「国展」という名前だけを見ると、「国が主催する展覧会なの?」と思うかもしれません。
しかし、国展は国営の展覧会ではありません。
国画会という在野の美術団体が主催する公募展です。
しかも、その歴史はかなり複雑です。国画会の源流は1918年(大正7年)、京都の若い日本画家たちが文展の審査や既存の画壇に満足できず、「創作の自由」を掲げて結成した国画創作協会にあります。
ところが現在の国画会には、日本画部がありません。
現在の5部門は、
- 絵画
- 版画
- 彫刻
- 工芸
- 写真
です。
なぜ日本画家がつくった団体から、現在の国画会が生まれたのでしょうか。
その答えは、1925年の洋画部新設と、1928年の国画創作協会日本画部の解散にあります。
この記事では、国画会とはどんな団体なのか、1918年の国画創作協会から1928年の国画会成立、梅原龍三郎を中心とした洋画部、版画・工芸・写真への拡大、海外美術の紹介、現在の5部門、そして2026年に迎えた「100回記念国展」までを初心者向けに整理します。
日本の主要な美術団体・公募展の全体像は、日本の美術団体・公募展の歴史と違いで整理しています。
国画会とは?まず30秒で分かる
国画会は、絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部門を持つ公募美術団体です。
毎年春に国立新美術館で「国展」を開催しています。
現在の国画会は、政府や美術行政機関の下部組織ではありません。
国画会会則では、自主独立の精神に立ち、他の団体・機関から支配、統制、干渉を受けないことを基本方針として明記しています。
また、国画会は自らの中心理念を「創作の自由」と説明しています。
この「創作の自由」は、現在の国画会になってから突然生まれた言葉ではありません。
その源流は1918年の国画創作協会にあります。
「国展」は国が主催する展覧会ではない
「国展」の「国」という文字を見ると、国立・国営の展覧会のように感じるかもしれません。
しかし主催者は国画会です。
国画会は在野の美術団体として発展してきました。
「在野」とは、政府が設けた官展や行政機関の内部ではなく、作家自身が組織をつくり、作品発表の場を運営する立場と考えると分かりやすいでしょう。
国画創作協会が生まれた1918年当時、日本の美術界には文部省美術展覧会、いわゆる文展が大きな力を持っていました。
国画創作協会は、その文展の外で自由な創作と発表の場をつくろうとした団体でした。
その意味では、二科会や春陽会などと同じく、「官展以外の発表の場」を広げた重要な在野団体の一つです。
国画創作協会から国画会へ
1918年、京都の若い日本画家たちが国画創作協会を結成
国画会の歴史をたどると、1918年1月20日の国画創作協会創立に行き着きます。
創立会員は、
- 小野竹喬(おの・ちっきょう)
- 土田麦僊(つちだ・ばくせん)
- 村上華岳(むらかみ・かがく)
- 野長瀬晩花(のながせ・ばんか)
- 榊原紫峰(さかきばら・しほう)
の5人です。
いずれも30歳前後の若い日本画家でした。
京都国立近代美術館の資料によれば、入江波光(いりえ・はこう)も創立に尽力しましたが、自ら創立会員の列には加わらず、第1回展で国展賞を受けた後に会員となりました。
国画創作協会の宣言で特に重要なのが、「各自の自由な創造」「創作の自由を第一とする」という考え方です。
これは現在の国画会が掲げる「創作の自由」へつながっています。
文展への不満から生まれた「自由な日本画」の場
国画創作協会の創立者たちは、すでに文展へ作品を出していた画家たちでした。
つまり、美術界の外にいた無名の若者が突然団体をつくったわけではありません。
むしろ、既存の公的展覧会の中で活動したからこそ、その制度や審査への問題意識を強く持つようになりました。
例えば土田麦僊は、文展で複数の作品を発表していましたが、第11回文展をめぐる審査への不満などを背景として、1918年に新団体の結成へ進みます。
彼らが求めたのは、「日本画の伝統をそのまま守る」だけの場ではありませんでした。
西洋近代美術にも目を向けながら、新しい日本画をつくることを目指しました。
第1回国画創作協会展と土田麦僊《湯女》

1918年11月、第1回国画創作協会展が東京・日本橋の白木屋で開催されました。
土田麦僊が出品した代表作の一つが《湯女(ゆな)》です。
現在は東京国立近代美術館に所蔵され、重要文化財に指定されています。
文化遺産オンラインは、この作品について、ルノワールなど西洋近代美術への関心と、日本の古典的な絵画表現を一つの画面に取り込んだ作品として解説しています。
つまり、国画創作協会が掲げた「創作の自由」は理念だけではありません。
実際の作品でも、日本画の枠組みを更新しようとする試みが行われていました。
最初の「国展」は日本画の展覧会だった
現在の国展を見ると、絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部門が並んでいます。
しかし1918年の国画創作協会は日本画団体でした。
この時代の国画創作協会展も、通称として「国展」と呼ばれました。
