明治五千分一東京図を徹底解説⑨|赤坂・麻布・広尾を読む

第9回は、青山南町、麻布市兵衛町、永坂町・坂下町、桜田町・広尾町・下渋谷村周辺の4図を読みます。現在の赤坂、六本木、麻布、西麻布、広尾、渋谷東部にまたがる地域で、旧武家地、寺社地、邸宅、軍施設、郊外的な土地利用が複雑に入り混じります。

港区によれば、江戸期の赤坂・麻布は武家地と寺社地の比重が大きく、明治11年(1878)に赤坂区・麻布区が成立しました。1880年代の五千分一東京図は、江戸の屋敷地が華族・官僚・軍人の邸宅や軍施設へ変わり、同時に市街地が郊外へ広がる時期を記録しています。麻布龍土町には佐賀藩鍋島家の分家である蓮池藩・鹿島藩の江戸屋敷もあり、詳しくは「東京で佐賀を探す」で紹介しています。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。

東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍

国土地理院 資料番号1033

五千分一東京図測量原図1033 東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1033は明治16年(1883)10月の測量原図です。現在の六本木・赤坂・麻布台にまたがる範囲に、旧大名屋敷を引き継いだ政府高官の邸宅、陸軍施設、工部省用地が並びます。原図で明瞭に読める「東京鎮臺歩兵營」「陸軍囚獄所」「陸軍省用地」「工部省用地」「三條邸」「井上邸」「毛利邸」「南部邸」「松方邸」は、明治初期の土地利用転換を具体的に追える表記です。

東京鎮臺歩兵營――歩兵第一連隊が檜町へ集結する直前

原図西側の大規模な兵舎群には「東京鎮臺歩兵營」とあります。ここは赤坂檜町の歩兵第一連隊につながる兵営です。歩兵第一連隊は明治6年(1873)に編成され、各大隊が段階的に赤坂檜町へ移りました。港区史によれば、全大隊が同地にそろうのは明治17年(1884)6月です。1033はその前年10月の姿で、連隊の集結が完了する直前の兵営配置を記録しています。

江戸時代には長州藩毛利家の屋敷地だった一帯で、その後は陸軍用地、戦後は米軍接収地や防衛庁檜町庁舎を経て、現在の東京ミッドタウン周辺へつながります。明治初期に旧大名屋敷が大規模な軍用地へ転換した代表例です。

陸軍囚獄所――広島藩中屋敷から軍事刑務所、近衛歩兵第三連隊へ

北側の大区画には「陸軍囚獄所」と記されています。ここは赤坂一ツ木町に置かれた軍事刑務所で、のちに衛戍監獄えいじゅかんごくと呼ばれました。敷地は江戸時代の広島藩浅野家中屋敷跡です。

明治26年(1893)、監獄が移転した跡に近衛歩兵第三連隊が新築移転しました。現在の赤坂サカス・TBS周辺にあたります。1033は近衛歩兵第三連隊が来る10年前の状態で、後世の兵営名を当時の表記に重ねず、「陸軍囚獄所」として記録されている段階を確認できます。

三條邸――太政大臣三条実美さんじょう・さねとみの麻布邸

原図の「三條邸」は、麻布市兵衛町に本邸を構えた三条実美さんじょう・さねとみの邸宅です。三条は幕末の七卿落ちを経て明治政府の中心に入り、明治4年(1871)から太政官制が廃止される明治18年(1885)まで太政大臣を務めました。したがって1033作成時にも現職の太政大臣です。

この邸宅では明治2年(1869)11月、三条、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文ら政府首脳と英国公使パークスが会談し、政府が鉄道建設の方針を示しました。新橋―横浜間に始まる日本の鉄道建設史とも直接結びつく場所です。三条は明治24年(1891)に麻布市兵衛町の本邸で死去しました。

井上邸――井上馨いのうえ・かおるの鳥居坂邸

東側の「井上邸」は、港区立郷土歴史館の文化財解説によって井上馨いのうえ・かおるの邸宅と確認できます。江戸時代には多度津藩京極家の屋敷で、明治期に井上邸となりました。原図には南側と東側の植栽、その内側の池まで描かれており、後の岩崎家鳥居坂本邸、現在の国際文化会館庭園へ受け継がれた地形・庭園構成の一部を考える手がかりになります。

