大正東京・本郷区を古地図で徹底解説|東京帝国大学・湯島・本郷

大正期の東京市本郷区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

本郷区は現在の文京区東部を中心に、本郷、湯島、弥生、根津、千駄木、駒込方面まで広がっていました。精細図では、東京帝国大学だけでなく、華族邸、女子教育機関、医学校、伝染病院、博物館、研究所、寺町まで読み取れます。

この本郷区図は、特別区協議会が公開する「番地界入東京市拾五区区分図」の一覧では大正11年(1922)1月10日第二版とされています。麹町区図など他区とは版・刊行日が異なるため、本郷区の記事では1922年初頭を地図の基準時点として読みます。関東大震災はその約1年8か月後、1923年9月1日に起きました。

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本郷区図の基本情報と読み方

地図には町名と番地界のほか、学校、病院、寺社、邸宅、官公署、研究施設が固有名詞で記されています。1922年版でありながら、東京帝国大学の「法科大学」「理科大学」、1921年に改称済みの「教育博物館」、日本医学専門学校の旧称系統である「日本医学校」など、制度上はすでに変わっていた名称も残ります。第二版の刊行時にすべての地物名が一斉更新されたのではなく、旧版の表記を部分的に引き継いだ可能性があります。

この10枚は南の水道橋・湯島から、東京帝国大学、本郷・西片、根津・千駄木、駒込病院、六義園、本郷区北端まで連続しており、主要区域をほぼ網羅しています。

1 本郷元町・本郷給水所・松平邸

大正11年本郷区図の本郷元町・本郷給水所・松平邸周辺
本郷元町から水道橋周辺。松平邸、本郷給水所、本郷座、湯島方面へ続く街区が描かれています。

水道橋に近い本郷元町では「松平邸」と「本郷給水所」が大きな面積を占めます。周辺には本郷座、本郷元町、本郷一帯の町家、神田川沿いの市区境が描かれています。

松平邸は高松松平家・松平頼寿の本郷邸とみられる

大きく記された「松平邸」は、旧高松藩主家の伯爵・松平頼寿まつだいら よりひさ(1874~1944)の本郷邸とみられます。頼寿は高松松平家を継ぎ、長く貴族院議員を務め、1937年には伯爵として初めて貴族院議長となりました。本郷の邸宅で多数の盆栽を育てていた記録もあります。地図上の区画と邸宅住所を一筆単位で直接照合する史料は確認できないため、人物同定は位置関係と同時期の居住記録に基づく推定です。頼寿は翌1923年に本郷中学校を創立し、本郷区の教育にも関わりました。

本郷給水所

「本郷給水所」は東京近代水道を支えた大規模施設です。文京区の資料では、東京市水道局が1892年に用地を買収して給水場を建設し、1898年に配水池が完成しました。同年、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への近代水道の給水が始まり、本郷給水所は市内へ水を送る配水施設の一つとなりました。現在も同地に東京都水道局の本郷給水所があり、その上部には本郷給水所公苑があります。

本郷座―新派演劇の拠点

同じ地図には「本郷座」がはっきり記されています。本郷座は1873年に開設された奥田座を前身とし、春木座を経て1902年に本郷座へ改称しました。1880年代には九代目市川團十郎いちかわ だんじゅうろうや五代目尾上菊五郎が出演し、本郷座となってからは川上音二郎かわかみ おとじろう一派の『ハムレット』などで新派演劇の隆盛を支えました。1923年の関東大震災で全焼しており、この地図は大劇場が震災前の本郷に存在していた最後期の姿を記録しています。

京華中学校・京華商業学校

図中には「京華けいか中学校」「京華商業学校」の文字も確認できます。京華中学校は1897年、磯江潤いそえ じゅんが本郷区龍岡町に創立し、1900年に東竹町へ移転しました。京華商業学校は1901年に設立認可を受け、実務知識を備えた経済人の育成を目指しました。両校の東竹町校舎は1923年の関東大震災で焼失し、その後、現在の文京区白山へ移転します。地図には、震災前の本郷に中等教育と商業教育の大きな校地があったことが残されています。

