虎ノ門の高層ビル街から愛宕山を見上げると、正面に86段の急な石段が立ち上がります。東京・港区の愛宕神社へ続く男坂、「出世の石段」です。山上には江戸幕府の成立とほぼ同時に整えられた信仰の場があり、石段には徳川家光と馬術家・曲垣平九郎の故事が残ります。
この場所には、江戸の火伏せ信仰、勝軍地蔵、江戸有数の展望地、水茶屋が並んだ行楽地、桜田門外の変、江戸城無血開城をめぐる逸話まで、約260年の江戸史が重なっています。2026年9月23日には隔年の「出世の石段祭」が行われ、現在の六角神輿が氏子地域を渡御します。
2026年の出世の石段祭|9月23日に御本社神輿渡御
愛宕神社の公式発表によると、2026年は9月22日が宵宮、23日が出世の石段祭、24日が大祭式です。23日は15時30分から発興式、式終了後に御本社神輿が発興し、19時に還興する予定です。
- 9月22日(火・祝):宵宮
- 9月23日(水・祝):出世の石段祭・御本社神輿渡御。15時30分から発興式、19時還興予定
- 9月24日(木):11時から大祭式
発興・還興時は山頂境内への立ち入りが関係者に制限され、境内駐車場も閉鎖されます。22日と23日には北側広場を中心に物販・飲食出店があり、23日は神楽桟橋も予定されています。開催状況は愛宕神社公式サイトで随時更新されています。
出世の石段祭とは|神輿が「下り」、町を巡り、再び山上へ戻る
出世の石段祭は、愛宕神社の例大祭のうち、隔年で御本社神輿が渡御する年の祭礼です。神社は「神社で一番大きなお祭り」と案内し、一年の感謝を神前へ捧げる大祭の中で神輿が氏子地域を巡ります。
過去の渡御では、社殿前で発興式を行った後、神輿が山上から男坂を下り、氏子町内を巡行し、夕刻に提灯を灯して再び男坂を上って還興していました。港区の『芝の歳時記』は、急な石段を神輿が下りきると手締めと拍手が起こり、その後に町内巡行へ出る様子を記録しています。
渡御経路は開催年によって異なります。2024年の現地記録では、御本社神輿は宮出し時に車坂を通り、町内巡行を終えた後の宮入りで出世の石段を登りました。2014年・2018年には男坂を下る記録が残ります。石段を使う場面や巡行経路は、その年の運営に応じて変わります。
現在の御本社神輿は珍しい六角神輿
現在の御本社神輿は、東京では珍しい六角形です。2016年の祭礼資料では輪島塗の神輿とされ、本来は台車に載せて牛に曳かせる「引き神輿」として作られた形式と紹介されています。祭礼記録では昭和56年(1981)に石川県輪島の神輿師が製作したとされ、台輪・胴・屋根まで六角形、台輪一辺は約46センチです。
江戸の大型神輿に比べて細身の姿で、急勾配の石段を担いで通る愛宕神社の祭礼では、この六角形が強い視覚的特徴になっています。2016年の案内は愛宕神社から提供された祭礼情報をもとに、日本お祭り推進協会が掲載したものです。
現在の祭礼は、戦後の地域史も背負う
御本社神輿が現在のものになったのは1981年ですが、愛宕神社の例大祭そのものはそれ以前から地域の大きな行事でした。港区の聞き取りでは、昭和30年(1955)頃まで例大祭の縁日屋台が愛宕山から新橋まで続いていたといいます。
近年は開催間隔が乱れた時期もあり、2018年の渡御後、2024年は地元の御成門六和町会が「6年ぶり」と記録しています。隔年祭でありながら、感染症流行などを挟んで長い中断を経た祭礼でした。2026年はその2024年に続く本祭にあたります。
愛宕神社の起源|徳川家の勝軍地蔵信仰と火伏せ
徳川家康の命で愛宕山に社が整えられたのは慶長8年(1603)です。現在の愛宕神社は主祭神を火の神・火産霊命とし、防火・防災の神社として知られています。しかし江戸時代の姿は、現在の神社とは大きく異なりました。
『港区史』によれば、江戸の愛宕山は「愛宕権現社」と呼ばれ、愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵でした。家康はこの勝軍地蔵を信仰し、関ヶ原の戦いの勝利後、1603年9月に仮社殿を建てたとされます。慶長15年(1610)には本社・末社をはじめ堂舎や諸門が完成し、将軍家の祈願所になりました。
