六本木5〜6丁目の歴史散歩|鳥居坂・国際文化会館・毛利庭園・六本木ヒルズをたどる

六本木ヒルズの毛利庭園

六本木交差点から南へ歩くと、街はすぐに平らではなくなります。芋洗坂を下り、鳥居坂へ回れば台地の縁が現れ、その先には日ケ窪の低地があります。現在の国際文化会館や六本木ヒルズは、この起伏の上に江戸の大名屋敷、明治以降の邸宅や学校、戦後の企業用地と住宅地が重なってできた街です。

六本木歴史散歩4回シリーズの第2回として、今回は5〜6丁目をたどります。第1回の「六本木2〜4丁目の歴史散歩」では、坂・旧町名・三井邸・戦後区画整理から六本木グランドタワーまでを扱いました。

六本木1丁目から7丁目までの位置関係を示した地図
六本木1〜7丁目の位置関係。Google My Mapsをベースに作成。

六本木5〜6丁目は「鳥居坂台地」と「日ケ窪」の街

現在の六本木1〜7丁目は、1967年7月1日の住居表示で成立しました。5〜6丁目には、麻布六本木町、麻布北日ケ窪町あざぶきたひがくぼちょう、麻布南日ケ窪町あざぶみなみひがくぼちょう、麻布鳥居坂町あざぶとりいざかちょう、麻布東鳥居坂町あざぶひがしとりいざかちょう、麻布宮村町、麻布桜田町、麻布材木町、麻布飯倉片町や麻布永坂町の一部など、複数の旧町と武家地が組み込まれました。麻布永坂町と永坂、隣接する麻布狸穴町の歴史は、「東麻布・麻布狸穴町・麻布永坂町の歴史散歩」で詳しく紹介しています。

旧町名の分布には地形が表れています。5丁目の鳥居坂周辺は台地で、5〜6丁目の南側には低い日ケ窪が延びます。港区は北日ケ窪町・南日ケ窪町の由来について、鳥居坂台地の裾を北から東へ折れる窪地で、南向きの日当たりのよい場所を「日南窪」と呼んだことから日ケ窪につながったと説明しています。現在の六本木中学校付近には「道灌山」と呼ばれた小丘もあったとされます。

現在の場所主な旧町名地形・歴史の特徴
六本木5丁目麻布六本木町、麻布鳥居坂町、麻布東鳥居坂町、麻布北・南日ケ窪町など鳥居坂台地。大名屋敷から華族・財閥邸、学校、国際文化会館へ
六本木6丁目麻布北・南日ケ窪町、麻布桜田町、麻布材木町など日ケ窪の谷と台地縁。毛利家上屋敷から住宅地・企業用地、六本木ヒルズへ

江戸時代―大名屋敷と谷の町が隣り合っていた

江戸時代の鳥居坂周辺では、台地側に大名や武家の屋敷が並び、坂下の低地には町人の町が形成されました。港区の「武家屋敷・お屋敷跡」は、この地形的な住み分けを現在の鳥居坂周辺の土地史として紹介しています。

鳥居坂とりいざかは六本木5丁目11番から12番の間を下る坂で、江戸時代半ばまで東側に大名鳥居家の屋敷がありました。港区によると、道が開かれたのは元禄年間(1688〜1703)ごろです。氷川神社の鳥居にちなむ説もありますが、港区は鳥居家の屋敷に由来すると考えられる旨を示しています。

芋洗坂いもあらいざかは六本木5〜6丁目にまたがります。港区は、本来は麻布警察署裏へ上る道を指し、現在よく芋洗坂と呼ばれる六本木交差点への道は明治以降にできたと説明しています。饂飩坂うどんざかは六本木5丁目1〜2番にあり、天明年間末ごろまで「松屋伊兵衛」といううどん屋があったことにちなみます。

鳥居坂―大名屋敷から華族・財閥・学校の街へ

六本木5丁目の鳥居坂
鳥居坂(六本木5丁目)。撮影:江戸村のとくぞう/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

明治維新後、鳥居坂台地の広い旧大名屋敷は、華族や財閥関係者の邸宅、学校へと転用されました。1884年には、カナダ・メソジスト教会婦人ミッションから派遣された宣教師マーサ・J・カートメルによって東洋英和女学校が創立されました。公式年表では、旧大名屋敷が並ぶ麻布区東鳥居坂町14番地で、生徒2人から始まったとされています。

井上馨から岩崎小彌太へ―国際文化会館の土地がたどった近代史

現在の国際文化会館の敷地は、江戸時代から幕末にかけて多度津藩藩主・京極壱岐守の江戸屋敷でした。明治初期には井上馨の所有となり、その後は久邇宮邸、赤星鉄馬邸、岩崎小彌太邸へと所有者が変わります。国際文化会館は、香淳皇后が久邇宮邸時代のこの地で生まれたことも紹介しています。