井上は長州藩出身の政府高官で、1033作成時には外務卿でした。鳥居坂邸では明治20年(1887)に明治天皇を迎えた天覧歌舞伎が開かれます。地図はその4年前の邸宅を記録しています。

毛利邸――長府藩毛利家の上屋敷から毛利庭園へ

高精細原図には「毛利邸」も明瞭に記されています。場所は現在の六本木ヒルズ・毛利庭園付近です。江戸時代、この一帯には長門府中藩(長府藩)毛利家の上屋敷がありました。元禄16年(1703)には、赤穂浪士47人のうち岡嶋八十右衛門ら10人がこの屋敷に預けられ、2月4日に切腹しています。また嘉永2年(1849)には、後の陸軍大将乃木希典のぎ・まれすけが藩邸内の長屋で生まれました。

長府藩毛利家の屋敷は幕末の元治元年(1864)に収公されましたが、この土地と毛利家の関係は明治初期の地図にも「毛利邸」という名で残っています。明治20年(1887)には法律家・教育者の増島六一郎の邸宅となり、その後ニッカウヰスキー東京工場、テレビ朝日の敷地を経て、平成15年(2003)に六本木ヒルズと毛利庭園が整備されました。1033の表記は、江戸の大名屋敷から現代の毛利庭園まで続く土地の記憶を途中の段階で記録しています。

工部省用地と陸軍省用地――官有地として再編される麻布

原図には「工部省用地」と「陸軍省用地」も明瞭に記されています。麻布今井町には工部省の外国人教師官舎用地があり、明治10年(1877)に来日した英国人建築家ジョサイア・コンドルも「工部省傭教師館御用地」麻布今井町22番地に居住しました。原図の工部省用地はこの官舎用地との関係が強く推測できますが、原図自体には居住者名までは記されていないため、コンドル個人の敷地と完全に同一とは断定しません。

一方の陸軍省用地は、1880年代後半以降に軍事施設がさらに集中する麻布の前段階を示します。後の施設名を先取りせず、1033では陸軍省が確保した用地として読むのが適切です。旧武家地が政府高官の邸宅と官有地、軍用地へ分かれていく明治初期の土地再編が、一枚の原図に並んでいます。

南部邸と松方邸――姓だけでも追える麻布の邸宅史

高精細原図では「南部邸」も明瞭に読めます。麻布と南部家の関係は江戸時代から深く、港区の旧町名資料では、麻布盛岡町一帯が延宝年間(1673~1681)には奥州盛岡藩南部家の邸地となり、明治維新まで続いたとされています。現在の南麻布に残る南部坂や旧盛岡町の名も、この南部家屋敷に由来します。明治期の麻布には南部家の複数の系統・旧邸地が関わっており、1033の「南部邸」は、南部家と麻布の長い土地関係を示す表記として読むことができます。

「松方邸」も原図で確認できます。隣接する1034には三田二丁目の松方正義まつかた・まさよし邸を詳しく記しました。港区資料では、明治以後の松方正義邸が三田にあり、後に現在のイタリア大使館敷地へつながったことが確認できます。1033の表記が同じ邸宅の図郭内表現なのか、松方家の別区画なのかまでは断定しませんが、少なくとも明治16年の地図に「松方邸」と記された邸宅が存在すること自体は採用対象とします。

東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍

国土地理院 資料番号1034

五千分一東京図測量原図1034 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1034は明治16年(1883)10月の原図です。原図を高精細で確認すると、「海軍觀象臺」「海軍兵器局」「徳川邸」「嶋津邸」「仁禮邸」「蜂須賀邸」「黒田邸」「松方邸」「松井邸」など、明治政府の官庁施設と旧大名・華族・高官の邸宅が同じ図上に並びます。旧武家地が、海軍施設、華族邸、政府高官の邸宅へ再編されていた時期を具体的に追える図です。

海軍觀象臺かんしょうだい――日本経緯度原点につながる麻布の天文観測

麻布飯倉の高台には「海軍觀象臺」と記されています。海軍は明治5年(1872)11月、飯倉の戸沢邸・石井邸の一部を買い入れて観測施設を設けました。明治7年(1874)の金星日面通過では海外の観測隊と共同観測が行われ、近代的な天文・測地観測の拠点となりました。1034が測量された明治16年頃の海軍観象台の写真も港区資料に残されています。

