茨城県笠間市に、1945年に旧日本海軍が造った筑波海軍航空隊の地下戦闘指揮所が残っています。
内部は6つの部屋、2本の通路、奥行約30mから構成され、本土防衛の戦闘機基地として指揮機能を空襲から守るために建設されました。

筑波海軍航空隊はどこにあった?
基地跡は現在の茨城県笠間市旭町周辺にあります。「筑波」という名称ですが、現在のつくば市ではありません。
旧基地には筑波海軍航空隊記念館、旧司令部庁舎、号令台、地下戦闘指揮所、地下無線室などが残っています。
1934年、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として始まった
筑波海軍航空隊の前身は、霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊です。笠間市の歴史資料によると、1934年8月に設立され、同年9月29日に第九格納庫で開隊式が行われました。初代分遣隊司令は三木森彦中佐で、一般兵から採用された操縦訓練生が三式陸上初歩練習機、九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」で訓練を始めました。
1936年以降は予科練習生や少年航空兵も入隊し、初歩から中間段階の飛行訓練を受けました。笠間市は訓練期間を約6か月、一期約50人、教官1人が3~4人を指導したと紹介しています。修了試験では三重県の鈴鹿海軍航空隊まで往復飛行するなど、単なる操縦体験ではなく、実戦部隊へ送る搭乗員を短期間で養成する教育体系でした。
笠間市の広報資料は、友部分遣隊時代から終戦までの約11年間に約1,500人が筑波で飛行訓練を受けたとしています。数字を単純平均すると毎年100人を大きく超える搭乗員が訓練を経験した計算になり、筑波が一時的な練習場ではなく、長期間にわたって海軍航空要員を送り出した教育拠点だったことが分かります。
日中戦争の拡大で航空兵力の需要が増えると、友部分遣隊は1938年12月15日に「筑波海軍航空隊」として独立しました。現在残る司令部庁舎もこの独立期に建設された施設です。
笠間市の資料には、筑波での訓練が「鬼の筑波か地獄の谷田部」と呼ばれたという回想が残ります。戦争の長期化に伴って搭乗員養成の速度と量が求められ、教育基地の負担も大きくなっていきました。
1938年の旧司令部庁舎|地上司令部から地下戦闘指揮所へ
現在も残る旧司令部庁舎は1938年建造です。笠間市によると、地上3階の鉄筋コンクリート造、延床面積1,657.81㎡で、建物全体は船を意識した形態を持ちます。2階の指令室、書庫、窓、天井、照明器具などには当時の状態を残す部分があり、航空隊の地上司令機能を具体的に確認できる建物です。
この庁舎は終戦後も取り壊されず、学校庁舎、県立友部病院の管理棟として転用されました。戦争遺構が長く残った理由の一つは、戦後も実用建築として使い続けられたことにあります。2013年から筑波海軍航空隊を伝える公開施設として利用され、2018年6月の記念館リニューアル後は旧庁舎そのものを保存対象として位置づける形へ移りました。
2018年12月には笠間市指定文化財となりました。笠間市は、旧海軍航空隊の中枢施設が当時の状態を残し、活用可能な形で現存することを全国的にも稀な事例と評価しています。1945年に造られた地下戦闘指揮所と比較すると、地上の恒久司令部が空襲激化によって地下施設へ補完されていく過程を同じ地域で追えます。
1944年、訓練部隊から実戦部隊へ
笠間市の歴史解説によると、1944年3月から筑波海軍航空隊には零戦が配備され、実戦部隊としての性格が強まりました。教育を続けながら、基地そのものが本土防空の実戦拠点へ変化していきます。
本土への米軍空襲が現実化すると、筑波海軍航空隊にも迎撃任務が課されました。笠間市の戦後80年資料では、1945年2月に米海軍艦載機グラマンの襲撃を受け、筑波から零戦・紫電が迎撃して空中戦となり、23人が戦死したとしています。