つまり「国展」という呼び名自体は、現在の国画会成立以前から使われています。
ここが国画会史を分かりにくくするポイントの一つです。
現在の「第100回国展」という回数は1918年の第1回国画創作協会展から単純に数えているわけではありません。
現在の回数は、1926年に始まった洋画部の公募展を第1回として数えています。
1925年、梅原龍三郎を迎えて洋画部を新設
国画創作協会は日本画だけの団体として始まりましたが、1925年に大きく変化します。
洋画家の梅原龍三郎(うめはら・りゅうざぶろう)を会員に迎え、洋画部門を設けたのです。
従来の日本画部門を「第一部」、新しい洋画部門を「第二部」としました。
さらに川島理一郎らが加わり、翌1926年から洋画部の公募を開始します。
1926年が現在の「第1回国展」になる理由
1926年、洋画部が初めて一般公募を行いました。
現在の国画会は、この1926年の洋画部公募を「第1回国展」として展覧会回数を数えています。
そのため、1918年=国画創作協会創立・最初の国展、1926年=現在の国展回数の第1回という、二つの「始まり」があります。
初心者には非常に紛らわしいところですが、「団体史は1918年から」「現在の国展の回数は1926年から」と分けると整理できます。
2026年が「100回記念国展」になったのも、この1926年からの回数に基づいています。
1927年、彫刻部と工芸部が加わる
洋画部の公募開始からわずか1年後の1927年、国画創作協会はさらに分野を広げます。
彫刻では金子九平次、工芸では富本憲吉(とみもと・けんきち)を迎え、それぞれ彫刻部・工芸部を新設しました。
工芸部はその後、濱田庄司(はまだ・しょうじ)やバーナード・リーチなど、日本の近代工芸史を考えるうえで重要な作家とも深く関わります。
1928年、日本画部が解散――そして「国画会」が生まれる
1928年、国画創作協会は大きな転換点を迎えます。
第一部、つまり創立以来の日本画部門の会員たちが、国画創作協会の解散を決定しました。
これによって、1918年に始まった日本画団体としての国画創作協会は活動を終えます。
しかし第二部の洋画側は、そのまま解散する道を選びませんでした。
梅原龍三郎、川島理一郎らを中心に協議し、新しい名称を「国画会」と決定。
展覧会の通称である「国展」も継承しました。
つまり現在の国画会は、「国画創作協会全体がそのまま改名した」のではありません。
国画創作協会の第一部・日本画部が解散した後、第二部を中心とする洋画・彫刻・工芸側が新たに国画会として独立・継続した団体です。
1929年、第4回国展として再出発
1929年、国画会として初めての展覧会が開催されました。
ただし回数は「第1回」に戻しませんでした。
洋画部の公募を始めた1926年を第1回として数え、1929年は第4回国展としました。
会場は東京府美術館です。

現在の5部門ができるまで
版画部は段階的に独立した
現在の国画会にある5部門のうち、版画部の成立は少し複雑です。
国画会公式の概要では、第5回展の1930年に絵画の中から版画部を新設し、翌年から独立したと説明しています。
一方、版画部の詳細な歴史では、1928年の国画会成立時に版画室が設けられ、平塚運一らの活動を経て、1931年に正式な版画部となったと整理されています。
つまり版画は、絵画の中の版画 → 版画室・独自活動 → 正式な版画部と段階的に独立したと理解すると分かりやすいでしょう。
1939年、写真部が加わり現在の5部門へ
1939年の第14回国展で写真部が新設されました。
中心となったのは、福原信三(ふくはら・しんぞう)や野島康三(のじま・やすぞう)らです。
これにより、絵画・版画・彫刻・工芸・写真という現在につながる5部門がそろいました。
マティス、ピカソ、モネ、セザンヌまで――海外作品を紹介した国展
草創期の国画会が果たした重要な役割の一つが、海外の美術作品を日本で紹介したことです。
国画会公式の歴史では、戦前の国展で、アンリ・マティス、ピエール・ボナール、オーギュスト・ロダン、アントワーヌ・ブールデル、ジョルジュ・ルオー、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、マルク・シャガール、パブロ・ピカソ、ポール・セザンヌなど、多くの外国作家の作品を特別陳列したと説明しています。
現在のように海外の名画を容易に見られる時代ではありません。
国展は、国内作家の公募展であると同時に、日本の作家や観客が海外の新しい美術に触れる窓口にもなっていました。
工芸部では濱田庄司、バーナード・リーチらも活動
国画会を「洋画団体」とだけ考えると、もう一つ重要な部分を見落とします。
それが工芸部です。
1928年には濱田庄司とバーナード・リーチが会員に迎えられています。
さらに富本憲吉、芹沢銈介(せりざわ・けいすけ)など、近代日本工芸史で重要な作家が国展と関わりました。
戦争で1945年だけ国展が中断
1926年から数える現在の国展は、戦争の激化した1945年を除いて継続して開催されてきました。
つまり2026年は、1926年から数えて101年目ですが、1945年に開催できなかった1年があるため、展覧会回数としては100回目となります。
