徳丸ヶ原と高島秋帆|1841年の洋式砲術演習から高島平誕生まで

現在の板橋区高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代に「徳丸ヶ原」と呼ばれた広い土地でした。天保12年(1841)5月9日、長崎の砲術家・高島秋帆(たかしましゅうはん)が、この原で西洋式砲術の大規模な演習を実施しました。昭和期に農地が造成されてできた「高島平」の地名は、秋帆の姓に由来します。

徳丸ヶ原はどのような場所だったのか

徳丸ヶ原は荒川南岸の低地に広がり、赤塚の六つの村が共同で利用する土地や、萱を採る場所が含まれていました。幕府の鷹狩場にもなり、やがて鉄砲の練習場としても使われるようになります。現在は高島平団地や幹線道路が広がっていますが、江戸時代には広い空間を必要とする訓練を行える土地がありました。

1841年5月9日の西洋式砲術演習

高島秋帆は長崎の町年寄の家に生まれ、オランダ式の砲術を学んで西洋流の軍事技術を取り入れました。天保11年(1840)に始まったアヘン戦争は、外国の軍事力への対応を幕府に考えさせる出来事となりました。秋帆は西洋式砲術の採用を幕府に建議し、翌年に演習を許されました。

天保12年(1841)5月9日、秋帆は弟子99人を伴い、徳丸ヶ原で洋式砲術を披露しました。演習では大砲や小銃を用いた訓練が行われ、多くの大名や幕府の鉄砲方などが見学に訪れました。当日の様子を描いた「高島四郎太夫砲術稽古業見分之図」は、現在、板橋区立郷土資料館に収蔵されています。

この演習をきっかけに、西洋流の砲術を取り入れる藩が増えました。秋帆自身は翌年に捕らえられ、長く自由を制限されましたが、嘉永6年(1853)に赦免されました。その後は幕府の軍事訓練施設・講武所で砲術師範を務め、慶応2年(1866)に亡くなりました。

大正11年の記念碑と松月院の顕彰碑

大正11年(1922)、秋帆の業績を顕彰する動きが進み、徳丸ヶ原の弁天塚には「徳丸原遺跡碑」が、赤塚の松月院には「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」が建てられました。二つの碑は、明治以降も徳丸ヶ原の演習が軍事技術の歴史における出来事として記憶されていたことを伝えます。

徳丸原遺跡碑は、後の宅地造成に伴って徳丸ヶ原公園へ移されました。松月院の碑は境内に残っています。二つの場所を訪ねると、同じ歴史上の出来事が異なる場所の石碑に記録されていることが分かります。

田んぼから高島平団地へ

明治時代以降、徳丸ヶ原一帯には広い田園地帯が形成され、「徳丸田んぼ」「赤塚田んぼ」とも呼ばれました。昭和36年(1961)頃から大規模な開発計画が具体化し、昭和40年(1965)には高島平団地の建設に向けた都市計画が決まりました。区画整理や住宅建設によって、それまでの農地の景色は大きく変わっていきました。

新しい町名を検討するなかで、かつて徳丸ヶ原で洋式砲術を披露した高島秋帆の「高島」と、土地の地形を表す「平」を合わせた「高島平」が選ばれました。昭和43年(1968)10月20日の区の広報で新しい名称が発表され、昭和44年(1969)に町名が誕生しました。江戸時代の砲術演習が、昭和の住宅都市の地名として残ることになりました。

徳丸ヶ原公園と現在の見学場所

徳丸原遺跡碑は板橋区高島平8-24の徳丸ヶ原公園にあります。都営三田線「高島平駅」から徒歩数分の場所です。碑のある公園は当時の演習場全体を保存したものではなく、広い徳丸ヶ原の歴史を伝える記念碑の所在地です。松月院の顕彰碑は赤塚8丁目にあります。

徳丸・高島平の古民家や田遊び、郷土資料館については、徳丸・高島平周辺の歴史と文化財で紹介しています。

参考資料