東尾久の歴史散歩|華蔵院・尾久本土初空襲・ADEKA・尾久の原公園を歩く【荒川区】

荒川区の東部、都電荒川線(東京さくらトラム)と日暮里・舎人ライナーが交わる熊野前を中心に広がる東尾久。住宅や商店、町工場の間を歩くと、中世から続く寺院、江戸期の園芸文化、近代工業、日本本土初空襲の記憶まで、異なる時代の痕跡が短い範囲に重なっています。

散歩の軸になるのは、尾久図書館前に移設された荒川遊園煉瓦塀、華蔵院けぞういん、玄琳牡丹屋敷跡、尾久本土初空襲の史跡、株式会社ADEKA本社、都立尾久の原公園です。田端方面から東尾久へ入り、熊野前・隅田川側へ進むと、農村から工業地、そして現在の住宅地・公園へ変わった地域の流れを追えます。

荒川区の町名を示す行政地図

東尾久はどんな町か

荒川区の現在の町名は、荒川、西尾久、西日暮里、東尾久、東日暮里、町屋、南千住の7つです。東尾久は一丁目から八丁目まであり、西側は西日暮里・町屋、東側は隅田川方面へ続きます。都電荒川線の東尾久三丁目・熊野前、日暮里・舎人ライナーの赤土小学校前・熊野前などが街歩きの入口になります。

熊野前という名は、かつて東尾久八丁目付近にあった熊野神社に由来します。神社は1878年(明治11年)に八幡神社へ合祀されましたが、駅名や商店街の名称として土地の記憶が残りました。都電沿線の歴史は、都電荒川線を全停留場からたどる記事でも紹介しています。

尾久の地名と、上尾久・下尾久から荒川区へ

尾久は古い地域名で、「小具」「越具」などの表記も使われました。室町時代の文書には「小具郷」が見え、荒川区の公式資料では、大林院・宝蔵院・華蔵院・阿遮院・満光寺などに鎌倉・室町期の板碑が伝わることが紹介されています。地名の由来には複数の説がありますが、古くから隅田川沿いの集落として続いてきた地域です。

江戸時代には上尾久村・下尾久村・船方村に分かれ、1889年(明治22年)の町村制施行で上尾久村、下尾久村、船方村の一部が合併して尾久村が成立しました。1923年(大正12年)に尾久町となり、1932年(昭和7年)、南千住町・三河島町・日暮里町とともに東京市へ編入されて荒川区が誕生します。現在の東尾久・西尾久という町名は、この旧尾久地域の歴史を引き継いでいます。

町屋との境を流れた江川堀は現在暗渠となっています。荒木田の原や渡し跡、江川堀をたどる散歩は、町屋の歴史散歩|荒木田の原・渡し跡・江川堀暗渠を歩くで詳しく紹介しています。

煉瓦工場と都市化――尾久図書館前に残る産業の記憶

明治期の隅田川沿いには煉瓦工場が並びました。荒川区によると、この一帯では煉瓦に適した土が採れ、船運を使えることが工場立地を後押ししました。東尾久七丁目の旭電化跡地付近には戸田・山本煉瓦工場、華蔵院付近には鈴木煉瓦工場があったとされています。

その産業史を目で確認できるのが、現在の尾久図書館前にある古い煉瓦塀です。これは、1922年(大正11年)に開園した荒川遊園を囲んでいた煉瓦塀の一部で、尾久図書館の整備に合わせて移設されました。長手だけの段と小口だけの段を交互に積む「イギリス積み」が見どころです。

華蔵院――中世の板碑と、地域教育の出発点

東尾久八丁目の華蔵院は真言宗豊山派の寺院です。中世の板碑いたびを所蔵し、境内には庚申塔こうしんとう宝篋印塔ほうきょういんとうなどの石塔が残ります。1845年に寺子屋が開かれたことから、東尾久の教育史をたどる場所としても重要です。

1845年(弘化2年)には寺子屋「江川堂」が開かれ、1878年(明治11年)には公立尾久小学校の前身となる私立田辺小学校が設けられました。その後、満光寺に分校が置かれ、私立井上小学校へ改称されています。現在の住宅地の中に、近代学校制度が定着する前後の学びの歴史が残っています。

玄琳牡丹屋敷跡――上尾久に名を残す園芸文化

華蔵院の近くには、医師の佐治玄琳さじげんりんの屋敷がありました。牡丹が見事だったことから「玄琳牡丹屋敷」と呼ばれ、上尾久の名所として知られました。荒川区の地域史資料では、上尾久は花を楽しむ土地柄として紹介され、牡丹屋敷とともに周辺の桜草の自生地も挙げられています。