2 湯島の女子教育・博物館・医療

大正11年本郷区図の湯島・東京女子高等師範学校・教育博物館周辺
湯島一帯。東京女子高等師範学校と附属校園、地図上の「教育博物館」、妻恋町・湯島三組町などが確認できます。

湯島側には東京女子高等師範学校の大規模な校地と附属学校、地図上の「教育博物館」、東京裁縫女学校、順天堂病院などが集まります。湯島は大学街の外縁ではなく、女子教育・医療・博物館が集中するもう一つの文教核でした。

東京女子高等師範学校

東京女子高等師範学校は現在のお茶の水女子大学につながる学校です。前身の東京女子師範学校は1875年に御茶ノ水で開校し、1876年に附属幼稚園、1877年に附属小学校、1882年に附属高等女学校を設けました。幼稚園と高等女学校はいずれも日本の学校教育史上きわめて早い例で、湯島の校地には女子教育と教員養成の附属校園が集積していました。1923年の関東大震災で校舎群が大きな被害を受け、その後は大塚への移転が進みました。

地図の「教育博物館」は制度上すでに「東京博物館」

国立科学博物館の沿革によると、東京教育博物館は1921年6月に「東京博物館」へ改称しています。それでも1922年版の地図には「教育博物館」と読める表記が残ります。地図の更新が制度改称に追いつかなかった可能性があります。東京博物館は1923年の関東大震災で施設・標本を失い、その後上野で再建され、現在の国立科学博物館へつながりました。

東京裁縫女学校

東京裁縫女学校は現在の東京家政大学につながります。1881年に渡邉辰五郎わたなべ たつごろうが本郷湯島で和洋裁縫伝習所を開き、1892年に東京裁縫女学校へ改称しました。1922年には高等師範科が専門部へ改組され、東京女子専門学校が成立しています。翌1923年の震災で校舎・寄宿舎を失い、地図は制度転換と震災の直前を記録しています。

順天堂病院

湯島の順天堂病院は現在の順天堂大学医学部附属順天堂医院につながる医療拠点です。順天堂が湯島に医院を開いたのは1875年で、3500坪の土地と新病院の建設費を確保する際には前田家から資金を借りました。順天堂第二代堂主の佐藤尚中さとう たかなかは、5年後に利子を付けて完済したと順天堂の公式沿革に記されています。地図上で東京帝国大学病院や前田邸と近接して見える施設どうしには、実際の資金援助を介した関係もありました。

3 東京帝国大学・大学病院・前田邸

大正11年本郷区図の東京帝国大学・大学病院・前田邸周辺
東京帝国大学本郷キャンパス南東部。旧制度名の法科大学・理科大学などと大学病院、前田邸が描かれています。

本郷区図で最も大きな存在は東京帝国大学です。校地内には大学病院、内科病室、外科病室、小児科病室、伝染病室などが細かく描かれ、医学教育と診療が同じキャンパスで行われていたことが分かります。

一方、地図には「法科大学」「理科大学」など旧制度名も見えます。東京帝国大学では1919年の制度改正で分科大学制から学部制へ移行しており、1922年時点の正式制度との間に表記差があります。ここでも地図が旧称を保持している可能性があります。

前田邸は加賀前田家・侯爵前田利為の本邸

大学の南西側に大きく描かれる「前田邸」は、旧加賀藩主前田家の本郷本邸です。1922年当時の当主は第16代・侯爵前田利為まえだ としなりでした。本郷前田邸は前田家が江戸時代から営んだ加賀藩上屋敷の系譜を引き、明治期にも前田家の本邸として残りました。

東京大学総合研究博物館の資料では、本郷邸の和館は1905年末、西洋館は1907年末に竣工したことが確認できます。1923年の関東大震災後、東京帝国大学が本郷キャンパス拡張のため土地交換を求め、1926年に前田家本郷邸と東京帝国大学駒場農学部用地の土地・建物が交換されました。前田利為は駒場に新本邸を建て、現在の重要文化財「旧前田家本邸」へつながります。

