旧日本軍の毒ガス研究・実験・製造網|大久野島から全国の化学兵器拠点をたどる

1946年、旧陸軍の毒ガス製造拠点だった大久野島の化学物質貯蔵区域

瀬戸内海の大久野島は、現在「うさぎ島」として知られています。島内には発電場跡や毒ガス貯蔵庫跡が残り、1929年から1945年まで旧陸軍の忠海兵器製造所で化学剤が大量生産されました。戦時中にはウサギも飼育され、毒ガスに関する実験に使われています。

旧日本軍の化学兵器体制は全国に役割を分けて構築されていました。陸軍では東京で研究し、大久野島で毒剤を大量生産し、福岡県の曽根で砲弾や爆弾へ充填し、習志野で運用や防護を教育しました。神奈川県湯河原では毒ガスを使った動物実験と治療法研究、茨城県の鹿島海軍用地ではガス弾による動物実験も行われました。

海軍も築地から平塚、寒川へ研究・製造機能を広げ、陸軍とは別の系統を形成しました。戦争末期には研究所や毒ガス弾が各地へ分散し、敗戦後の海洋投棄や埋設を経て、21世紀にも平塚・寒川・神栖などで問題が表面化しています。

第一次世界大戦が日本の毒ガス研究を動かした

第一次世界大戦では塩素、ホスゲン、マスタードガスなどの化学兵器が大規模に使われました。防毒マスクや防護服の開発も各国で急速に進み、化学兵器と防護技術が軍事研究の一分野になります。

第一次世界大戦後の1919年ごろ、各国のガスマスクを着用した米軍兵士
第一次世界大戦後の1919年ごろ、各国のガスマスクを着用した米軍兵士。Chemical Development Laboratory, Philadelphia/Wikimedia Commons/Public Domain

日本陸軍も1914年に毒ガスの調査研究を始めました。1919年には東京の戸山ヶ原に陸軍科学研究所が設けられ、化学兵器研究が組織化されます。1920年代には将来の戦争を国家の科学・工業力まで動員する総力戦として考える動きが強まり、化学兵器も研究・生産・教育を分担する体系へ発展しました。

1925年のジュネーブ議定書は、戦争における窒息性ガス、毒性ガスなどの使用を禁止した国際的な枠組みです。開発・生産・貯蔵まで包括的に禁止する現在の化学兵器禁止条約とは範囲が異なります。日本がジュネーブ議定書を批准したのは1970年5月21日でした。

化学兵器の開発、生産、取得、貯蔵、保有、使用まで包括的に禁じる化学兵器禁止条約(CWC)は1997年に発効しました。

研究・実験・製造・充填・訓練――化学兵器は分業で作られた

化学兵器は、作用や防護法を研究し、化学剤を量産し、砲弾や爆弾へ充填し、発射・散布の性能を試し、部隊が扱えるよう教育する工程を経て兵器体系となりました。

工程主な内容代表的な国内拠点
基礎研究・開発化学剤、防護、治療、兵器化の研究東京・新宿、築地、平塚など
動物実験毒性、皮膚症状、治療法などを調べる湯河原・吉浜、鹿島、登戸、大久野島など
大量生産化学剤そのものを製造大久野島など
砲弾・爆弾への充填毒剤を弾体へ詰めて兵器化曽根など
試射・散布試験爆発時の拡散、航空散布などを確認鹿島、亀ヶ首、浜松・天竜川周辺など
教育・訓練使用法、防毒、防護、部隊運用習志野学校など
保管・分散兵器廠、部隊、疎開先へ移動全国各地

竹原市は陸軍の主要な分業を「東京で研究開発、大久野島で大量製造、曽根で砲弾・爆弾へ充填、習志野で運用・教育」と整理しています。さらに動物実験、野外試験、部隊への配備、戦争末期の疎開によって、関連施設や物資は全国へ広がりました。

陸軍の化学兵器網――東京・大久野島・曽根・習志野

東京――研究開発の中心

陸軍は1919年に陸軍科学研究所を設置し、化学兵器研究を制度化しました。組織改編を経て、戦争末期には第六陸軍技術研究所が化学兵器研究の中心となり、本部は東京・新宿に置かれました。

大久野島――毒剤を大量生産

広島県竹原市沖の大久野島おおくのしまでは、1929年に忠海ただのうみ兵器製造所が開設され、本格的な毒ガス生産が始まりました。イペリット、ルイサイトなどの化学剤が製造され、島全体が軍需生産拠点として機能しました。

生産工程では危険な薬品を扱うため、働いた人々の中には皮膚や呼吸器などに障害を負った人もいました。大久野島は化学剤を大量に作る重要拠点で、砲弾や爆弾への充填には別の施設が使われました。

