東光寺の歴史|1662年の庚申塔・平尾追分の地蔵・宇喜多秀家供養塔

板橋区板橋四丁目の東光寺(とうこうじ)は、室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には寛文2年(1662)の庚申塔、かつて中山道と川越街道の分かれ道にあったと伝わる地蔵菩薩像、宇喜多秀家を供養する石塔が残ります。江戸時代の庶民信仰と、明治初期に板橋へ移り住んだ人々の歴史を伝える寺院です。

板橋宿と平尾追分の近くにある寺院

東光寺のある板橋四丁目周辺は、江戸時代の中山道板橋宿に近い地域です。宿場の江戸寄りにあたる平尾からは川越街道への道も分かれ、旅人や物資が行き交いました。旧街道に近い寺院の境内には、旅の安全、健康、先祖供養に関わる石造物が集められています。

寛文二年庚申塔と青面金剛

東光寺の庚申塔は寛文2年(1662)に建てられました。正面には庚申信仰の本尊とされる青面金剛が彫られ、夜叉、童子、猿、鶏などの意匠も表されています。青面金剛が邪鬼を踏みつける姿は、災厄を防ぎ健康を守る祈りに結び付きました。

庚申待は、暦の上で六十日ごとに巡る庚申の日に人々が集まり、夜を明かして祈る行事です。講の仲間は庚申待を繰り返した記念に石塔を建立しました。東光寺の塔は当時の住職が協力し、寺を頼りとする人々が費用を出し合って造ったと伝えられています。

板橋宿近くの観明寺にも、その前年の寛文元年(1661)の庚申塔があります。両寺院を比べると、十七世紀の板橋宿周辺で庚申信仰が広がっていた様子を具体的な年号から確かめられます。

平尾追分にあったという地蔵菩薩

東光寺の石造地蔵菩薩坐像と台座は、江戸時代に平尾追分に置かれていたと伝わります。追分とは道の分岐点のことで、平尾追分では中山道と川越街道の道筋が分かれていました。大きな地蔵像は、人々が行き交う地点の目印であり、街道沿いの信仰の対象にもなりました。

台座には板橋宿の人々や加賀藩下屋敷に勤めた足軽などの名前が刻まれています。寄進者の名が記録された石造物は、宿場の住民と、近くにあった武家屋敷の人々が同じ地域社会で暮らしていたことを伝えます。

宇喜多秀家供養塔が板橋にある理由

宇喜多秀家は豊臣政権の五大老を務めた武将で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、八丈島へ流されました。その子孫は長く島で暮らしましたが、明治2年(1869)に罪を許され、翌年、縁故のある加賀前田家の江戸下屋敷跡に移り住みました。

東光寺には、その子孫が秀家を供養するために建てた塔が残っています。関ヶ原の戦いから二百年以上を経て、宇喜多家の子孫が板橋へ移ったという経緯が、寺院の文化財につながっています。供養塔は板橋区登録有形文化財(歴史資料)として保存されています。

所在地と周辺の歴史

東光寺の所在地は板橋区板橋4-13-8です。板橋宿の街道史や寺社との関係は、板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財で紹介しています。石造物は境内の状況や寺院の案内に配慮して見学してください。

参考資料

板橋区「東光寺のご案内」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。