この土地の流れは、加賀藩上屋敷、前田侯爵家本邸、東京帝国大学キャンパスという三段階で見ると分かりやすく、大学の拡張が華族の大邸宅を取り込んでいった過程を具体的に示します。

4 本郷・西片・真砂町と軍事行政

大正11年本郷区図の本郷西片・前田邸・本郷連隊区司令部周辺
本郷・西片・真砂町周辺。前田侯爵家の邸地と東京帝国大学、本郷連隊区司令部などが近接しています。

本郷西側には西片町、真砂町まさごちょう、本郷の住宅地が広がります。前田邸と東京帝国大学の巨大区画に対し、周辺は細かな番地へ分かれ、学校、寺院、住宅が密集しています。大規模な華族邸・大学用地と細分化された市街地が隣接する、本郷区中心部の土地利用がよく分かる範囲です。

画像には「本郷聯隊区れんたいく司令部」と読める軍事行政施設も確認できます。聯隊区司令部は徴兵・召集など地域の軍事行政を担った機関で、大学・学校の町として知られる本郷にも軍事制度の拠点が組み込まれていました。

女子美術学校―菊坂の女子美

この範囲には「女子美術学校」と読める学校名もあります。現在の女子美術大学につながる学校で、1900年に本郷弓町で「私立女子美術学校」として設立されました。1908年の火災で弓町校舎を失った後、1909年に本郷菊坂きくざかへ移転し、「菊坂の女子美」として知られるようになります。1919年には「女子美術学校」と改称しており、1922年の地図表記はこの時期の名称と一致します。当時、女子のための専門的な美術教育機関はまだ珍しく、本郷には教員養成・裁縫教育だけでなく、美術を職業や専門教育につなげる女子教育の場もありました。

「工科学校」と読める施設

女子美術学校の周辺には「工科学校」と読める表記もあります。国立教育政策研究所教育図書館の調査では、1907年設立の「私立日本工科学校」が確認され、1914年と1915年の学校案内には本郷区菊坂町所在と記録されています。1919年の資料では同校は神田区錦町三丁目へ移っているため、この地図の「工科学校」は、菊坂にあった私立日本工科学校の旧所在地情報を引き継いだ可能性があります。地図には教育博物館や東京帝国大学の分科大学名など改称前の表記も残っており、この例も地図情報の更新時期に差があることを示す材料です。少なくとも、菊坂周辺に大学とは別の実務・技術教育を担う工科系私学が存在した時期があったことは確認できます。

5 日本医学専門学校・附属病院・第一高等学校

大正11年本郷区図の日本医学校・附属病院・第一高等学校周辺
根津・千駄木・向ヶ岡方面。地図上の「日本医学校」と附属病院、第一高等学校が大きな敷地を占めています。

根津・千駄木方面には、地図上で「日本医学校」「附属病院」と読める大区画があります。1922年当時の正式名称は日本医学専門学校で、現在の日本医科大学につながります。

日本医科大学の公式沿革では、1910年に私立日本医学校と私立東京医学校が合併し、千駄木に付属駒込医院を開設しました。1912年に私立日本医学専門学校、1919年に日本医学専門学校へ改称しています。それでも1922年図に「日本医学校」と読める旧称系の表記が残っており、教育博物館や東京帝国大学の分科大学名と同じく、地図が制度改称前の名称を引き継いだ例と考えられます。

真泉病院と日本医科大学

同じ地域には「真泉病院」の文字も確認できます。真泉病院は、帝国大学で産婦人科学を教えた千葉稔次郎ちば としじろうが退官後に創立した病院です。1906年の広告にも「本郷 根津 真泉病院」として掲げられ、婦人科・産科を中心とする医師名が並んでいます。日本医科大学の公式沿革では、1911年に根津真泉病院の寄贈を受けて付属医院としたことが記録されています。地図に「真泉病院」の名称が残るのは、独立病院として始まった施設が日本医学校側の医療体制へ組み込まれていった経緯を伝えるものです。