1887年4月、井上馨が邸内に茶室「八窓庵」を移築した際には、明治天皇、皇后、皇太后、各国大使らを招いた催しが開かれ、九代目市川團十郎らによる歌舞伎が天覧に供されました。

岩崎邸の庭園と国際文化会館

1930年、岩崎小彌太は「植治」と呼ばれた七代目小川治兵衛に日本庭園の作庭を依頼しました。現在の国際文化会館の庭園はその庭をほぼ受け継ぎ、2005年に港区の名勝に指定されています。

戦後、土地は国有地となり、国際文化会館が払い下げを受けました。国際文化会館は1952年8月27日に設立され、1955年6月11日に本館が完成・開館しました。本館は前川國男、坂倉準三、吉村順三の共同設計で、2006年には登録有形文化財となっています。

六本木5丁目の国際文化会館本館
国際文化会館(六本木5丁目)。撮影:Wiiii/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

2026年8月現在、国際文化会館公式サイトは庭園について会員のみ入園可能と案内しています。

日ケ窪の毛利家上屋敷―赤穂浪士と乃木希典

六本木6丁目の日ケ窪では、1650年、毛利元就の孫・毛利秀元が甲斐守となり、上屋敷を設けました。六本木ヒルズ公式は、現在の毛利庭園の歴史をこの大名屋敷の庭園にさかのぼらせています。

1702年の赤穂浪士の討ち入り後、47人のうち岡島八十右衛門ら10人が毛利家に預けられ、翌1703年2月、この地で切腹しました。1849年には乃木希典が長府藩上屋敷の日ケ窪屋敷にあった侍屋敷で生まれ、幼年期の9年間を過ごしました。

乃木希典の肖像
乃木希典。国立国会図書館所蔵資料より/Wikimedia Commons/Public Domain。

増島六一郎からニッカ、テレビ朝日へ

毛利家上屋敷跡は1865年に堀田相模守が拝領し、1887年に増島六一郎ますじま ろくいちろうが取得しました。増島は英吉利法律学校(現在の中央大学)の創立者の一人で初代校長です。東京大学法学部を首席で卒業後、英国ミドル・テンプルへ留学して法廷弁護士資格を取得し、帰国後は英吉利法律学校などを設立して弁護士として活動しました。

増島は庭園を「芳暉園ほうきえん」と名付けました。港区の地域資料『ザ・AZABU』によると、池を挟んで本宅と、その対岸に法律書を収めた「正求律せいきゅうりつ書院」を建てています。1927年(昭和2年)の増島邸配置図も残り、正求律書院は六本木ヒルズ再開発前まで存在しました。蔵書は「正求堂文庫」として最高裁判所に寄託されています。明治の法学者の邸宅に、私設の法律図書館が置かれていたのです。

英吉利法律学校校長時代の増島六一郎
増島六一郎(1885〜1891年頃)。出典:『中央大学百年史』通史編上巻/Wikimedia Commons/Public Domain

建物は現地から姿を消しましたが、中央大学大学史資料館には正求律書院の掲額、増島の法服、バリスターウィッグなどが残ります。2026年2月には、正求律書院の開館式や家族の様子を記録したガラス乾板、印鑑など約100点の増島家寄贈資料も紹介されました。

港区の地域資料によると、1951年にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝たけつる まさたかが増島邸旧地を取得しました。ニッカウヰスキー公式年表では、翌1952年に社名を「ニッカウヰスキー株式会社」へ変更し、東京・麻布に東京工場が竣工しています。1967年には千葉県に新東京工場(現・柏工場)が竣工しました。

『ザ・AZABU』には、竹鶴が土地の由緒を大切にして池を埋めることを許さず、ジュンサイが群生する池を残したことや、井戸を掘ってウイスキーのブレンドにも使ったという話が記されています。1977年にテレビ朝日が当地を取得した後も、池は「ニッカ池」と通称され、桜とともに再開発前の景観の一部となりました。

年土地の所有・利用
1865堀田相模守が日ケ窪屋敷を拝領
1887増島六一郎が取得し、庭園を芳暉園と命名
明治〜昭和初期増島邸の本宅・正求律書院
1951竹鶴政孝が増島邸旧地を取得
1952ニッカウヰスキー東京工場
1977テレビ朝日が取得
1986六本木六丁目地区が再開発誘導地区に指定
2000六本木ヒルズ建設着工
2003六本木ヒルズ開業、毛利庭園誕生