この2月の空戦は、筑波が「特攻隊を編成した基地」だけではなく、その直前まで通常の迎撃戦闘も行っていたことを示します。飛行教育、本土防空、特攻訓練が同じ基地で短期間に重なったため、地上司令部・地下戦闘指揮所・地下無線室を含む指揮通信機能の防護が重要になりました。
特攻隊「筑波隊」|フィリピン戦から沖縄戦へ
筑波海軍航空隊と特別攻撃の関係は、1945年の沖縄戦だけではありません。笠間市の歴史資料によると、1944年秋に25人が特攻要員として選ばれ、そのうち13人がフィリピン方面で戦死しました。教育航空隊として搭乗員を育ててきた筑波でも、戦争末期には訓練を終えた若者を特攻要員として送り出す段階へ入っていました。
1945年2月には「神風特別攻撃筑波隊」が64人で編成され、その後84人へ増員されます。中心となったのは大学を繰り上げ卒業して海軍へ入った飛行予備学生でした。2月から3月にかけて夜間飛行、急降下などの訓練を行い、鹿児島県鹿屋基地へ進出しました。
4月6日、第一筑波隊17人が鹿屋から沖縄周辺へ出撃します。以後、第六筑波隊まで55人が5月14日までに戦死し、さらに6月22日には第一爆戦隊として筑波海軍航空隊員5人が出撃して戦死しました。1945年の沖縄方面での戦死者は計60人です。
これに1944年のフィリピン方面で戦死した13人を加え、笠間市は筑波海軍航空隊から特攻で戦死した隊員を73人と整理しています。73という数字は、一回の「筑波隊」出撃の人数ではなく、フィリピン戦と沖縄戦の二段階にまたがる筑波海軍航空隊関係者の特攻戦死者数です。
第六筑波隊の富安俊助中尉が米空母エンタープライズへ突入したこと、第五筑波隊の石丸進一少尉が戦前の職業野球・名古屋軍の投手だったことなど、個々の搭乗員の経歴も記録されています。こうした人物史を追うと、筑波が単なる「特攻基地」ではなく、もともと教育基地として多様な若者を集め、その教育体系が戦争末期に特攻作戦へ接続されたことが分かります。
なぜ指揮所を地下化した?
1945年、日本本土への空襲が激しくなると、航空基地の滑走路、格納庫、燃料、航空機、通信設備、司令部などが攻撃対象となりました。
地上司令部が破壊されれば航空機が残っていても指揮・通信が難しくなります。筑波海軍航空隊では基地要塞化の一環として地下戦闘指揮所が建設されました。
6室・2通路・奥行約30m
筑波海軍航空隊記念館は、地下戦闘指揮所を「1945(昭和20)年に出来た地下要塞」と説明しています。
内部は6室、2通路、奥行約30mです。一般市民の避難用ではなく、空襲下でも軍の指揮を継続するための地下司令施設でした。
公式案内では各部屋すべての用途までは確定していないため、個別の室名は断定できません。
記念館から約1.3km離れている
地下戦闘指揮所は筑波海軍航空隊記念館から約1.3km離れています。見学時は記念館で受付を行い、その後、地下戦闘指揮所の公開場所へ移動します。
2022年度に再発見された地下無線室|2025年12月から公開
筑波海軍航空隊には、地下戦闘指揮所とは別に地下無線室跡も残っています。笠間市議会の説明では、この地下室は2022年度の掘削調査で確認された遺構です。戦後長く地表から分かりにくくなっていた施設を調査で再確認し、公開に向けた整備が始まりました。
笠間市は2024年度に周辺広場の測量設計や漏水補修などを実施し、2025年度には茨城県と連携して周辺整備を進めました。公開プロジェクトではクラウドファンディングも行われ、目標200万円に対して235万9,000円の寄附が集まり、整備費の一部へ充てられています。戦争遺構の保存を行政だけでなく寄附者も支える形になった点は、近年の保存活用の特徴です。
