東京で鉄を溶かす最後の工場。足立区「千代田鋼鉄工業」と都内唯一の電気炉

足立区綾瀬6丁目、住宅やマンションが続く市街地の中に、鉄スクラップを溶かして新しい鉄筋へ戻す工場があります。千代田鋼鉄工業の綾瀬工場です。同社は現在、「都内で唯一、電炉を稼働」と明記しています。

建物を解体したときに出る鉄骨、廃自動車、家電や工場から出る鉄くず。こうした鉄スクラップが東京都内の工場へ運ばれ、電気の熱で溶かされ、ビレットと呼ばれる鋼塊になり、再び鉄筋コンクリート用の棒鋼として東京や首都圏の建設現場へ戻ります。

東京は巨大な鉄の消費地であると同時に、大量の鉄スクラップが発生する「都市鉱山」です。その東京で鉄を溶かして鋼を作る電気炉が一基の工場に残っている背景には、戦後の工業化、工場の郊外移転、公害対策、地盤沈下対策、工業用水道の廃止、そして資源循環という七十年以上の都市史があります。

電気炉は「都市から出た鉄」を再び鋼に戻す

鉄鋼を作る方法は大きく、高炉で鉄鉱石から鉄を作る方法と、電気炉で鉄スクラップを溶かす方法に分かれます。電気炉では、建物、橋、自動車、家電などから回収された鉄スクラップを炉へ投入し、電極から発生するアーク熱で溶解します。

電気炉内部のアークは約5,000℃に達し、鉄自体は約1,600℃の高温で溶けます。溶けた鋼は成分を調整した後、連続鋳造設備で四角い鋼塊「ビレット」へ固められます。ビレットを再び加熱し、圧延機で細長く延ばすと、コンクリート内部に入る異形棒鋼になります。

千代田鋼鉄工業の綾瀬工場は、鉄スクラップの受け入れから製鋼、鋳造、圧延、鉄筋棒鋼の出荷までを一つの工場で行います。現在の生産能力は月産4万トンです。鉄筋は完成した建物ではコンクリート内部に隠れますが、ビル、マンション、道路、橋などの骨格を支えています。

1948年、会社は「トタン」を作る工場から始まった

千代田鋼鉄工業の始まりは、現在の電気炉事業とは異なります。1948年(昭和23年)6月、葛飾区堀切町に「千代田工業所」を設立し、亜鉛鉄板の製造販売を始めました。戦後復興期の住宅や建物で広く使われた、いわゆるトタン板です。

翌1949年には資本金40万円で株式会社となり、千代田亜鉛工業へ改称しました。亜鉛鉄板の需要拡大に対応するため、同年10月には工場を綾瀬へ移します。月産能力は1,500トンでした。

現在の綾瀬6丁目は住宅が密集し、つくばエクスプレス青井駅や東京メトロ・JR綾瀬駅から徒歩圏です。1949年の移転当時は現在ほど市街化しておらず、東京東部には工場用地が残っていました。工場が後から住宅地へ入り込んだというより、工業地帯の周囲まで都市が拡大してきた形です。

1950年代、亜鉛鉄板メーカーが「鉄を作る側」へ進んだ

会社はやがて、加工した鉄板を扱うだけの企業から、鋼そのものを作る企業へ進みます。公式沿革では、1960年1月に綾瀬工場の電気炉を5トン炉から20トン炉へ増強したことが記録されています。この時点で月4,500トンの鋼塊を製造していました。

1966年には鉄筋コンクリート用棒鋼でJIS表示許可を取得し、1971年には40トン電気炉を増設して月産1万トンへ拡大します。1974年、社名を現在の「千代田鋼鉄工業株式会社」へ改めました。

戦後復興で需要が伸びた亜鉛鉄板の会社が、高度経済成長期の建設需要に合わせて製鋼と鉄筋へ事業を広げた流れです。現在も会社には、綾瀬の棒鋼事業と、市川工場を中心とするカラー鋼板事業という二つの柱が残っています。

かつて足立区には、別の電気炉工場もあった

東京には、かつて複数の電気炉工場がありました。王子製鉄の社史には、1959年に足立区綾瀬へ綾瀬工場を設け、翌1960年に15トン電気炉を新設した記録があります。

王子製鉄は1962年に15トン炉をもう一基増設しましたが、1970年、綾瀬工場と群馬県高崎工場の機能を群馬県新田町の新工場へ集約しました。東京の市街化が進む時期に、鉄鋼生産設備を広い郊外工場へ集約する企業が現れていました。

千代田鋼鉄工業は同じ綾瀬で電気炉を増強し、その後も操業を続けました。東京から重工業が移転していく流れの中で綾瀬工場が残ったことが、現在の希少性につながっています。

都市の真ん中に電気炉を置く難しさ

電気炉工場には、鉄スクラップを積んだ大型車両、強力な電力、大量の水、集塵設備、騒音対策が必要です。鉄スクラップを落とす音、炉や圧延設備の稼働音、粉じん、排ガス、物流車両など、住宅地に近い工場ほど周辺環境への配慮が大きな経営課題になります。

千代田鋼鉄工業は2002年に毎分6,000ノルマル立方メートルの建屋集塵装置を設置し、2008年には直引きと建屋集塵を合わせた毎分7,000ノルマル立方メートルの集塵装置を増設しました。圧延工場と製鋼工場の燃焼設備も2004年、2006年に重油からガスへ切り替えています。