明治21年(1888)には海軍省水路部・内務省地理局・東京大学の天文観測部門が統合され、この地に東京天文台が成立しました。明治25年には子午環の中心が日本経緯度原点とされます。現在も麻布台二丁目に日本経緯度原点があり、1034の「海軍觀象臺」は日本の近代測量の基準点へ直接つながる表記です。

海軍兵器局――工部省赤羽工作分局が海軍へ移った年

図の東南端には「海軍兵器局」と大きく記されています。この場所の前身は、明治4年(1871)に三田赤羽で始まった工部省系の官営工場で、明治10年から赤羽工作分局として機械工業の中核を担いました。国立国会図書館の解説では、赤羽工作分局は明治16年(1883)に海軍省へ移管されています。

1034の測量は同じ明治16年10月です。工部省の官営機械工場から海軍の兵器製造拠点へ所属が切り替わった直後の名称を地図が記録していることになります。後年の施設名をさかのぼって当てはめるのではなく、移管直後の「海軍兵器局」として描かれている点が重要です。

徳川邸――紀州徳川家の麻布飯倉本邸

飯倉片町の大区画にある「徳川邸」は紀州徳川家の本邸です。明治6年(1873)、旧江戸城西の丸御殿の焼失を受け、14代当主徳川茂承とくがわ・もちつぐは赤坂の旧紀州藩中屋敷を皇室へ献納し、代わって旧米沢藩上杉家中屋敷を麻布飯倉の本邸としました。現在の外務省飯倉公館、麻布小学校などにまたがる一帯です。

のちに紀州徳川家15代徳川頼倫とくがわ・よりみちが邸内に南葵文庫を設け、蔵書を公開しました。1034は南葵文庫開設以前、旧大名屋敷が明治華族の本邸として使われていた段階を記録しています。

嶋津邸――島津忠亮しまづ・ただあきらと香蘭女学校

原図の「嶋津邸」は、麻布区永坂町1番地に邸宅を構えた島津忠亮しまづ・ただあきらの邸宅と確認できます。忠亮は旧佐土原藩主家の出身で、翌明治17年(1884)の華族令で子爵となりました。

明治21年(1888)、香蘭女学校は島津忠亮子爵邸の一部を借り、3月に校舎を完成させて4月に開校しました。1034はその5年前の邸宅を描いています。華族邸の一部が近代女子教育の校地へ転用される直前の状態を確認できる例です。

川村・仁禮・蜂須賀・黒田・松方――明治政府の中枢人物が並ぶ邸宅地

この図では個人名を冠した大邸宅が連続します。「川村邸」は、麻布狸穴町に邸宅を構えた海軍卿川村純義かわむら・すみよしの邸宅と確認できます。川村は明治11年(1878)から海軍卿を務め、1034作成時にも海軍の中枢にいました。後年には幼少の迪宮裕仁親王みちのみや・ひろひとしんのう、のちの昭和天皇の養育を託された人物です。

三田綱町の「仁禮邸」は海軍軍人仁礼景範にれ・かげのりの家に関係する邸宅と推測できます。仁礼は海軍兵学校長、中艦隊司令官などを歴任し、明治17年には海軍省軍事部長となりました。後年、この仁礼家の邸地は渋沢家へ渡り、渋沢栄一の子・篤二の住居となります。

隣接する「蜂須賀邸」は、旧徳島藩主蜂須賀茂韶はちすか・もちあきの三田綱町邸と考えられます。明治20年(1887)の華族住所録では茂韶の住所が芝区三田綱町9と確認でき、現在のオーストラリア大使館一帯へつながります。1034作成時、茂韶は外交官としてフランス駐在特命全権公使を務めていた時期です。

「黒田邸」「松方邸」は、それぞれ黒田清隆くろだ・きよたか松方正義まつかた・まさよしの三田二丁目の邸宅と確認できます。黒田は北海道開拓を主導し、後に第2代内閣総理大臣となりました。松方は1034作成時に大蔵卿で、緊縮財政と通貨制度整備を進めていた時期です。松方邸の敷地は後にイタリア大使館となります。

