徳丸安井家文書の歴史|1598年の検地帳と名主・組頭が残した江戸近郊農村の記録

板橋区徳丸には、江戸時代に村の行政を担った安井家の文書がまとまって残されています。「旧豊島郡徳丸村名主安井家文書」は東京都指定有形文化財で、指定範囲は8,698点に及びます。別に、徳丸本村の組頭や明治期の役人を務めた家に伝わる「安井芳一家文書」もあり、二つの文書群から江戸近郊の農村の暮らしを詳しくたどれます。

徳丸本村の名主と組頭

江戸時代の徳丸本村は、現在の徳丸の一部にあたります。村には二つの組があり、それぞれに名主が置かれていました。安井家はその一方の名主を代々務め、年貢の取りまとめや村の支出、領主側からの通達の伝達などに関わりました。

村の仕事は名主一人だけで行ったものではなく、組頭や百姓代などの村役人も協力しました。安井芳一家の先祖は組頭や年寄を務め、明治期には戸長や赤塚村役場の収入役などにも就いています。近世の村役人から近代の地方行政へと移った人々の記録が、それぞれの家に伝わっています。

慶長3年(1598)の検地帳

安井家文書には、慶長3年(1598)の徳丸村検地帳があります。検地帳は田畑の場所や面積、土地の評価、耕作者などを記録する帳簿です。年貢の負担を定めるために使われ、土地をめぐる村の関係を知る重要な資料になります。

文書群には土地や年貢だけでなく、村入用と呼ばれる共同経費の帳簿、村の状況を記録した文書、領主の命令を写した御用留なども残っています。時期の異なる記録を照らし合わせると、同じ地域で農業と村政がどのように変わったかを調べることができます。

中山道板橋宿を支えた助郷と徳丸原の砲術

徳丸本村は中山道板橋宿の助郷村でもありました。助郷とは、宿場で必要となる人足や馬の不足を周辺の村が補う制度です。安井家文書には伝馬役に関わる記録が多く、村の農民が宿場交通を支える負担を担っていたことが分かります。

徳丸ケ原で行われた砲術の訓練に関する記録も残っています。寛政年間以降、広い原野は軍事訓練にも使われ、天保12年(1841)には高島秋帆が西洋式砲術を披露しました。徳丸ケ原と高島秋帆の歴史で扱う出来事は、村側の文書と関連付けても考えられます。

安井芳一家文書に見る明治の変化

安井芳一家文書には、万治元年(1658)の金子証文、延宝2年(1674)の検地帳、天保・慶応期の砲術訓練関係の資料などがあります。近代の資料には戸長役場に関する記録、戸隠講・三峯講の信仰資料、徳丸の字別地番図や地価帳も含まれます。

江戸時代から明治時代へ移る時期には、土地の所有や課税、村役人の制度が変化しました。安井芳一家の資料には、その変化を地域の現場で扱った人々の記録が残ります。また、戸隠や三峯への参詣講の資料は、村人が農業以外にも広い信仰のつながりを持っていたことを伝えます。

文化財指定と資料の保存

旧豊島郡徳丸村名主安井家文書は東京都指定の古文書で、指定された8,698点のうち一部は板橋区が保管しています。板橋区の文化財マップでは家に伝わる資料全体を約9,000点と紹介しており、指定の対象点数と文書群の概数を区別して扱う必要があります。個人宅で保管されている資料もあり、自由に現物を見学できる文化財ではありません。

一部は板橋区立郷土資料館で管理され、展示や調査研究の対象となっています。所在地は一般公開されていない資料も含むため、閲覧可能な範囲は資料館に確認してください。地域の寺社や古民家などについては、徳丸・高島平周辺の歴史と文化財で紹介しています。

参考資料