曽根――毒剤を砲弾・爆弾にする

福岡県の曽根そね製造所は1937年に開設されました。福岡県の戦争遺跡調査では、大久野島で製造された毒ガスを運び込み、迫撃砲弾や野砲弾などへ充填して化学弾を製造した施設として整理されています。

大久野島で毒剤を製造し、曽根で弾体へ充填する分業でした。終戦時には大量の化学弾が残り、その後の処理や海洋投棄へ続きました。

習志野――化学戦を教える

陸軍習志野ならしの学校は1933年に設置され、化学戦の教育と運用研究を担いました。毒ガスの使用法に加え、防毒、防護、除染なども含む専門教育が行われ、実際の化学剤を扱った訓練記録も残っています。

海軍の系統――築地から平塚・寒川、鹿島へ

海軍は1923年、東京・築地の海軍技術研究所に化学兵器研究室を設けました。1930年に研究機能を神奈川県平塚へ移し、1934年には海軍技術研究所化学研究部となります。1943年には化学部門が相模海軍工廠さがみかいぐんこうしょうとして独立し、本廠が寒川町に置かれました。平塚でも研究が続き、終戦時には福島県いわき、東京都多摩、長野県上田などへ機能が分散していました。

海軍は鹿島海軍用地で毒ガス弾の実験を行い、広島県呉市の亀ヶ首かめがくび試射場でも毒ガス兵器に関する試験が行われました。陸軍系と海軍系では、研究・製造・試験・教育の拠点が別々に配置されていました。

動物実験はどこで行われたのか

湯河原・吉浜――イペリット、ホスゲンと治療法研究

神奈川県湯河原町の吉浜よしはまには、1944年に第六陸軍技術研究所吉浜出張所が置かれました。環境省の全国調査は、ここでイペリットやホスゲンを使った動物実験、毒物管理、治療法の研究が行われたと記録しています。

戦後には研究所が保有した毒ガスの一部が海へ投棄されたとされ、跡地周辺は現在、住宅地や公共施設を含む地域へ変わっています。

鹿島――ガス弾を使った動物実験

現在の茨城県神栖市周辺には鹿島海軍用地がありました。環境省調査では、イペリットとルイサイトを充填したガス弾による動物実験が行われていたことが確認されています。

登戸研究所――豚を使った毒ガス・毒物実験

現在の明治大学生田キャンパスには、旧陸軍の登戸のぼりと研究所がありました。正式には第九陸軍技術研究所で、偽札、秘密通信、毒物、生物兵器など秘密戦・謀略戦に関わる研究を行った施設です。

明治大学平和教育登戸研究所資料館が紹介する史料には動物実験室の存在が記録され、多数の豚が使われました。毒ガスを皮膚に作用させた場合の変化や、毒物を注射した場合の反応などが調べられています。

1947年の航空写真に写る旧陸軍登戸研究所の施設群
1947年の航空写真に写る旧陸軍登戸研究所。現在の明治大学生田キャンパス周辺に研究施設群が広がっていました。U.S. Army/Wikimedia Commons/Public Domain

研究所跡には1943年建立の動物慰霊碑も残っています。史料上、国内の登戸研究所で確認される動物実験と、中国占領地で行われた人体への作用確認は、別の場所・記録として確認されます。

平塚――「犠牲動物慰霊塔」が残る

平塚市内には、海軍技術研究所平塚出張所の関係者が建立した「犠牲動物慰霊塔」が残っています。平塚市博物館によると、研究で犠牲になった動物を慰霊するための碑で、「海軍技術研究所平塚出張所有志」と刻まれています。

大久野島――ウサギも実験に使われた

大久野島おおくのしまでは戦時中、ウサギが飼育され、毒ガスに関する実験に使われたことが資料に記録されています。

兵士が参加した野外実験――1944年の天竜川

環境省が収集した三方原陸軍教導飛行団関係の情報には、1944年12月15日、天竜川河口付近で航空機からイペリットを散布する実験に参加し、被災したという元隊員の記録があります。

明治大学登戸研究所資料館の研究でも、行軍中の一個小隊付近へ航空機からイペリットを散布する「雨下実験」が紹介されています。防毒面の装着が遅れた参加者が重い症状を負った事例も記録されています。動物実験とは異なり、航空散布、防護、部隊行動を実戦に近い条件で試す野外実験・訓練でした。

