氷川町氷川神社の富士塚|1847年の石碑と永田講が伝える板橋宿の富士信仰

板橋区氷川町の氷川神社には、江戸時代の富士講が築いた「氷川町氷川神社富士塚」が残ります。境内にある小さな築山には、弘化4年(1847)の奉納石碑と安政2年(1855)の石祠が伝わります。富士山へ出かけることが難しい人々も、地元で富士山への信仰を営めるように造られた場所です。

下板橋宿の鎮守だった氷川神社

氷川町の氷川神社は、江戸時代の下板橋宿の鎮守として祀られてきました。中世の豊島氏に関わる豊島左衛門尉経泰が、大宮氷川神社の分霊を勧請したと伝えられています。神社の創建由緒は中世の伝承として受け継がれ、江戸時代には板橋宿と周辺の人々が祭礼を支えました。

旧中山道の板橋宿では、宿場の住民や旅人が行き交い、寺社を通じてさまざまな信仰が広がりました。境内の富士塚も、宿場を拠点とした富士講の活動を伝えています。

富士山をかたどった築山と参詣の道

富士塚は、富士山への登拝を信仰する人々が、山の形を模して築いた小さな人工の山です。塚の麓から山頂へ向かう道や、途中に祀る石碑を設け、富士山へ登る行為を地域で再現しました。

氷川神社の富士塚にも、登山道を表す道筋と石碑、山頂に祀る石祠があります。現存する石造物には年号が刻まれ、富士塚がいつごろ整えられたかを考える手がかりとなります。塚の保存状態や立ち入れる範囲は神社の案内に従ってください。

1847年の奉納碑と1855年の石祠

弘化4年(1847)には講の人々が奉納した石碑が建てられました。安政2年(1855)には塚の頂上に石祠が置かれました。板橋宿の人々によるこれらの奉納から、19世紀中頃には富士塚が信仰の場所として使われていたことが分かります。

江戸時代の富士講では、仲間が講を組織し、富士山への登拝を行いました。講の人々は登拝にかかる費用を助け合い、地元でも祭礼や祈願を続けました。富士塚の石碑は、そうした共同の信仰が形として残ったものです。

平尾宿の永田長四郎から始まった永田講

氷川神社の富士塚を築いたのは、板橋宿平尾に住んだ永田長四郎(心行長照)を講祖とする「永田講」と伝えられています。永田は富士講の行者・食行身禄の教えに連なる人物で、板橋宿の中宿・平尾宿や上板橋宿の一部にも講の仲間がいました。

講の活動には祈祷や登拝だけでなく、神具の製作と保管も伴いました。板橋区立郷土資料館には、冨士永田講に関わる祭具が伝わり、そのうち文政2年(1819)に作られた祭壇は、板橋の富士講の歴史を知る資料になっています。

所在地と周辺の文化財

氷川神社の所在地は板橋区氷川町21番付近です。境内には富士塚のほかにも、地域の鎮守として受け継がれた信仰の場所があります。板橋宿の寺社と近世の街道については、板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財で紹介しています。

参考資料