長崎市住吉町の地下に、太平洋戦争末期の軍需工場「三菱兵器住吉トンネル工場」が残っています。爆心地から約2.3kmの場所です。

第二次世界大戦末期、三菱重工業長崎兵器製作所の生産設備を空襲から守るため、住吉側から赤迫側へ向けて6本のトンネルが並行して掘られました。地下へ移した工作機械で魚雷部品を24時間体制で生産していました。
工場全体が完成する前の1945年8月9日11時2分、長崎へ原子爆弾が投下されました。当時、トンネル工場では三菱の工員、動員学徒、女子挺身隊など約1,800人が生産に従事し、工場稼働と並行して朝鮮人約800~1,000人が掘削作業に従事していました。
三菱兵器とは?
「三菱兵器」は三菱重工業株式会社長崎兵器製作所の略称です。長崎は造船だけでなく、魚雷など海軍兵器の大規模生産拠点でもありました。
住吉トンネル工場は、大橋工場の生産設備を地下へ疎開させた分散工場です。
なぜ工場を地下へ移した?軍需工場疎開政策の一環
1944年以降、日本本土への米軍空襲が現実の脅威になると、地上に集中した軍需工場をそのまま維持すること自体が大きなリスクになりました。一度の爆撃で工作機械、電力設備、資材倉庫、人員を同時に失えば、兵器生産全体が止まるためです。
長崎市公式資料は、戦況悪化を受けて政府が軍需生産を長期確保・強化するため、工場を効果的に分散し、地下へ移設する方針を決めたと説明しています。住吉トンネル工場は、この全国的な工場疎開政策を長崎の軍需工場へ適用した施設でした。
重要なのは、完成した地上工場を閉鎖して地下工場へ一斉移転したのではない点です。三菱兵器は大橋工場で魚雷生産を続けながら、使える坑道から順に工作機械を住吉へ移し、掘削と生産を同時並行で進めました。工場疎開は「新工場の完成を待って移る」余裕のない、戦時下の段階的な移転でした。
そのため住吉には、稼働済みの生産区画、機械移設中の区画、まだ掘削中の区画が同時に存在しました。1945年8月9日の被爆時にも工場は24時間交代制で稼働し、その一方で朝鮮人労働者によるトンネル掘削が続いていました。
大橋工場の機械を住吉へ移した
三菱兵器は魚雷を製造していた大橋工場の機械の一部を住吉のトンネルへ順次移しました。
トンネル掘削、工作機械の疎開、魚雷部品の生産は同時並行で進められたため、工場全体の完成前から一部坑道では生産が始まっていました。
6本の並列トンネル|住吉側から赤迫側へ山を貫く疎開工場
長崎市によると、住吉付近から山を挟んだ赤迫付近まで6本のトンネルが並行して掘られました。一本の大空間へ設備を集中させず、複数の坑道へ工作機械と作業工程を分散させる構造です。
並列坑道には二つの意味があります。第一に、ある坑道が爆撃や崩落で使えなくなっても、別の坑道で生産を続けられます。第二に、掘削中の坑道と稼働中の坑道を分けやすく、完成を待たずに使える区画から順次工場化できます。住吉では実際に、坑道掘削と機械移設、魚雷部品生産が同時に進められました。
住吉町側と赤迫町側の両斜面に坑口を持つことで、資材や人員の出入り経路も一方向に限られませんでした。ただし、6本すべてが同じ完成度・同じ用途だったわけではなく、原爆投下時にも未完成部分の掘削が続いています。
現在公開されているのは住吉町側の1号・2号トンネルです。記事中の赤迫町側坑口の写真は反対側の遺構で、通常の見学入口とは異なります。現地を訪れる際は「6本全部へ入れる」と考えず、公開範囲と残存坑口を分けて理解する必要があります。
地下で造っていたのは魚雷部品
トンネル内では工作機械を使って魚雷部品を加工していました。長崎市は、交代勤務による24時間体制で魚雷部品を製造したと説明しています。
住吉トンネル工場は完成魚雷だけを組み立てる一体型工場ではなく、大橋工場などと工程を分担する地下分散工場でした。
九一式航空魚雷