「創立100周年」と「第100回展」は同じ意味ではありません。
現在の国画会と公募制度
「創作の自由」をどう位置づけているか
国画会会則は、現在も各作家の作品傾向を尊重し、その成熟・発展を目指すことを基本方針としています。
また、自主独立の精神に立ち、外部の団体・機関から支配や統制を受けないことも明記しています。
「審査」ではなく「鑑査」と呼ぶ
国画会の公募制度で特徴的なのが、「審査」ではなく「鑑査(かんさ)」という言葉を使うことです。
国画会公式FAQでは、「作品のうまさ・優劣だけを決める会ではないため」審査ではなく鑑査と呼ぶ、と説明しています。
一般から応募された作品について、会員全員による多数決や討議によって入選・選外を決めます。
さらに入選作品の中から授賞作品も会員全員による鑑査で決定します。
一般出品者・会友・準会員・会員の違い
国画会には、一般出品者・会友・準会員・会員という段階があります。
国画会会則では、正式な構成員は会員・準会員の二段階です。
一方、一般出品者のうち所定の条件を満たした人は「会友」となります。
準会員は一般出品者・会友の中から各部の審議によって推挙され、会員は準会員の中から選ばれます。
国展の一般公募
国展は公募展です。
2026年の100回記念国展では、絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部門で一般から作品を募集しました。
応募できるのは自己制作した未発表作品です。
出品点数は各部1人5点以内。
2026年は、一般出品者について1点10,000円、1点増すごとに2,000円の出品料でした。
2026年「100回記念国展」

2026年の100回記念国展は、2026年4月29日~5月11日に国立新美術館で開催されました。
使用したのは全10展示室に加え、野外展示場A・B・C・Dです。
観覧料は一般1,000円、大学生以下無料、障害者手帳を持つ人と付添者2人まで無料でした。
第100回を記念し、五部合同の次世代作家企画「NEXT GEN ARTISTS 2026」などの特別企画も実施されました。
東京展後には名古屋・大阪へ巡回しています。
2026年秋の受賞作家展・国展秋季展
100回記念国展の本展はすでに終了しています。
しかし2026年には、もう一度国画会の作品を東京で見る機会があります。
100回記念国展受賞作家展・国展秋季展です。
会期は2026年11月1日~11月8日、会場は東京都美術館。入場無料です。
会場はロビー階第3・第4展示室とB3階ギャラリーA。
100回記念国展の受賞作家による作品と、秋季展の作品を見ることができます。
初めて国展を見るなら、5部門の違いを比べる
初めて国展を見る場合は、まず5部門を一度ずつ回ると全体像をつかみやすくなります。
まずは5部門を一度ずつ回ると、国画会という一つの団体の中にどれほど違う表現があるのかを理解できます。
絵画、版画、彫刻、工芸、写真を横断し、受賞作と一般入選作、準会員・会員作品を見比べると、公募展としての仕組みも理解しやすくなります。
日展・二科展・春陽展と何が違う?
| 団体・展覧会 | 歴史上の起点 | 現在の主な分野 |
|---|---|---|
| 日展 | 1907年の文展から続く官展系の歴史 | 日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書 |
| 二科会・二科展 | 1914年、文展洋画部に「第二科」を求めた運動から独自展 | 絵画・彫刻・デザイン・写真 |
| 国画会・国展 | 1918年の国画創作協会を源流に、1925年洋画部、1928年国画会 | 絵画・版画・彫刻・工芸・写真 |
| 春陽会・春陽展 | 1922年、院展洋画部と草土社の流れから結成 | 絵画・版画 |
国画会の特徴は、現在の団体が「日本画団体から始まったのに、日本画部がない」という独特の歴史を持つことです。
まとめ|国画会は「日本画の反官展運動」から5部門の総合美術団体へ変化した
国画会の歴史は1918年、京都の若い日本画家たちによる国画創作協会から始まります。
小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰らが掲げたのは「創作の自由」でした。
1925年には梅原龍三郎らを迎えて洋画部を新設。
1926年に洋画部が公募を始め、これが現在の国展回数の第1回となります。
1927年には彫刻部・工芸部。
1928年には日本画の第一部が解散し、洋画側の第二部を中心に「国画会」として独立。
その後、版画部と写真部が加わり、現在の5部門が成立しました。
そして2026年、国展は100回を迎えました。
国展を見るときは、「日本画から始まった団体が、なぜ絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部門になったのか」という歴史を意識すると、国画会という団体の個性がはっきり見えてきます。
美術団体・公募展シリーズ
日本の美術団体・公募展の全体像|春陽会・春陽展|日本版画協会・版画展|日本工芸会・日本伝統工芸展