国内の研究・生産網は中国戦線の化学戦につながった

研究史では、日本陸軍は日中戦争初期から催涙性の「みどり剤」を使用し、1938年以降はくしゃみ・嘔吐作用を持つ「あか剤」の使用を拡大しました。その後、皮膚や粘膜を激しく傷害する「きい剤」も投入され、1940年7月には大本営がきい剤の使用を認める命令を出したことが確認されています。

国内の研究所・製造所・教育機関は、中国戦線での化学戦運用を支える体制の一部でした。史料で確認できるのは、国内の研究・製造・教育体制と中国戦線での化学兵器使用という二つの事実です。

1944~45年、本土決戦準備で研究所と毒ガス弾が全国へ散った

1944年1月、大本営陸軍部は本土防衛を意識した化学戦準備を進めました。空襲が激しくなると、研究施設や化学兵器関係物資も都市部から各地へ移されます。

環境省資料では、終戦時の第六陸軍技術研究所系の拠点として、東京の本部に加え、札幌、米沢、五泉、高岡、沼田、湯河原・吉浜よしはま、西宮、与野、富来などが確認できます。海軍の相模海軍工廠系も、寒川・平塚から、いわき、多摩、上田などへ機能を分散しました。

研究所の疎開に加え、兵器廠、部隊、演習場などにも毒ガス弾や関連物資が存在しました。広島県八本松はちほんまつや山口県大嶺おおみねなど、戦争末期の保管・集積に関係する地点も戦後資料に現れます。

環境省の「全国138事案」が数えているもの

2003年、環境省は旧軍毒ガス弾等について全国規模のフォローアップ調査を実施しました。最終整理では、陸域114事案、水域29事案が抽出され、そのうち5事案が陸域と水域に重なるため、重複を除いた全国138事案として整理されています。

全国138事案は、戦時中の生産・保有、終戦時の廃棄・遺棄、戦後の発見や被災などを地域単位で整理した「事案」の総数です。環境省が集めた情報には、生産・保有に関する情報が34か所、廃棄・遺棄に関する情報が44か所、戦後の発見・被災・掃海など823件が含まれました。

種類意味
研究・生産施設研究所、工場、工廠など
教育・訓練施設学校、演習場など
保管・配備先兵器廠、部隊、飛行場など
廃棄・遺棄地点埋設地、海洋投棄地点など
戦後の発見・被災地点工事、地下水、海中などで問題化した地域

亀ヶ首試射場の毒ガス実験は別資料で確認できます。138事案一覧は、戦後の環境リスク把握を目的に地域単位の事案を整理したもので、旧軍化学兵器施設の網羅的な歴史一覧とは性格が異なります。

敗戦後の処理――埋設、海洋投棄、解体

1945年の敗戦時、日本国内には研究用化学剤、化学弾、原料、製造設備が残りました。連合国の管理下で処理が進められた一方、海洋投棄、埋設、現地での処分も行われました。

大久野島おおくのしまでは戦後、連合国による毒ガス処理作業が実施されました。1946年に撮影された化学物質貯蔵区域の写真には、処理作業の時期に大量のドラム缶が並ぶ様子が残されています。この写真をアイキャッチに使用しています。

曽根に残った化学弾の処理では、北九州周辺の海域への投棄も行われました。湯河原・吉浜でも旧研究所が保有した毒ガスの一部が海へ処分された記録があります。戦争が残した危険物は海底にもあり、現在の港湾工事では機雷や爆弾を探す磁気探査が続いています。

2002~03年、戦後半世紀を経て再び起きた被害

2002年以降、旧相模海軍工廠さがみかいぐんこうしょうに関係する神奈川県寒川町・平塚市周辺で、工事などをきっかけに旧軍毒ガスに関係する被災事故が発生しました。

2003年には茨城県神栖市で、住民に手足のしびれや震えなどの症状が現れ、井戸水からジフェニルアルシン酸(DPAA)など有機ヒ素化合物が検出されました。神栖には戦時中の鹿島海軍用地・実験射場の歴史もあります。環境省の資料は、戦時中の実験記録と2003年の地下水問題をそれぞれ別の事実として整理しています。

寒川、平塚、神栖で相次いだ問題は、旧軍毒ガス弾等の全国的な再調査を進める契機となりました。

現在の「うさぎ島」と戦時中の実験用ウサギは別の歴史

大久野島おおくのしまでは戦時中、毒ガス実験にウサギが使われました。現在島にいるウサギは、戦後に島外から持ち込まれた個体群を起源とする集団として環境省の検討資料で整理されています。

有力な記録では、1971年に島外の小学校で飼育されていた複数頭のウサギが大久野島へ放されました。福島大学の研究者によるDNA分析では複数の遺伝的タイプが確認され、その後も島外から複数回持ち込まれた可能性が示されています。