元和3年(1617)には武蔵国豊嶋郡王子村で100石の社領を与えられ、寛永13年(1636)には三代将軍徳川家光から朱印状を受けています。将軍家と結びついた大規模な宗教施設でした。
山下には別当・円福寺、本地堂、金剛院が並んでいた
江戸時代の境内は神社と寺院が一体となった神仏習合の空間でした。愛宕権現社の別当は新義真言宗の円福寺で、五つの子院と地方を含む十の末寺を抱えていました。山下には本地堂とその別当・金剛院もあり、周辺には真福寺や青松寺が並びました。
『江戸名所図会』には、桜川を渡って総門をくぐり、寺院の間を進んで男坂・女坂へ向かう参道が描かれています。現在の大鳥居と石段だけを見る景観とは違い、山麓から山上まで宗教施設が連続する一大境内でした。
明治元年(1868)の神仏分離によって、権現や本地仏など仏教的要素は神社から切り離されました。『新修港区史』は、別当円福寺が廃され、以後は火神信仰にもとづいて火産霊神を主祭神とする現在の姿へ移ったと説明しています。
江戸の愛宕山|江戸屈指の眺望地と参詣
愛宕山は現在標高26メートル。高層ビルに囲まれた現在の感覚では低く見えますが、江戸では海まで見渡せる高所でした。幕末に写真家フェリーチェ・ベアトが山上から撮影したパノラマには、大名屋敷や旗本屋敷、築地本願寺、江戸湾が写っています。撮影時期は文久3年(1863)7月頃と推定されています。
山上は眺望を楽しむ行楽地でもありました。文政10年(1827)の「寺社書上」では、水茶屋が16軒あったことが確認されています。参詣者は神仏への祈願とともに、高台から江戸市中を眺め、茶屋で休みました。
天保5年(1834)刊行の『江戸名所図会』では男坂68段、女坂96段として描かれています。現在は男坂86段、女坂は港区資料で107段または108段とされ、江戸期の図に記された段数とは異なります。参道周辺の造成や石段整備を経て、現在の形になりました。
広重「芝愛宕山」が描いたのは、正月三日の信仰行事
歌川広重の『名所江戸百景 芝愛宕山』(安政4年・1857)は、正月三日の愛宕山を描いた作品です。港区立郷土歴史館によると、画面の人物は毘沙門天から差し遣わされた使者に扮した人物で、正月三日に別当・円福寺で行われた行事の一場面です。
女坂上の茶屋の主人が正月飾りを兜のようにかぶり、擂粉木の長太刀と大しゃもじを持って毘沙門の使者を演じました。愛宕山は景勝地であると同時に、神仏習合の年中行事が人々を集める場所でもありました。
86段の「出世の石段」|曲垣平九郎の伝承はどこまで史実なのか
正面の男坂は86段、港区の景観資料では傾斜約45度とされています。愛宕神社では、曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と呼んでいます。

広く伝わる筋書きでは、寛永11年(1634)、増上寺参詣の帰りに愛宕山の梅を見た家光が、家臣たちに騎馬で石段を上り枝を取るよう命じました。応じた平九郎は馬で男坂を上り、梅を手折って戻り、「日本一の馬術名人」と称賛されたとされます。
平九郎は名を盛澄といい、港区立郷土歴史館は讃岐高松藩主・生駒高俊の家臣と説明しています。後世に「丸亀藩士」とする紹介も多いのは、当時の讃岐が生駒氏の領国で、のちに丸亀藩が成立した地域史と重なったためです。生駒氏が改易されるのは寛永17年(1640)で、1634年当時に現在の意味での丸亀藩はまだ成立していません。
『徳川実紀』の記載と、講談で広まった曲垣平九郎
平九郎は人物事典にも載る馬術家です。国立国会図書館のレファレンス協同データベースが紹介する調査では、『朝日日本歴史人物事典』は愛宕山の一件を寛永11年1月28日としていますが、『徳川実紀』の該当箇所には同件の記載がありません。
一方、慶応3年(1867)には月岡芳年が『東錦浮世稿談 曲木平九郎』を描き、明治31年(1898)には講談を速記した『曲垣平九郎』が刊行されています。現在知られる物語は、江戸後期から明治にかけて錦絵や講談「寛永三馬術」によって広く共有されていきました。
後世には本当に馬で男坂を上り下りした人がいる