現地には九一式航空魚雷が展示されています。九一式航空魚雷は日本海軍が航空機から投下するために使用した代表的な航空魚雷で、真珠湾攻撃でも改良型が使用されました。米海軍歴史遺産司令部は、真珠湾で使われた九一式改2について、浅い湾内でも海底へ突き刺さりにくいよう運用・改良された航空魚雷として説明しています。
九一式航空魚雷は戦時中の日本海軍が重視した兵器技術でもありました。1942年4月に日本を出た潜水艦伊30は、ドイツへ向かう技術交流任務で九一式航空魚雷の設計図を積載していたことが米海軍史料に記録されています。航空魚雷技術そのものが同盟国との軍事技術交換の対象になるほど重視されていたことが分かります。
ただし、現地展示の魚雷そのものが住吉トンネル工場で完成品として製造されたことを示す資料ではありません。長崎市公式資料が確認できるのは、住吉で「魚雷部品の生産等」が行われていたことです。大橋工場など他の生産拠点と工程を分担し、部品加工を地下へ分散させていたと理解するのが適切です。
1945年8月にも掘削が続いていた
住吉トンネル工場では一部坑道から生産を始める一方、残る坑道では掘削が続いていました。長崎市は「工場の運転、機械の疎開及びトンネルの掘削は並行して行われた」と説明しています。
生産約1,800人と掘削約800~1,000人は別の労働集団
1945年8月9日の被爆時、住吉トンネル工場では三菱の工員、各地からの動員学徒、女子挺身隊など約1,800人が魚雷部品の生産等に従事していました。長崎市公式資料は、交代勤務による24時間体制で工場が動いていたと説明しています。
これとは別に、トンネルの稼働と並行して掘削工事が続けられ、朝鮮人約800~1,000人が従事していました。つまり「住吉トンネル工場で働いた人」を一つの人数へまとめることはできません。すでに稼働している坑内で工作機械を操作する生産労働と、未完成部分を掘り進める土木労働が同じ山の中で並行していました。
この区別は被爆状況を考えるうえでも重要です。生産要員は坑内の機械配置に応じて作業し、掘削要員は坑口や未完成区画を含む別の場所で作業していました。原爆投下時に「トンネル内にいた人が比較的大きな被害を免れた」という長崎市の説明も、全員が同じ位置・同じ条件にいたことを意味しません。
また、長崎市公式ページは朝鮮人労働者の人数と掘削従事を明記していますが、個々人が募集・徴用などどの経路で長崎へ来たのかまではこのページだけでは確認できません。人数・作業内容として確認できる事実と、個別の動員経路は分けて扱う必要があります。
1945年8月9日11時2分|17歳の工員は四尺旋盤の前で被爆した
1945年8月9日11時2分、長崎市上空で原子爆弾が炸裂しました。住吉トンネル工場は爆心地から約2.3kmです。長崎市は、トンネル外にいた人々のほとんどが死亡するか、全身のやけどや重傷を負った一方、トンネル内部にいた人々は地下空間によって比較的大きな被害を免れたと説明しています。
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館には、当時17歳で住吉トンネル工場に勤務していた男性の被爆体験が残されています。本人は四尺旋盤を使って航空魚雷の部品を加工している最中に被爆しました。爆発直後、坑口から強い爆風が吹き込み、体を横倒しにされ、坑内は停電して暗闇になったと記しています。
トンネルの外へ弁当を取りに出ていた女学生は、閃光と熱線を受けて髪が焼けた状態で坑内へ戻ってきました。坑内にいた人々は当初、近くでダイナマイトが爆発したのではないかと考えたといいます。地下にいたため原爆そのものを視認できず、外で何が起きたのかをすぐには把握できませんでした。
地下空間は熱線と直接的な爆風を大きく遮りましたが、坑口から爆風が入り、停電や混乱も生じています。したがって「地下にいれば安全だった」という単純な理解ではなく、爆心地から2.3kmという近距離で、地形と坑道が被害を大きく減衰させた一方、坑口付近や坑外では致命的な被害が生じた施設として見る必要があります。