第一高等学校

南側の大きな敷地は第一高等学校です。「一高」と呼ばれ、長く本郷向ヶ岡にあったことから向陵こうりょうとも呼ばれました。東京大学駒場博物館の年表では、1921年6月に一高と東京帝国大学の間で本郷と駒場の敷地交換交渉が始まっています。つまり1922年の地図は、まだ本郷に広大な一高校地が残る一方、移転構想がすでに動き始めていた時点を記録しています。交換協定は1924年に調印され、一高は1935年に駒場へ移転しました。

6 向ヶ岡弥生町・根津・第一高等学校

大正11年本郷区図の向ヶ岡弥生町・根津・第一高等学校周辺
向ヶ岡弥生町と根津周辺。第一高等学校の広大な校地と根津の密集した街区、寺社地が対照的です。

第一高等学校の東側には向ヶ岡弥生町むこうがおか やよいちょう根津西須賀町ねづ にしすがちょう、根津の細街路が続きます。広い学校用地と、谷側の密集した町場が隣り合う構図がはっきりしています。

郁文館―本郷区北部の私立中等教育

この一帯では「郁文館いくぶんかん」の学校名も確認できます。郁文館は1889年、東京市本郷区駒込蓬莱町こまごめ ほうらいちょうの現在地に私立郁文館として創立され、1892年に私立尋常中学郁文館、1913年に私立郁文館中学校へ改称しました。さらに1918年には私立郁文館商業学校を開校しています。1922年の本郷区北部には、第一高等学校や日本医学専門学校のような大規模校だけでなく、中学校と商業教育を担う私学も置かれていました。

本郷台地から根津へ下る高低差は、現在の坂道や街路にも残っています。大学・高等学校の大規模施設が台地上に並び、その東側に根津の町場と寺社地が展開するのが本郷区東部の特徴でした。

7 駒込病院と駒込・千駄木の寺町

大正11年本郷区図の駒込病院・吉祥寺・千駄木周辺
駒込・千駄木北部。駒込病院、吉祥寺をはじめとする寺院群と住宅地が描かれています。

北部には「駒込病院」が大きく描かれ、その周囲に吉祥寺をはじめ多くの寺院が並びます。学校と大学が中心の本郷南部とは違い、北部では寺町・住宅地・伝染病院が重要な土地利用でした。

駒込病院

現在の東京都立駒込病院は、1879年にコレラ患者を収容する駒込避病院ひびょういんとして設けられ、その後、東京市の伝染病医療の中心的施設となりました。地図が刊行された1920年代には、危険な細菌液などを安全かつ迅速に扱うための「駒込ピペット」が同院で作られました。病院の公式沿革では、第5代院長の二木謙三ふたき けんぞうの依頼で作製されたと伝えられています。二木は1903年に赤痢菌の新型である駒込A菌・B菌を発見し、1919年から駒込病院長を務めました。地図上の大病院は、診療だけでなく感染症研究と検査技術の拠点でもありました。

吉祥寺を中心とする寺町

駒込・千駄木には吉祥寺、高林寺、養源寺など多数の寺院名が読み取れます。なかでも吉祥寺は寺町の中心であると同時に、教育史でも重要です。駒澤大学の沿革では、吉祥寺境内の学寮が同大学の源流の一つとされ、1657年に吉祥寺が駒込へ移転したのち旃檀林せんだんりんと呼ばれました。1876年には曹洞宗専門学本校が吉祥寺へ移り、旃檀林と合併しています。1922年の地図に残る吉祥寺の大区画は、寺院だけでなく曹洞宗の僧侶教育を担った学問の場でもありました。