戦後の六本木全体が国際色を強めた流れは、「六本木が国際的な夜の街になった歴史」で詳しくたどっています。

六本木ヒルズ以前―日ケ窪住宅と木造住宅地

六本木ヒルズの再開発区域には、テレビ朝日の敷地、公団日ケ窪住宅、戸建て住宅、木造を中心とする低層住宅地、中小ビルがありました。公団日ケ窪住宅は1958年分譲で、約2,580坪の敷地に5階建て5棟、116戸が並んでいました。周辺には幅3メートル前後の細い道路もあり、高低差、老朽住宅、防災、複雑な権利関係が課題となっていました。

六本木ヒルズはなぜ17年かかったのか

1986年、東京都が六本木六丁目地区を再開発誘導地区に指定し、テレビ朝日と森ビルが地元への呼びかけを始めました。1990年に再開発準備組合、1995年に都市計画決定、1998年に市街地再開発組合設立、2000年に着工し、2003年4月に六本木ヒルズが開業します。

年六本木ヒルズ再開発の流れ
1986東京都が再開発誘導地区に指定
1990再開発準備組合発足
1995都市計画決定
1998市街地再開発組合設立
2000建設工事着工
2003六本木ヒルズ開業

森ビルは約400件の地権者と17年をかけた開発と説明しています。港区によると、区域面積は約11.0ヘクタール、総事業費は約2,867億円でした。森ビルの再開発史は「森ビルと東京の再開発史」で詳しく紹介しています。

J-WAVEの表示がある2003年の六本木ヒルズ
J-WAVEの表示がある六本木ヒルズ(2003年)。撮影:Hadge/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

毛利庭園はどう残されたのか

1987年、テレビ朝日敷地内のニッカ池を残してほしいという近隣住民の請願が港区へ提出され、趣旨採択されました。六本木ヒルズの再開発では、旧ニッカ池の池底を固め、周辺を地盤改良し、防護シートで覆って埋土保存しました。その上に現在の毛利池が整備されています。現在見えている毛利池そのものが昔のニッカ池なのではなく、旧池の遺構が現在の池の地下に保存されています。

庭園では再開発前からの樹木も受け継がれました。六本木ヒルズ公式の植物図鑑は、ソメイヨシノ、イチョウ、エノキ、クスノキを「開発以前からこの地にある木」としています。庭園内の石材の一部も再利用され、大イチョウは樹形を保ちながら移植されました。現在の毛利庭園は約4,300平方メートルです。

2026年の次の変化―六本木五丁目西地区再開発

六本木五丁目西地区第一種市街地再開発事業は、六本木5丁目、6丁目、麻布十番1丁目の各一部を含む約9.2ヘクタールの区域です。都市計画は2024年4月8日に決定されました。

2026年5月15日、森ビルと住友不動産は「六本木5丁目プロジェクト」として、高さ約330メートルのメインタワー最上層部に約200室のローズウッド東京、人工地盤上に約16,000平方メートルの「都心の森」を整備する計画を発表しました。2026年8月時点で、東京都の現行事業ページは施行者を「再開発組合(予定)」とし、都市計画決定までを主な経過として掲載しています。

坂を歩くと、400年の土地利用がつながる

六本木交差点から芋洗坂や饂飩坂を下り、鳥居坂へ回ると、台地から低地へ落ちる街の形が見えてきます。鳥居坂上には国際文化会館や東洋英和女学院があり、坂を下れば日ケ窪へつながります。毛利庭園、六本木ヒルズ、さらに進行中の5丁目西地区再開発まで、同じ地形の上に土地利用の変化が重なっています。

六本木ヒルズから元麻布の坂を経て麻布十番へ歩くコースは、六本木~麻布十番の歴史散歩でたどれます。

六本木歴史散歩:総合ガイド/第1回 六本木2〜4丁目/第2回 六本木5〜6丁目/第3回 六本木7丁目+乃木坂/第4回 六本木1丁目

参考文献

  1. 港区「麻布地区の旧町名由来一覧」
  2. 港区「麻布の坂」
  3. 東洋英和女学院「学院の歴史」
  4. 国際文化会館「沿革」
  5. 六本木ヒルズ「庭園の歴史年表」
  6. 森ビル「六本木ヒルズ開発経緯」
  7. 港区「六本木六丁目地区第一種市街地再開発事業」
  8. 東京都都市整備局「六本木五丁目西地区第一種市街地再開発事業」
  9. 森ビル・住友不動産「六本木五丁目西地区第一種市街地再開発事業 ローズウッド東京」
  10. 港区『ザ・AZABU』No.59
  11. 六本木ヒルズ「生まれ変わる毛利庭園」
  12. 六本木ヒルズ「植物図鑑」
  13. ニッカウヰスキー「ニッカウヰスキーの歴史」
  14. 中央大学大学史資料館「増島六一郎」
  15. 中央大学『大学史ニュース』2026年2月28日 Vol.3