被爆から約30分後、トンネルは負傷者で埋まった
原爆投下直後、住吉トンネル工場は軍需生産施設から避難・救護空間へ変わりました。長崎市公式資料は、三菱兵器大橋工場や近隣の作業員宿舎などから多くの負傷者がトンネル内へ避難し、坑内で比較的大きな被害を免れた人々が応急手当や同僚の救援にあたったと記録しています。
17歳の工員の体験記では、被爆からおよそ30分後には負傷者が折り重なるように坑内へ入り、トンネル内が悲鳴と混乱に包まれたとされています。地上では大橋工場と周辺市街地が壊滅的な被害を受け、熱傷、裂傷、ガラス片による負傷などを負った人々が、比較的構造を保っていた地下空間へ集中しました。
このため住吉トンネル工場は、原爆被害を「守られた地下工場」と「破壊された地上」という対比だけで語れません。被爆前は魚雷部品を24時間生産する軍需工場、11時2分には被爆空間、その直後には周辺の負傷者を受け入れる避難・救護拠点へと、同じ日のうちに役割が連続して変わりました。
坑内に正式な病院設備が整っていたわけではありません。照明が失われ、医薬品や水も限られるなかで、工員や動員者が可能な範囲の応急手当を行いました。地下空間が多数の命を守ったことと、その空間へ負傷者が集中して極度の混乱が生じたことは、同時に押さえる必要があります。
終戦で未完成のまま放棄
原爆投下から6日後の1945年8月15日に終戦を迎え、住吉トンネル工場は完成しないまま役割を失いました。
戦後、米国戦略爆撃調査団も三菱兵器の地下設備を記録
敗戦後、長崎の軍需工場は米国戦略爆撃調査団(USSBS)の調査対象となりました。国立国会図書館が公開するUSSBS資料索引には、長崎の三菱兵器製作所について、生産・組織・設備を調べた資料のほか、「長崎兵器製作所の地下設備一覧」が含まれています。
また、1945~46年に行われた日本側関係者への尋問記録には、三菱重工業関係者から長崎地区の工場計画・生産状況を聞き取った「Plans and Production at Mitsubishi Plants in Nagasaki」も残されています。住吉トンネル工場は、被爆遺構であるだけでなく、戦後すぐに連合国側が日本の軍需生産能力と地下疎開の実態を調査した対象でもありました。
こうした戦後調査資料は、住吉を「原爆から人を守った地下壕」としてだけ見るのではなく、三菱兵器の生産設備、工場疎開、地下化政策の一部として検証する手がかりになります。現地遺構、長崎市の被爆資料、当事者証言、USSBSの産業調査を組み合わせることで、軍需工場と被爆の二つの歴史を同じ場所から追えます。
2010年3月30日、1号・2号トンネルの一般公開を開始
長崎市は2010年3月30日、被爆遺構「三菱兵器住吉トンネル工場」の一般公開を始めました。公開対象は住吉町側の1号・2号トンネルで、坑口周辺に説明パネルを設置し、内部を照明で照らして、通常は入口の柵越しに坑内を見られるよう整備しています。
保存方法は、内部を全面的に観光施設化する方式ではありません。未公開区画や他の坑道を含む遺構を残しながら、日常的には外部から構造を確認できる公開方法を採っています。柵内へ入る見学は長崎市への事前相談・申請が必要です。
さらに毎年、「ながさき平和の日」に合わせた8月7~10日と、国連軍縮週間の10月24~30日には特別公開期間が設定されています。住吉トンネル工場は、常設の被爆遺構として日常的に見学できる一方、特定期間にはより近い距離で内部を確認できる運用になっています。
現在の見学方法
2026年9月時点では、長崎市住吉町18番の道路下にある見学場所を無料で見学できます。通常は入口の柵越しに内部を見る形式です。駐車場はありません。
柵の内側への入場は長崎市への事前相談・申請が必要です。また、長崎市は「ながさき平和の日」や国連軍縮週間に合わせて内部公開を実施しています。
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