丸の内の建築&歴史散歩。今回は三菱一号館、二号館、明治生命館などの歴史をめぐります。

銀座の大火

 明治5年(1872)2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火し、折からの烈風にあおられ銀座御堀端から築地にかけての41か町、4,879戸、28万8,000坪(95万400平方メートル)を焼失する大火となった。京橋、銀座一帯は東京の中心地であったため、その打撃は大きかった。時の東京府知事由利公正は、この機会に都市改造を行い、不燃建築物による近代都市を建設することとし、実行に際しては大蔵省のイギリス人技師トーマス・ウォートルスの助言を採用した。ウォートルスは、
a.火災を防ぎ延焼を阻止する方法として、街区を整理し道路を広くすること、
b.不燃建築による市街を建設することが重要条件であること、
――と示唆している。こうして明治6年6月、銀座通り一帯はわが国初の煉瓦街として生まれ変わったのである。

三菱一号館

 三菱一号館は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、三菱が東京・丸の内に建設した初めての洋風事務所建築です。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていました。この建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地によみがえりました。
 今回の復元に際しては、明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材などに関する詳細な調査が実施されました。また、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現するなど、さまざまな実験的取り組みが行われています。19世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として生まれ変わりました。

三菱二号館(明治生命館)

 三菱一号館に次いで建てられた三菱二号館は、旧明治生命の社屋でした。その三菱二号館を取り壊し、三菱一号館を設計したジョサイア・コンドルの弟子・曾根達蔵を建築顧問に、東京美術学校(現東京芸術大学)教授の岡田信一郎が意匠設計して建設されたのが明治生命館です。
 明治生命館の竣工は1934(昭和9)年。設計、建設に至るすべてを日本人が担った最新鋭の近代ビルでした。しかし5年後の1939年、第二次世界大戦が勃発します。東京も大空襲により焼野原となりましたが、丸の内周辺は空爆を免れます。そして明治生命館は終戦後、アメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用するために、1956(昭和31)年までGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されることとなりました。
 そんな深い歴史を持ち、建設当時のデザインを今に伝える明治生命館は、1997(平成9)年に昭和の建造物として初めて、国の重要文化財に指定されました。その内部は一部一般公開されており、実際に見学することができます。