平九郎の故事とは別に、後世の騎馬登段は記録が残っています。愛宕神社公式は、明治15年(1882)の石川清馬、大正14年(1925)の岩木利夫、昭和57年(1982)の渡辺隆馬の3人を挙げています。
港区『芝の歳時記』によれば、石川清馬は元仙台藩の馬術指南師で、成功後に徳川慶喜から葵紋の使用を認められました。岩木利夫は引退する愛馬の晴れ舞台として挑戦し、1925年の東京放送局によるラジオ中継は日本初の生中継ともいわれます。登りは約1分、下りには45分を要したと記録されています。渡辺隆馬はテレビ番組の企画で成功しました。
境内の末社|太郎坊社に残る「愛宕と天狗」の痕跡
現在の境内には太郎坊社、福寿稲荷社、大黒天社、弁財天社があります。なかでも歴史的に特徴が濃いのが太郎坊社です。
太郎坊社
猿田彦神を祀り、愛宕神社自身が「天狗様」と案内しています。「太郎坊」は愛宕信仰で天狗と結びつく名称で、古い愛宕曼荼羅にも勝軍地蔵と太郎坊がともに表されました。現在の東京・愛宕神社に猿田彦神として祀られる太郎坊社は、神仏分離以前の愛宕信仰を思わせる存在です。
1945年5月24日の空襲では本社などが焼失しましたが、愛宕神社の公式由緒によれば太郎坊神社だけは焼失を免れました。現在の社殿が1958年再建であるなか、太郎坊社は戦前の境内史をつなぐ重要な末社です。
福寿稲荷社
宇迦御魂神を祀ります。稲荷信仰で広く祀られる食物・穀物の神です。
大黒天社
大國主命と事代主命を祀ります。公式由緒では「恵比寿大黒社」という表記も使われています。大國主命を大黒、事代主命を恵比寿と重ねる信仰の形が境内に残っています。
弁財天社
市杵島姫命を祀ります。弁財天と市杵島姫命を重ねる信仰は神仏習合の歴史の中で各地に広がりました。現在の社は境内の池のそばに鎮座しています。
桜田門外の変|18人は愛宕神社の絵馬堂に集まった
万延元年3月3日(1860年3月24日)の朝、大老井伊直弼を襲撃する水戸・薩摩の18人が愛宕山へ集まりました。港区立郷土歴史館は、水戸浪士らが愛宕神社内の絵馬堂に集結し、神前に祈願してから桜田門外へ向かったと説明しています。
江戸時代の山上には実際に絵馬堂がありました。『江戸名所図会』にも、本殿、仁王門、鐘楼などとともに絵馬堂が描かれています。浪士たちが集まったと伝わる場所は、現在とは境内構成が違う神仏習合時代の愛宕権現社でした。
月岡芳年は16年後に「愛宕山集結」を錦絵にした
月岡芳年は明治9年(1876)、浪士たちが雪の愛宕山に集まる場面を描きました。港区立郷土歴史館が所蔵する作品で、事件の16年後に制作されたものです。事件当日の集合が後世にどのように記憶されたかを示す資料でもあります。
愛宕山から向かった桜田門外で、登城途中の井伊直弼は襲撃されました。事件現場の地理は外桜田永田町絵図を徹底解説、直弼の政治と事件までの経緯は井伊直弼とは何者かで詳しく紹介しています。
境内の記念碑は1941年建立
現在境内に立つ「桜田烈士愛宕山勢揃遺跡記念碑」は、昭和16年(1941)5月24日に除幕されました。当時の絵はがきにも除幕式の日付が残っています。
勝海舟と西郷隆盛|愛宕山の逸話を、無血開城交渉の流れから読む
慶応4年(1868)3月、勝海舟と西郷隆盛が江戸城総攻撃を回避する交渉を行いました。愛宕山には、二人が山上から江戸の町を眺め、戦火に巻き込まないことを語り合ったという逸話が伝わります。
勝と西郷の会談に先立ち、山岡鉄舟が西郷と交渉していました。
3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷と交渉した
鳥羽・伏見の戦い後、新政府軍は江戸へ進軍し、3月15日の総攻撃を予定しました。恭順を示す徳川慶喜は使者を送ることを決め、高橋泥舟の推薦で山岡鉄舟がその役を担います。山岡は西郷との面識がなかったため勝を訪ね、勝は西郷への書状を託しました。
3月9日、山岡は駿府で西郷と会い、慶喜の恭順、江戸城攻撃の中止、徳川宗家の存続と慶喜の助命を訴えました。西郷は江戸城の明け渡し、軍艦・武器の引き渡しなどを条件に総攻撃中止へ応じる方向を示します。
