江戸川区松島1丁目に、東京都内で唯一、つりしのぶを専業で作る「萬園(よろずえん)」があります。シダ植物のシノブを苔とともに竹や木の芯へ絡ませ、軒先につるして楽しむ夏の園芸品です。
昭和30年代ごろまで、江戸川区にはつりしのぶの生産者が約20軒ありました。2026年現在、専業として残るのは萬園だけです。しかも生産量は、最盛期の年間3,000個超から近年は数百個へ縮小しました。
萬園が残った背景には、古い技法の継承と、新しい住環境に合わせた商品開発の両方があります。二代目・深野晃正さんと妻の英子さんは、山へ原材料を探しに行き、都市住宅に合う新しい形を考え、美術大学とも商品を開発しました。晃正さんが2023年に急逝した後は、英子さんと息子の浩正さんが生産を継いでいます。
つりしのぶは、植物を「形」に仕立てる園芸品
材料になるシノブはシダ植物の一種です。根茎が岩や樹木の表面を這うように伸び、乾燥にも比較的強く、冬に葉を落としても春になると再び芽を出します。
つりしのぶは、この根茎を苔で包んだ芯材へ絡ませて作ります。東京都の地域資源紹介では、割り竹、木炭、杉板などで芯を作り、苔で包み、芽が出る前のシノブの根茎を這わせ、銅線などで固定するとされています。3月ごろから組み立て、4月上旬に屋外の棚へつるし、葉を育てます。出荷は5月中旬ごろに始まり、6~8月に最盛期を迎えます。
代表的な形がいくつもあります。井桁、筏、霞、灯籠、屋形船などがあり、萬園は置いて楽しめる「井戸」も考案しました。根茎が伸び、葉が生え、季節によって姿が変わるため、完成後も植物として育ち続けます。
英子さんによると、手入れを続ければ何十年も育てられ、親の代から30年物を受け継ぐ客もいます。夏だけの商品というより、毎年芽吹きを待ちながら育てる長寿の園芸品です。
江戸の園芸ブームから生まれた「涼」の文化
江戸時代の都市では園芸が盛んでした。国立国会図書館の展示資料では、江戸時代後半になると樹木だけでなく、オモト、アサガオ、マツバラン、ハナショウブ、フクジュソウなど草本類の流行が相次いだことが紹介されています。珍しい葉や形を持つ植物を「奇品」として珍重する文化も発達しました。
造園史の研究では、こうした園芸流行を武家、富裕農民、植木屋が支え、珍しい植物の品評会や図譜の出版まで行われたことが確認されています。江戸の人々は庭を持つ人だけでなく、鉢植えや小さな仕立物を通じて植物を楽しみました。
つりしのぶも、この園芸文化の中で生まれたとされています。江戸川区の資料では、庭師がお得意先へ贈るお中元用に作ったのが始まりと伝えられています。根を苔で包み、涼しげな葉を空中へ浮かせる仕立ては、狭い軒先でも楽しめました。
水を含んだ苔と青い葉、風で揺れる姿は、打ち水、風鈴、すだれなどと同じく、視覚や音、湿り気を使って暑さを和らげる江戸の「涼」の演出にも合いました。のちには風鈴と組み合わせたつりしのぶも広まり、夏の風物詩になりました。
1935年、萬園は草花と盆栽を扱う園芸商として始まった
萬園の創業は1935年(昭和10年)3月です。現在の深野英子さんの義父が始めました。創業時からつりしのぶ専門だったわけではなく、草花や盆栽も扱う園芸卸売でした。
えどコレ!の取材で英子さんは、義父を商売上手な人物として振り返っています。並べた草花が売れないと、あえて何列かを片付け、次に来た客へ「売れている商品」に見せるような工夫もしていたといいます。植物を育てる技術だけでなく、どう売るかを考える商人でもありました。
昭和30年代ごろまで、江戸川区内にはつりしのぶの生産者が約20軒ありました。萬園もその一軒でした。高度経済成長期には住宅需要が伸び、園芸市場も拡大します。萬園は1960~70年代に草花や盆栽の卸売から、つりしのぶ専業へ軸足を移しました。
1969年、美容師だった英子さんが萬園へ嫁いだ
深野英子さんは千葉県流山市の出身で、もともとは美容師でした。1969年(昭和44年)、二代目となる深野晃正さんのもとへ嫁ぎ、萬園の仕事に入ります。
根茎の太さや曲がり方を見て位置を決め、植物が伸びた後の姿を想像しながら芯へ這わせます。英子さんの義父は昔気質の職人で、作り方を細かく教えなかったといいます。英子さんは手元を観察し、見よう見まねで技を身につけました。
やがて義父、晃正さん、英子さんの3人で大量の注文をこなし、年間3,000個以上を生産する時期を迎えます。萬園にとって最盛期でした。
二代目・深野晃正は「材料」から選んだ
二代目の深野晃正さんは、江戸川区指定無形文化財の保持者となり、2010年度には東京都優秀技能者知事賞を受賞しました。
晃正さんと英子さんが重視したのが、材料になるシノブです。シノブは深山の沢近く、日が当たりにくい崖や古木などに自生します。良質な根茎を確保するため、夫婦で群馬県など関東近県の山まで出向いたこともありました。