現在は史跡として、その位置から上尾久の園芸文化をたどれます。牡丹屋敷と寺院・石造物をあわせて見ると、江戸近郊だった尾久の暮らしと文化が具体的に浮かびます。

1942年4月18日――尾久本土初空襲

1942年(昭和17年)4月18日、東尾久周辺は日本本土初空襲の被災地となりました。真珠湾攻撃から約4か月後、アメリカ軍機が飛来し、当時の尾久町八・九丁目、現在の尾久橋周辺に爆弾と焼夷弾が投下されました。

荒川区が紹介する当時の記録では、爆弾3個と集束焼夷弾1個が投下され、死者10人、重傷34人、軽傷14人の被害が出ました。家屋は全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸に及び、上下水道やガス管も破壊されています。

東尾久八丁目には「東京初空襲の地」の説明板が設けられ、尾久第五児童遊園周辺にも空襲の記憶を伝える碑があります。現在の静かな住宅地を歩きながら、被害地点が生活圏のすぐ中にあったことを確認できる史跡です。

ADEKAと東尾久――農村から工業地へ

大正期の東尾久を大きく変えたのが工業化です。現在も東尾久七丁目に本社を置く株式会社ADEKAは、1917年(大正6年)に旭電化工業株式会社として設立され、1918年に尾久工場が完成しました。電解法による苛性ソーダの製造から始まり、1919年には硬化油の製造へ進み、化学品と油脂加工を柱に発展しました。

尾久工場の主要工程は1970年代までに鹿島・千葉などへ移り、生産拠点としての役割は縮小しました。一方、東尾久には本社と研究開発拠点が残っています。大規模工場の立地と住宅地の拡大が重なったことは、現在も町工場と住宅が近接する東尾久の景観を理解する手掛かりになります。

尾久の原公園――工場跡地が水と緑の公園へ

都立尾久の原公園は、旧旭電化尾久工場の跡地に整備され、1993年(平成5年)に開園しました。芝生広場のほか、湿地を生かした「トンボ池」があり、荒川区によれば約30種類のトンボが確認されています。園内にはシダレザクラも植えられ、春には花見の場所として親しまれています。

煉瓦工場や化学工場が立地した隅田川沿いに、現在は湿地と芝生を持つ公園が広がります。東尾久の街歩きでは、同じ土地の利用が農地、工業地、公園へ変化した時間の長さを最も実感しやすい場所です。

東尾久を歩く散歩コース

田端方面から東尾久へ入り、熊野前・尾久の原公園方面へ進む流れです。立ち寄り先は営業状況や現地表示を確認しながら組み合わせると歩きやすくなります。

  1. 田端駅・アトレヴィ田端周辺
  2. 尾久銀座商店街
  3. 尾久図書館前の荒川遊園煉瓦塀――明治・大正期の煉瓦産業を伝える遺構です。
  4. 華蔵院――板碑・石塔と寺子屋・私立田辺小学校の歴史をたどります。
  5. 玄琳牡丹屋敷跡――佐治玄琳の牡丹屋敷があった場所です。
  6. 尾久第五児童遊園――尾久本土初空襲の記憶を伝える地点です。
  7. 東京初空襲の地――1942年4月18日の空襲を伝える説明板があります。
  8. あおい荘
  9. 株式会社ADEKA本社――東尾久の近代工業史を今につなぐ企業です。
  10. 都立尾久の原公園――旧旭電化尾久工場跡地に整備された都立公園です。
  11. 大門湯
  12. 私立井上小学校跡――尾久小学校へつながる地域教育の歴史をたどります。
  13. 尾久変電所周辺

東尾久とあわせて歩きたい荒川区・都電沿線

旧尾久地域を西側まで続けて歩くなら、西尾久の歴史散歩へ。尾久温泉と三業地、あらかわ遊園、尾久八幡神社など、東尾久とは異なる尾久の近代史をたどれます。

熊野前を通る新しい交通軸から街を見るなら、日暮里・舎人ライナー沿線ガイドも参考になります。都電と日暮里・舎人ライナーが交差する位置関係を押さえると、東尾久が都心と足立方面を結ぶ交通の節点になっていることが分かります。

地図から次の歴史スポットを探す

東尾久のように、住宅地の中へ史跡や旧地名の痕跡が点在する地域では、現在地から近い歴史スポットを地図で探せるTimeWalkも利用できます。散歩の途中で「現在地から歩ける史跡を地図で探す」使い方ができます。

まとめ

東尾久には、華蔵院の板碑と地域教育、玄琳牡丹屋敷の園芸文化、明治・大正期の煉瓦産業、ADEKAに象徴される工業化、1942年の尾久本土初空襲、工場跡地から生まれた尾久の原公園が重なっています。熊野前から隅田川側へ歩くと、現在の住宅地の中に残った中世・近世・近代・戦争・産業の痕跡を一続きにたどれます。