します。「第一」と「第二」の役割分担の詳細は、公的資料の確認範囲外です。
空襲下で通信機能を守る
1945年春以降、鹿屋周辺の航空基地は繰り返し空襲を受けました。特別攻撃隊を送り出す飛行場は米軍の攻撃対象でもありました。
地上の滑走路や航空機が攻撃されても、部隊との通信を維持できるよう重要設備を地下へ移すことには軍事上の意味がありました。串良の地下通信室は、航空基地の「通信」を地下化した具体例です。
2015年、鹿屋市指定文化財に
地下壕第一電信室は2015年6月26日に鹿屋市指定文化財となりました。鹿屋市の文化財一覧では正式名称を「海軍航空隊串良基地跡の地下壕 電信司令室」とし、所在地を串良町有里4963-7、深さ約7m、全長約51m、最大の通信室を奥行約15m・幅約4mと記録しています。観光案内で使われる「地下壕第一電信室」と文化財名の「電信司令室」は同じ遺構を指します。
鹿屋市が評価しているのは、寸法だけではありません。特攻隊員との連絡に使われ、突入前の最後の電信を受け取った用途が元隊員証言と地域資料に残ること、出入口の爆風対策や通信室の構造がよく残ること、通信施設としての保存状態が良好であることが文化財価値の中心です。戦闘機や掩体壕のような「目に見える兵器施設」と異なり、航空作戦を成立させる情報・通信のインフラそのものが残っている点に希少性があります。
鹿屋市は指定と同じ2015年度に第一電信室の保存整備を行い、その後も平和ツーリズムの主要な戦跡として活用しています。市政報告資料では、戦争遺跡の保存整備、米国国立公文書館からの映像・写真・文書収集、平和学習ガイドの養成を一体で進めており、第一電信室は「遺構を残す」だけでなく、資料とガイドを組み合わせて地域史を説明する拠点になりました。
現地には360度VRコンテンツも設置され、鹿屋市は第一電信室と串良平和公園を含む戦争遺跡をデジタルでも公開しています。2025年12月には戦後80年事業として、平和学習ガイドと串良基地跡を巡る戦跡ウォーキングも実施されました。地下壕の保存、現地見学、デジタル公開、語り部・ガイド活動を重ねることで、基地の記憶を単発の慰霊ではなく地域の歴史学習へつなげています。
串良平和公園と慰霊塔
旧基地跡には串良平和公園が整備され、串良海軍航空基地戦没者慰霊塔が建っています。

地下壕だけでなく、旧滑走路跡、平和公園、慰霊塔を同じ基地の遺構として見ると、教育基地から特別攻撃隊基地へ変化した串良の全体像を追えます。
鹿屋基地と串良基地の違い
鹿屋市内には複数の海軍航空基地があり、「鹿屋基地」と「串良基地」は別の施設です。
鹿屋基地は現在の海上自衛隊鹿屋航空基地周辺にあり、第五航空艦隊司令部が置かれ、鹿屋市によると908人の特別攻撃隊員が出撃しました。
串良基地は現在の鹿屋市串良町にあり、教育航空隊として始まり、戦争末期に特別攻撃隊基地へ転換しました。鹿屋市資料では特別攻撃隊員363人、一般攻撃隊員210人が串良基地から出撃したとされています。地下壕第一電信室は串良基地の遺構です。
人吉海軍航空基地との比較
熊本県の人吉海軍航空基地にも地下作戦室・無線室が残っています。どちらも海軍航空基地の指揮・通信機能を地下に置いた戦争遺跡です。
人吉には地下魚雷調整場、地下兵舎、地下作戦室・無線室、地下発電所など複数の基地機能がまとまって残ります。串良第一電信室は、特別攻撃隊が実際に出撃した基地で、出撃機からの最後の通信を受信した用途が明確に伝わる点に特徴があります。
2026年現在は無料で内部を見学できる
2026年8月17日更新の鹿屋市公式案内では、地下壕第一電信室は一般見学できます。鹿児島県観光サイトも料金無料と案内しています。
- 所在地:鹿児島県鹿屋市串良町有里4963-2
- 見学可能時間:9:00~16:00
- 年末年始:見学不可
- 料金:無料
- 駐車場:あり
- トイレ:なし
現地では階段で地下へ降り、通信室内部を見学できます。公開条件は変更される場合があり、鹿屋市公式ページの最新案内が基準です。
関連して読みたい地下壕・地下軍事施設
- 筑波海軍航空隊地下戦闘指揮所 ― 航空基地の地下指揮・通信機能を比較できます。
- 鶉野飛行場地下指揮所 ― 訓練基地から特攻作戦へ移る過程と地下指揮施設を比較できます。