つりしのぶは、材料の根茎を固定した時点では完成しません。春に仕込み、数か月かけて葉を育て、夏の商品になります。根茎の状態が悪ければ芽吹きや形に影響します。職人の技量に加えて、原材料の質と採取者の存在が製品の成否を左右します。
20軒が1軒になった最大の問題は「作り手」だけではなかった
昭和30年代ごろに約20軒あった生産者が減った理由として、江戸川区は後継者不足とシノブ採取者の減少を挙げています。
つりしのぶの生産は、工房内の作業と、山でシノブを採取する人からの材料供給の両方で成り立ちます。山からシノブを採取する人がいて、初めて材料が届きます。都市の職人が残っていても、採取を担う人が消えれば生産は止まります。
住宅の変化も影響しました。軒や庭へつるして楽しむ商品は、一戸建て中心の暮らしと相性がよく、マンションなど集合住宅では設置場所が限られます。萬園はこうした住環境の変化に合わせ、置いて楽しめる「井戸」や、小型の商品を開発しました。
衰退の原因は、需要の減少、後継者不足、山の採取者の減少、住宅様式の変化が重なったことにあります。職人だけを育てれば解決する産業ではなく、山側の供給網まで含めて維持する必要があります。
2023年4月、晃正さんが夏の準備を終えた直後に急逝した
萬園に大きな転機が訪れたのは2023年4月です。二代目の晃正さんが81歳で亡くなりました。
えどコレ!の取材によると、晃正さんはその年の夏に向けたつりしのぶの準備を終えた直後に急逝しました。商品はすでに育ち始める段階にあり、出荷期が近づいていました。
英子さんは、半世紀以上一緒に作ってきた夫を失った後も、その年の生産を続けました。ところが、もう一つの問題が迫ります。原材料のシノブを確保できるか分からなくなったのです。
晃正さんが亡くなった年、萬園を紹介する新聞記事が掲載されました。英子さんは記事をシノブの採取者へ送り、供給を依頼しました。えどコレ!の取材では、採取者が萬園の仕事が大切にされていることを知り、供給を続けることになった経緯が紹介されています。
製法だけが残っても、材料が届かなければ作れません。萬園の継続は、深野家の技術と、山でシノブを採る人との関係の両方に支えられています。
英子さんから息子・浩正さんへ、90年目の継承
2023年、英子さんは晃正さんから萬園を継承しました。現在は息子の深野浩正さんと二人で制作しています。
2024年の生産は約150個、2025年は約200個でした。2026年は材料を比較的多く確保でき、約300個を生産しています。最盛期の3,000個超と比べれば約10分の1ですが、材料事情によって生産量が大きく変動する現在の状況も分かります。
現在の萬園は、井戸、井桁、霞、筏など昔からの形を作る一方、干支をかたどった商品なども手掛けています。伝統的な仕立て方を残しながら、形は時代に合わせて変化しています。
美大生との共同開発から生まれた「金魚としのぶ」
萬園は江戸川区の「えどがわ伝統工芸産学公プロジェクト」に長年参加しました。伝統工芸者と美術大学の学生を組み合わせ、新しい商品を開発する事業です。
この取り組みから、金魚鉢をつりしのぶで包む「金魚としのぶ」が生まれました。デザインしたのは多摩美術大学の学生だった岩城美紀さんです。江戸川区の金魚文化と、つりしのぶを一つの商品に組み合わせました。
「井戸」も萬園独自の形です。軒先につるす前提だったつりしのぶを、机や小料理店のカウンターにも置ける形にしました。生活空間が変わっても楽しめるよう、用途そのものを広げた商品です。
技法を変えず、使われる場所を変える。萬園が90年続いた背景には、この商品開発があります。
江戸川区に残ったのは、つりしのぶだけではない
江戸川区には、都市化の中で生産者が減った地域産業がいくつも残っています。金魚養殖は戦前最盛期に23軒ありましたが、2024年には2軒まで減っています。本染注染の染色業者も、昭和30年代には一之江周辺だけで約30軒ありましたが、現在は区内2軒です。
つりしのぶも同じ時期に約20軒から1軒へ減りました。高度経済成長期以降、農地や工場、養魚池が住宅地へ変わり、生活様式と流通が変化する中で、東京東部の地域産業は大きく再編されました。
萬園がある松島の工房を一つの伝統工芸店として見ると、90年の歴史しか見えません。江戸の園芸文化、昭和の地域産業、山の採取者、住宅様式の変化まで重ねると、東京都内で専業1軒になった理由が具体的になります。
現在も見学できる、生きた伝統工芸
萬園は江戸川区松島1丁目32番11号にあり、小売にも対応しています。江戸川区の案内では、4~5人程度で事前に連絡すれば工房見学も可能です。繁忙期の6~9月は受け入れが難しい場合があります。
古い工芸品は博物館で完成品を見ることが多くなります。つりしのぶは現在も毎年春に仕込まれ、夏に葉を茂らせ、客のもとへ届けられています。江戸の園芸文化が、植物として毎年生き直す珍しい伝統です。

