東京大学本郷キャンパスの周囲を歩くと、大学より古い江戸時代の門、明治の大学建築、根津の谷へ落ちる急な階段、日本史の時代名になった「弥生」の由来が次々に現れます。現在のキャンパスは、江戸の大名屋敷から近代大学へ土地の役割が大きく変わった場所です。
ゆる歴史散歩会では、赤門から本郷通りを北へ進み、弥生キャンパスの外周、根津側の低地、東大病院を経て本郷三丁目へ戻りました。キャンパスの内部だけでなく、周囲の町と地形まで歩くことで、本郷・弥生の歴史が立体的につながります。
本郷一帯の街歩きをさらに広げるなら、本郷歴史散歩ガイドもあわせて読むと、坂・寺社・文人ゆかりの場所までつなげて歩けます。
本郷キャンパスの前身は加賀藩上屋敷
東京大学本郷キャンパスの中心部は、江戸時代には加賀藩前田家の上屋敷でした。本郷通りは江戸五街道の一つである中山道で、その沿道には大名屋敷が並んでいました。現在の病院付近には加賀藩の支藩である大聖寺藩・富山藩の屋敷もありました。
明治になると大名屋敷の土地は学校・官庁などへ転用され、本郷では東京医学校や東京大学の施設が整備されます。赤門や三四郎池は、大学になる前の加賀藩邸の記憶を現在まで伝えています。
赤門|東京大学より50年古い加賀藩邸の門
赤門の正式名称は「旧加賀屋敷御守殿門」です。文政10年(1827年)、加賀藩13代藩主前田斉泰が、11代将軍徳川家斉の娘・溶姫を正室として迎える際に建てられました。

門は東京大学の創立より50年古く、江戸時代の大名屋敷門を伝える国の重要文化財です。明治36年(1903年)に医科大学の建設に伴って現在地へ移され、元の位置は現在より約15mキャンパス側でした。
赤門は耐震性の問題から2021年に閉鎖され、2025年11月に本格的な修理工事が始まりました。工事は2027年秋頃までの予定で、2027年には赤門が創建200年、東京大学が創立150年を迎えます。
東大正門|大名屋敷から近代大学へ
赤門から本郷通りを北へ進むと東京大学の正門があります。現在の正門は明治45年(1912年)に完成し、建築家伊東忠太が設計しました。伝統的な冠木門の形式に鉄骨や花崗岩を組み合わせた、近代大学らしい門です。

江戸時代の御守殿門である赤門と、明治末の正門が同じ本郷通りに並びます。二つの門の違いだけでも、大名屋敷から近代国家の大学へ移った土地の時間差がよく分かります。
本郷から弥生へ|農学部の門を越える
本郷通りをさらに北へ進むと、農学部のある弥生キャンパスに着きます。現在の東京大学は本郷地区の中に本郷・弥生・浅野の各地区を持ち、江戸時代の土地利用も一様ではありませんでした。弥生・浅野側には水戸藩中屋敷などがあり、本郷キャンパス中央部の加賀藩上屋敷とは異なる歴史を持っています。
農正門と弥生門は、いずれも東京都の歴史的建造物に選定されています。大学の外周を歩くと、門そのものがキャンパスと地域をつなぐ街のランドマークになっていることが分かります。
東京聖テモテ教会|明治の弥生に生まれた教会
東京聖テモテ教会は日本聖公会に属する教会で、明治36年(1903年)に設立されました。1909年に礼拝堂が完成し、1932年には国産初期のパイプオルガンが設置されました。1945年の空襲で建物を失い、1950年に再建されています。

大学・研究施設が集まる弥生の町に、明治期から続く教会が残ることで、この地域が教育・研究だけでなく近代の宗教文化も受け入れてきたことが伝わります。
おばけ階段|本郷台地から根津の谷へ
弥生二丁目の「おばけ階段」は40段の階段です。上りと下りで段数が違うように感じられることから、この名で知られています。途中で折れ曲がり、一部の段が途中で行き止まりになる独特の形が錯覚を生みます。

歴史散歩では、階段そのものより高低差にも目を向けると景色が変わります。本郷・弥生は台地の上にあり、東側には根津の低地が広がります。弥生式土器が見つかった貝塚も、この根津の谷に面した場所でした。
「弥生」という名前はどこから生まれた?
「弥生」は、先に日本史の時代名があり、それを町名にしたものではありません。明治5年(1872年)にこの一帯が「向ヶ岡弥生町」と名付けられ、その町名が後に土器の名称、さらに時代区分へ広がりました。
町名の由来は、水戸藩主徳川斉昭が文政11年(1828年)に記した「向岡記」にあります。碑文に記された「弥生(三月)十日」の語が明治の町名に採用されました。
弥生式土器発掘ゆかりの地|町名が日本史の時代名になった
明治17年(1884年)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎、有坂鉊蔵が、向ヶ岡弥生町の貝塚から赤焼きの壺を発見しました。縄文土器とは異なる特徴を持つこの土器は、発見地の町名から「弥生式土器」と呼ばれるようになります。

最初の土器が見つかった正確な地点は、都市化の中で分からなくなっています。現在の碑は「発掘ゆかりの地」を示すものです。1974年には東京大学浅野地区で弥生時代の溝・貝層・土器が確認され、1976年に「弥生二丁目遺跡」として国史跡に指定されました。
町名「弥生」が土器名になり、やがて「弥生時代」という日本史の時代名になりました。小さな記念碑ですが、日本の考古学史を語るうえで非常に大きな意味を持つ場所です。
遺跡名が土器型式名になった例として、千葉市の加曽利貝塚から名付けられた加曽利E式・B式もあります。千葉氏と加曽利貝塚を巡る歴史散歩で、加曽利貝塚と縄文土器研究の関係を紹介しています。
東大病院|お玉ヶ池種痘所から続く近代医学
東京大学医学部と附属病院の歴史は、安政5年(1858年)に神田お玉ヶ池へ設けられた種痘所にさかのぼります。種痘所は西洋医学所、医学所、東京医学校へと制度を変え、明治9年(1876年)に本郷へ移転しました。

明治10年(1877年)、東京医学校と東京開成学校が合併して東京大学が成立し、東京医学校は医学部となりました。現在の東大病院を外周から見るだけでも、大学の歴史が教育だけでなく幕末以来の近代医学とつながっていることが分かります。
鉄門・龍岡門|病院側に残る大学の門
病院の外周には鉄門と龍岡門があります。「鉄門」の名は医学部の同窓組織「鉄門倶楽部」などにも残り、医学部を象徴する名称として使われてきました。
龍岡門は病院への主要な入口の一つで、2024年に東京都の歴史的建造物へ選定されました。周囲の歴史的な大学建築と一体になり、春日・湯島側から本郷キャンパスへ入るランドマークになっています。
実際に歩いた東大本郷・弥生一周ルート
ゆる歴史散歩会では、次の順番で東京大学の外周を歩きました。リンク先は各地点のGoogleマップです。
大学構内の見どころまで含めて歩くなら、東京大学本郷キャンパスを歩いた記事も参考になります。赤門は現在修理中のため、見学前には東京大学の本郷キャンパス見学案内で最新の公開状況を確認できます。