3月13・14日、勝と西郷の会談で総攻撃中止が決まる
西郷は3月13日に江戸へ入り、13日と14日に勝ら旧幕府側と会談しました。江戸城の明け渡しと慶喜の処遇などを協議し、15日の総攻撃は中止されます。4月11日に江戸城は新政府軍へ引き渡されました。
会談場所について関係者の記録は一致していません。勝の日記は「高輪薩州之藩邸」、山岡の『戊辰解難録』も高輪薩邸と記し、後世には田町の薩摩藩蔵屋敷を会談地とする碑が建てられました。港区史では、13日を高輪下屋敷、14日を田町蔵屋敷とする見解が多いと整理しています。
愛宕山で二人が会談したという話は、関係者の記録には現れません。愛宕山は正式な交渉地というより、江戸を一望する場所だったことから無血開城の記憶と結びついた逸話として残っています。幕末に実際にベアトが山上から撮った江戸のパノラマを見ると、「ここから江戸を眺める」という物語が生まれた地理的背景はよく分かります。
会見地周辺は芝浦・田町の歴史散歩、薩摩藩邸と西郷の足跡は東京の鹿児島ゆかりの地でも紹介しています。
明治以降の愛宕山|公園、展望塔、そして日本のラジオ放送へ
江戸の眺望地だった愛宕山は、明治以降も「東京を見渡す場所」であり続けました。明治19年(1886)、愛宕神社と氏子総代が公園開設を願い出て、東京府は愛宕神社境内を「愛宕山公園」としました。
山上には貸席・料理施設から発展した愛宕館ができ、明治22年(1889)には高さ約30メートル、5階建ての愛宕塔が建てられました。望遠鏡を備えた展望施設で、江戸期の「見晴らしの山」が近代東京の観光施設へ姿を変えた例です。
大正14年(1925)7月には愛宕山の東京放送局からラジオ本放送が始まり、「愛宕山」がラジオ放送を指す言葉として使われる時代もありました。旧局舎跡には現在、NHK放送博物館があります。1925年に岩木利夫の騎馬登段がラジオ中継されたことも、愛宕山の古い伝承と新しい放送技術が交差した出来事でした。
愛宕山で見るべき歴史の層
1603年に家康が勝軍地蔵への信仰を背景に整えた愛宕権現社は、将軍家の祈願所となり、山下に円福寺や金剛院を抱える神仏習合の大境内へ発展しました。山上には16軒の水茶屋が並び、広重の錦絵やベアトの写真に残る江戸屈指の眺望地でもありました。
男坂には曲垣平九郎の伝承が重なり、幕末には桜田門外の変へ向かう18人が絵馬堂に集結しました。明治の神仏分離を経て現在の愛宕神社となり、近代には公園・展望塔・放送局が置かれます。その石段を現代の六角神輿が上る出世の石段祭は、愛宕山の地形そのものを祭礼の舞台として受け継いでいます。
江戸城側へ足を延ばす場合は、江戸城三十六見附の全36か所ガイドと組み合わせると、愛宕山から桜田門までの地理がつながります。
愛宕神社へのアクセス
- 所在地:東京都港区愛宕1丁目5番3号
- 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」から徒歩5分
- 東京メトロ日比谷線「虎ノ門ヒルズ駅」から徒歩5分
- 東京メトロ銀座線「虎ノ門駅」から徒歩8分
- 都営三田線「御成門駅」から徒歩8分
- JR「新橋駅」から徒歩20分
2026年9月23日の御本社神輿渡御では、発興・還興時に山頂境内の立ち入り制限が予定されています。
参考資料
- 愛宕神社 公式サイト
- 愛宕神社「祭典行事」
- 愛宕神社「境内のご案内」
- 愛宕神社「愛宕神社トリビア」
- 『港区史 通史編 近世(上)』「眺望と信仰の名所・愛宕権現社」
- 『港区史 通史編 近世(上)』「愛宕山から見た武家屋敷の景観」
- 港区『芝の歳時記』
- 港区立郷土歴史館「東錦浮世稿談 曲木平九郎」
- 港区立郷土歴史館「安政五年三月三日水府ノ脱士等…」
- 港区立郷土歴史館「名所江戸百景 芝愛宕山」
- レファレンス協同データベース「曲垣平九郎について」
- 『港区史 通史編 近代(上)』江戸開城交渉
- 『港区史 通史編 近代(上)』「江戸無血開城の会談はどこで行われたのか」
- 港区「芝地区地域情報誌 第74号」
- 日本お祭り推進協会「平成28年度 愛宕神社 出世の石段祭」