8 駒込曙町の土井邸

大正11年本郷区図の土井邸・駒込曙町・駒込病院周辺
駒込曙町の土井邸周辺。旧古河藩主土井家の大規模邸地と、その後に進む住宅地化の前段階を読み取れます。

この画像の主役は駒込曙町こまごめ あけぼのちょうの「土井邸」です。建築史研究では、本郷区駒込曙町に旧大名華族・土井利與どい としともが約4万8千坪の大規模土地を所有していたことが示されています。地図の「土井邸」は、旧古河藩最後の藩主で子爵となった土井利與(1851~1929)の本邸とみてよいでしょう。

土井利與は古河藩最後の藩主で、明治維新後は華族となりました。研究では明治末から昭和初期にかけて駒込曙町の大規模所有地が著しく細分化したことも確認されます。1922年図は、土井家の広大な旧大名屋敷地がまだまとまった姿を残しつつ、周辺で宅地化が進む途中段階を記録しています。

古河市の資料では、土井利與は古河県廃止後に駒込曙町へ移り、弓術と有職故実ゆうそくこじつに通じた人物として知られました。1929年、利與はこの曙町の屋敷で死去しています。1922年図の「土井邸」は、旧藩主が東京へ移住した後も維持していた生活拠点を記録したものです。

9 岩崎別邸・六義園と理化学研究所

大正11年本郷区図の岩崎別邸・六義園・理化学研究所周辺
駒込上富士前町周辺。岩崎家の駒込別邸である六義園と、創設間もない理化学研究所が並んでいます。

岩崎別邸は六義園

上富士前町かみふじまえちょうの大きな庭園状区画に「岩崎別邸」と記されています。これは岩崎家が所有していた六義園りくぎえんです。六義園は江戸時代に柳沢吉保やなぎさわ よしやすが築いた大名庭園で、明治期に三菱創業者・岩崎彌太郎いわさき やたろうが取得し、岩崎家の駒込別邸として整備しました。1938年に岩崎家から東京市へ寄付され、現在は都立庭園として公開されています。

創設直後の理化学研究所

六義園南側には「理化学研究所」が記されています。理化学研究所は1917年に駒込で創設され、1921年に大河内正敏おおこうち まさとしが第3代所長となりました。1922年には、主任研究員が大きな裁量を持って研究室を主宰する「研究室制度」が発足します。後に理研を特徴づける自由度の高い研究体制が、まさにこの地図の刊行年に始まったことになります。創設から5年ほどの研究所が六義園の隣に大きな区画を占める姿は、駒込が近代科学研究の拠点へ変わりつつあったことを示しています。

10 本郷区北端・駒込動坂町・神明町

大正11年本郷区図の駒込動坂町・神明町・本郷区北端周辺
本郷区北端の駒込動坂町・神明町周辺。市区境の外側に北豊島郡の地域が広がる位置関係も確認できます。

北端では駒込動坂町こまごめ どうさかちょう神明町しんめいちょうなどの細かな街区が続き、市区境の外側には北豊島郡の地域が描かれます。東京市15区時代の本郷区が、現在の文京区より北側の郊外と直接接していたことを理解できる画像です。

南の本郷・湯島では大学、病院、学校が大区画をつくる一方、北へ進むほど旧大名地、寺院地、住宅地、郊外との境界が混在します。1922年の本郷区は、文教地区という一語でまとめるより、江戸以来の大名屋敷と寺町、近代学校、医療、研究施設が重なった都市でした。

帝国大学を中心に学術・医療都市へ再編された本郷区

1922年の本郷区では、東京帝国大学、第一高等学校、日本医学専門学校、病院、博物館、女子教育施設が大規模な邸宅地や寺町と隣り合っていました。関東大震災後、前田家は本郷邸からの移転を進め、1926年に東京帝国大学との土地交換が成立し、第一高等学校も1935年に駒場へ移りました。こうした土地再編によって、本郷・弥生側の大学キャンパスはさらに拡大しました。

本郷給水所、日本医科大学、駒込病院、六義園など、場所や機能を変えながら現在まで続く施設もあります。震災は再編の契機の一つでしたが、本郷区では大学・医療・研究施設の集積と大規模敷地の転用が、その後の街の性格をより強く形づくりました。

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参考資料