都市型工場の継続には、周囲の住宅化に合わせた環境設備と生産設備の更新が経営の中心課題になります。

東京の工業用水道廃止が、工場の大改造を促した

綾瀬工場の近年の大きな転換点が、東京都の工業用水道事業廃止です。東京都は地盤沈下対策として1964年に江東地区、1971年に城北地区で工業用水の供給を始めました。足立区も供給区域に含まれました。

地下水の大量揚水が抑えられ、昭和50年代以降に地盤沈下がほぼ沈静化すると、工場移転や節水によって工業用水の需要も減少します。東京都は設備老朽化と利用減少を理由に、2023年3月31日で工業用水道事業を廃止しました。

鉄鋼専門紙は、この工業用水道廃止が千代田鋼鉄工業による綾瀬工場の生産体制抜本見直しの契機になったと報じています。2024年には高循環型水処理施設を導入しました。工場を東京都内に残すため、製造工程だけでなく水の使い方まで作り替える必要が生じました。

坂田基歩社長が掲げる「鉄の地産地消」

現在の代表取締役社長は坂田基歩さんです。坂田さんは、都市に工場を持つことを制約だけで捉えず、「Compact Recycling」という考えを掲げています。

鉄スクラップの多くは、人口と建物が集中する都市で発生します。建物を解体し、自動車や家電を廃棄すれば、大量の鉄が都市の中から出てきます。同時に東京と首都圏は、マンション、オフィス、道路などで鉄筋を大量に消費する地域です。

千代田鋼鉄工業は、首都圏で発生した鉄スクラップを綾瀬へ集め、棒鋼へ戻し、再び東京・首都圏の建設現場へ供給します。同社はこれを「鉄の地産地消」と位置づけています。鉄鋼・非鉄金属の専門媒体で坂田さんは、東京都だけで年間約260万トンの鉄スクラップが発生し、原料・製品の輸送距離を実績平均52キロメートルに抑えられることを都市立地の強みとして説明しています。

郊外へ広い工場を作る方法とは逆に、原料が出る場所と製品を使う場所の近くで、小さな循環を作る発想です。都内に残ったこと自体が、現在は物流距離を短くする価値へ変わっています。

2021年、新しい高効率電気炉へ更新した

綾瀬工場は2021年、高効率の旋回式電気炉を導入しました。2022年には鉄スクラップの納入予約制と無人台貫システム、2023年にはスクラップAI検収システムを導入しています。

鉄スクラップは種類や大きさ、含まれる金属によって品質が異なります。電気炉で安定した鋼を作るには、搬入段階で原料を見極め、炉の中で成分と電力を管理する必要があります。同社の採用情報では、製鋼担当者が炉内の成分状態と電力状況を管理し、製品品質の最初の工程を担う仕事が紹介されています。

戦後の5トン炉から始まった電気炉は、設備大型化だけでなく、AIによるスクラップ検収や無人計量へ進みました。都市に残る古い製鉄工場という姿と、最新の自動化設備が同じ敷地に重なっています。

2026年、国内初の「エンドレス圧延」へ

千代田鋼鉄工業は現在、綾瀬工場をさらに大きく更新しています。イタリアの製鉄設備メーカー、ダニエリの「MIDA(マイクロミル・ダニエリ)」を導入し、連続鋳造と圧延をつなぐエンドレス圧延を鉄筋棒鋼で国内初導入する計画です。

従来の工程では、電気炉で作った鋼をビレットへ固め、いったん切断し、加熱炉で再加熱してから圧延します。エンドレス圧延では、連続鋳造した鋼を途切れさせず圧延工程へ送ります。途中で冷えてしまった鋼を再加熱する工程を減らせるため、省エネルギーと工程短縮につながります。

2026年6月15日には新しい製鋼設備群がほぼ完成し、綾瀬工場で安全祈願祭が行われました。鉄鋼専門紙は、試運転を経て8月以降の本稼働を目指す計画と報じています。2026年10月時点の会社公式沿革では、MIDAの表記は「導入予定」のままです。

鉄は何度も都市へ戻ってくる

鉄は回収して溶かし直せる素材です。日本では年間約4,000万トンの鉄スクラップが発生するとされ、建物や自動車として蓄積された鉄が、解体や廃棄を経て再び製鉄原料になります。

高炉は鉄鉱石と石炭を大量に扱う巨大設備ですが、電気炉は鉄スクラップを主原料とし、高炉よりコンパクトな設備で操業できます。その特性が、土地の限られた綾瀬で製鋼を続けられた一因になっています。

一方、都市立地には騒音、粉じん、水、物流、近隣住宅との共存という条件があります。千代田鋼鉄工業が都内唯一になった背景には、電気炉という設備の特性だけでなく、集塵、水処理、燃料転換、自動化へ継続的に投資してきた経緯があります。

綾瀬の工場は、東京そのものを原料にしている

東京の建物が解体されると鉄スクラップが出ます。その鉄が綾瀬の電気炉へ入り、鉄筋になり、別の建物へ使われます。都市が更新されるたび、過去の建物の鉄が次の都市を支える材料へ戻ります。

1948年にトタンを作る工場として始まった会社は、高度経済成長期に電気炉と鉄筋へ進み、他社が東京から製鋼設備を移す中でも綾瀬に残りました。現在は、東京に残ったことを「Compact Recycling」という強みに変えています。

足立区には、かつて葛飾に59軒あったセルロイド玩具の製法を継ぐ平井玩具製作所も残っています。東京東部に残る別の希少産業については「日本で唯一のセルロイド玩具職人は足立区にいる」で紹介しています。

参考資料