今回訪れる予定の場所
日本労働運動発祥之地(旧ユニテリアン教会跡)
日本社会主義運動、労働運動発祥の地
明治27(1894)年、福澤諭吉らの招聘により来日した米国ユニテリアン教会はこの地に唯一館(ジョサイア・コンドル設計)を建設し、標語「至誠正義雍穆」を掲げ、自由基督教の活動拠点とした。
明治31(1898)年、唯一館において安部磯雄らにより社会主義研究会(後の社会主義協会・社会民主党)が結成されたことにより、ここは日本社会主義運動発祥の地とされた。
大正元(1912)年8月、唯一館において鈴木文治らにより友愛会(後の総同盟)が創立されたことにより、ここは日本労働運動発祥の地となった。
昭和5(1930)年8月、総同盟は安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造らの協力を得て唯一館を買収し日本労働会館(総同盟本部)としたが、昭和20(1945)年5月の東京山の手大空襲で焼失した。
いま唯一館・日本労働会館を偲ばせるものは、「日本労働運動発祥之地」石碑横及び後に僅かに残る煉瓦塀基礎部分と、周囲の花壇壁に再利用された煉瓦のみである。
旧台徳院霊廟惣門
https://www.yoritomo-japan.com/
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。台徳院(だいとくいん)は秀忠の院号。徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものだったが、1945年の東京大空襲で大部分が焼失。残された惣門は現地に保存されたが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年に所沢市の狭山不動寺(埼玉県)へ移築された。
長柏園(ちょうはくえん)跡の碑
長柏園は、わが国近代の造園界の先覚者(くさわけ)である長岡安平翁(1842~1925)の邸の称である。
翁は肥前大村藩士であったが、独学で造園を修め明治3年、先輩であり、後の東京府知事となった楠本正隆と共に上京以来、東京府東京市逓信省に奉職し、府・市の大小公園の設計を始め全国各地の公園の設計、各種造園を成したばかりでなく、老樹名木の保存・街路樹植栽等に及ぶ幅広い緑に関する卓越した見識を持ち、多数の後輩を育てた。芝公園においても明治38年紅葉滝及び渓流の設計を行ったほか数々の改良設計を行った。
複眼的報道の塔
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「333mの記憶」
実際に東京タワー最頂部にあったアンテナと支柱の一部で造られたモニュメントです。このアンテナが設置されていたのは、1958年の東京タワー完成時から、アナログ放送が終了する2011年までで50年以上電波を送り続けました。東京タワーの高さ333mは関東一円に電波を送るために計算した結果の数字であり、ぞろ目になったのは偶然です。設計は塔博士と呼ばれた内藤多仲(ないとうたちゅう、1886-1970)で、東京タワーの他、名古屋テレビ塔、通天閣(2代目)、別府タワー、さっぽろテレビ塔、博多ポートタワーも手掛けました。
御成門
増上寺の裏門としてつくられましたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので「御成門」と呼ばれるようになりました。初めこの門は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年に現在の場所に移築されました。増上寺の三解脱門、徳川家墓地の惣門・二天門とともに、震災、戦災を逃れての建設当時から残ってる建造物です。
有章院霊廟二天門
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江戸幕府七代将軍徳川家継の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。有章院(ゆうしょういん)は家継の院号。霊廟は1717年に八代将軍徳川吉宗が建立したもので、日光の東照宮に劣らぬ豪華なものだったが、1945年の東京大空襲で焼失。二天門だけが残された。二天門の中には広目天と多聞天が安置されている。当時並んで建てられていた六代将軍徳川家宣の文昭院霊廟の門には持国天と増長天が安置され、四天王として祀られていた。
伝染病研究所発祥の地
北里柴三郎は福澤諭吉始め民間の援助を受け明治25年(1892)この地に開設された大日本私立衛生会附属傅染病研究所において細菌学の研究を開始し傳染病の撲滅に多大の貢献をした。創立百年に当たりゆかりの地に碑を建て先人の偉業を顕彰するものである。(東京大学医科学研究所、社団法人北里研究所)
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