2018年に撮影された大久野島のウサギ
現在の大久野島のウサギ。戦時中の実験用ウサギとは別に、戦後に島外から持ち込まれた個体群を起源とします。撮影:そらみみ/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

現在の個体群と、戦時中に毒ガス実験で使われたウサギは、別の時期の歴史です。

現在たどれる資料館・遺構

大久野島毒ガス資料館

広島県竹原市の大久野島おおくのしまには毒ガス資料館があり、製造設備、作業員の装備、被害、戦後処理などを伝えています。島内には発電場跡、貯蔵庫跡などの遺構も残ります。

明治大学平和教育登戸研究所資料館

現在の明治大学生田キャンパスには、旧登戸のぼりと研究所の建物を活用した資料館があります。秘密戦兵器、偽札、毒物、生物兵器研究などを、残された資料とともに展示しています。構内には動物慰霊碑も残ります。

平塚の犠牲動物慰霊塔

平塚市には、海軍技術研究所平塚出張所の実験動物を慰霊した塔が残り、地域博物館の調査で由来が紹介されています。

亀ヶ首試射場跡

広島県呉市倉橋島の亀ヶ首かめがくびには、海軍の試射場跡があります。大口径砲の試験施設として知られ、毒ガス兵器の試験も行われました。コンクリート構造物や測定施設などの遺構が残されています。

現在も続く中国の遺棄化学兵器処理

旧日本軍の化学兵器問題は、中国に遺棄された化学兵器の処理という形で現在も続いています。内閣府によると、2024年度末までの累計で153,671発が発掘・回収され、118,155発が廃棄処理されました。2026年2月にもハルビンで2発、広州で66発を回収する作業が行われています。

日本政府は化学兵器禁止条約に基づき、中国政府と協力して回収・廃棄事業を進めています。

戦時下の軍事科学を横に見る

第二次世界大戦中、日本では化学兵器と並行して核兵器の可能性も研究されました。陸軍の「ニ号研究」と海軍の「F研究」の経緯は、日本も原爆の研究をしていた?陸軍「ニ号研究」と海軍「F研究」で詳しく解説しています。

仁科芳雄らが研究した理化学研究所の成立から戦時研究、戦後の再出発までの流れは、理化学研究所(理研)の歴史|渋沢栄一から理研コンツェルン、原爆研究、ニホニウムまでで確認できます。

同時期のアメリカで核兵器開発がどのような巨大研究・生産体制になったかは、写真でたどるマンハッタン計画|3つの秘密都市で原爆はどう作られたのかで扱っています。

まとめ

旧日本軍の化学兵器は、東京などの研究所、大久野島の毒剤製造、曽根の化学弾製造、習志野の教育・訓練、湯河原・鹿島・登戸などの実験、各地の試験場・保管拠点を結ぶ分業体制の中で研究・生産されました。

戦争末期には研究施設や関連物資が全国へ分散し、敗戦後の海洋投棄や埋設を経て、21世紀にも寒川、平塚、神栖などで問題が表面化しました。環境省が整理した全国138事案は、その長い戦後史まで含む記録です。

参考文献・参考サイト

  1. 環境省「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査
  2. 環境省「旧軍毒ガス弾等の全国調査」歴史的経緯・研究生産体制
  3. 環境省「旧軍毒ガス弾等に関する情報の整理」全国138事案
  4. 環境省「昭和48年の旧軍毒ガス弾等の全国調査フォローアップ調査について」
  5. 竹原市「戦争遺跡・大久野島」
  6. 環境省「湯河原町・吉浜地区」
  7. 明治大学平和教育登戸研究所資料館
  8. 明治大学平和教育登戸研究所資料館・研究資料
  9. 平塚市博物館「犠牲動物慰霊塔」
  10. 福岡県教育委員会『福岡県の戦争遺跡』
  11. 国土交通省「亀ヶ首試射場」
  12. 環境省「浜松・三方原関係資料」
  13. 明治大学平和教育登戸研究所資料館・天竜川雨下実験関係資料
  14. 外務省『外交青書』ジュネーブ議定書批准関係
  15. 外務省「化学兵器禁止条約(CWC)」
  16. J-STAGE 生物学史研究・旧日本軍の化学兵器関係研究
  17. 環境省「旧軍毒ガス弾等による環境問題」
  18. 環境省中国四国地方環境事務所・大久野島のウサギに関する検討資料
  19. 環境省中国四国地方環境事務所・大久野島ワークショップ資料
  20. 内閣府「遺棄化学兵器処理事業」
  21. 内閣府「遺棄化学兵器処理事業の経緯」