2025年11月26日にオープニングセレモニーが行われ、一般公開は12月6日に始まりました。2026年9月現在は、毎週土曜日の事前予約制「史跡ガイドツアー」で、旧司令部庁舎、屋外遺構などと一緒に見学できます。
航空基地では上級司令部、他基地、航空部隊、警戒所からの情報を通信で結ぶ必要があります。滑走路や航空機が残っていても、敵機情報や出撃命令を受け渡す通信網が失われれば航空作戦は続けられません。地下無線室は、戦闘指揮所とは別系統で通信機能そのものを空襲から守ろうとした基地要塞化の遺構です。
地下戦闘指揮所が「情報を集め、判断し、命令する場所」だとすれば、地下無線室は「情報と命令を外部へつなぐ場所」に当たります。二つを別々に保存・公開できることによって、戦争末期の航空基地が指揮と通信をどのように地下へ分散しようとしたのかを具体的に比較できます。
地下無線室は雨水の影響を受ける
記念館は2026年6月、雨水が地下無線室内へたまることがあると案内しています。排水状況や雨量によっては室内を通り抜けず、入口側から見学する場合があります。
号令台も残る

基地跡には石造の号令台も残っています。地上の司令部庁舎や号令台と、戦争末期の地下戦闘指揮所・地下無線室を同じ地域で確認できます。
戦後の保存史|1999年の慰霊碑から記念館・地下遺構公開へ
筑波海軍航空隊跡では、戦後長い間、旧司令部庁舎が学校や病院の建物として使われる一方、元隊員や遺族による慰霊活動が続きました。1999年6月3日には「筑波海軍航空隊ここにありき」と刻む慰霊碑が建立され、除幕式には約150人が参列しました。その後も慰霊の集いが継続され、戦友・遺族の記憶を現地へ結びつける役割を果たしてきました。
保存活用が大きく進んだ契機の一つが、旧司令部庁舎を利用した公開です。笠間市は2013年12月に筑波海軍航空隊記念館が開館したと記録しており、2015年3月までに来館者は約9万3,000人、同年4月には10万人へ達しました。戦争遺構を建物だけ保存するのではなく、隊員の遺品・写真・文書を収集して基地の歴史と組み合わせる展示が進められました。
2018年6月には記念館機能が隣接建物へ移されてリニューアルし、旧司令部庁舎は同年12月に笠間市指定文化財となりました。さらに地下戦闘指揮所、2022年度に確認された地下無線室へ公開対象が広がっています。保存の対象が一棟の庁舎から、地上施設・地下指揮施設・通信施設を含む基地跡全体へ拡大してきたことが、筑波海軍航空隊跡の保存史の特徴です。
現在の筑波海軍航空隊記念館
2026年9月時点の公式案内では、開館時間は9:00~17:00、最終入場16:00です。休館日は毎週火曜日で、祝日の場合は翌日。年末年始は12月29日~1月3日です。
入館料は大人500円、小学生以上400円です。
地下戦闘指揮所の見学方法
2026年9月時点では、地下戦闘指揮所は毎週土曜・日曜の指定時間に公開されています。祝日は公開されません。
公開時間は11:00~11:30、12:00~12:30、13:00~13:30、14:00~14:30です。時間内の自由見学で、料金は小学生以上300円。別途、記念館入館券が必要です。
見学前に記念館受付で手続きが必要です。荒天や前日の大雨などで中止になる場合があります。
地下無線室の見学方法
地下無線室は毎週土曜日の事前予約制「史跡ガイドツアー」で見学します。料金は小学生以上500円で、別途記念館入館券が必要です。
地下戦闘指揮所と地下無線室は場所、役割、見学制度が異なります。
関連して読みたい地下壕・地下軍事施設
- 日本の地下壕・地下軍事施設丸わかりガイド ― 全国の地下司令部・航空基地地下施設を用途別に比較できます。
- 鶉野飛行場地下指揮所 ― 航空基地の地下指揮施設を比較できます。
- 串良基地跡地下壕第一電信室 ― 特攻隊を支えた通信機能の地下化を比較できます。
- 人吉海軍航空基地地下施設 ― 航空基地の魚雷・作戦・通信機能を地下化した例です。