松井邸――明治16年の麻布に記録された個人邸

高精細原図には「松井邸」も明瞭に記されています。周辺には華族・政府高官・海軍関係者の大規模邸宅が並んでおり、「松井邸」もその邸宅地の一つとして明治16年の土地利用を示します。港区史や明治期の住所資料では、この松井家の家歴や後の土地利用を詳しく追える材料までは確認できませんでしたが、原図からは松井姓を冠した個人邸がこの場所に存在したことを読み取れます。

善福寺――日本最初のアメリカ公使館

寺社の多くは一般的な施設として採用対象から外しましたが、善福寺は例外です。安政6年(1859)、初代駐日アメリカ総領事から公使となったタウンゼント・ハリスが善福寺に入り、日本最初のアメリカ公使館が置かれました。1034では、幕末外交の舞台となった寺院と、明治期の海軍施設・華族邸が同じ範囲に描かれています。

東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍

国土地理院 資料番号1035

五千分一東京図測量原図1035 東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1035は明治16年(1883)9月の測量原図です。高精細原図では、現在の青山霊園にあたる広い墓域に「埋葬地」、その周辺に「陸軍射的場」「青山小學」「教學院」「梅窓院」「青山邸」「鍋島邸」「加地邸」が明瞭に記されています。明治初期の墓地制度、軍用地、公教育、江戸以来の寺院が近接していた青山の姿を読み取れます。

「埋葬地」――開設9年後の青山霊園

原図中央の広大な墓域には「埋葬地」とあります。現在の青山霊園です。明治5年(1872)には旧郡上藩青山家邸跡などが神葬墓地として指定され、明治7年(1874)6月の墓地取扱規則を受けて公共墓地として整備されました。青山霊園の正式な開園日は同年9月1日です。1035は開園から約9年後、東京府へ管理が移された後の墓地を描いています。

現在は明治以降の政治家、軍人、文学者、科学者、外国人など多くの墓所が残ります。1035では後世の「青山霊園」という名称を先取りせず、原図が記した「埋葬地」という表記から、近代東京で公共墓地制度が形を整えつつあった段階を確認できます。

陸軍射的場――拡張の翌年を描いた原図

墓域の近くには「陸軍射的場」が明瞭に記されています。国立公文書館には、1035作成の前年にあたる明治15年(1882)3月の「東京府下青山射的場増地受領ノ件」が残っています。したがって1035は、陸軍が青山の射的場を拡張した直後の土地利用を記録した原図とみられます。

青山一帯が大規模な練兵場として整備されるのはさらに後の時期です。1035では後世の施設名を重ねず、明治16年時点で原図に記された「陸軍射的場」として扱うことで、軍用地が段階的に拡大していく過程を追えます。

青山小學と教學院――寺院境内に始まった公立学校

原図では「青山小學」と「教學院」が隣接して記されています。この配置は青山小学校の創立史と一致します。港区教育史によれば、青山小学校は明治8年(1875)、青山南町4丁目4番地の教学院境内162坪を下付されて校舎を建て、同年11月に第三中学区第十七番公立小学校青山学校として開校しました。開校時は職員5人、児童194人でした。

学校は明治19年(1886)9月に青山南町3丁目22番地へ移転します。したがって1035は、移転3年前の初期校舎を、土地を提供した教学院と並べて記録しています。寺院境内を利用して近代公教育の学校網が整備されていった明治初期の実例です。

梅窓院――「青山」の歴史につながる青山家の菩提寺

通常の寺院名は採用対象から外しましたが、「梅窓院」は青山という土地の来歴と直接結びつくため重要です。梅窓院の公式寺史によれば、寛永20年(1643)、老中青山幸成あおやま・よしなりの死去に際し、青山家下屋敷のうち1万3247坪を割いて建立されました。幸成の法名「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」から院号が取られ、以後青山家の菩提寺となりました。

1035では、青山家の旧屋敷地に成立した近代墓地と、江戸時代から続く青山家の菩提寺が同じ図面に描かれています。旧大名家の土地が明治政府の墓地・軍用地・学校へ組み替えられていく一方、江戸以来の寺院がそのまま残った土地利用の重なりを確認できます。

青山邸――地名「青山」の起源を背負う邸宅表記

高精細原図には「青山邸」も明瞭に記されています。港区史では、天正18年(1590)に徳川家康から給地を受けた青山忠成あおやま・ただなりの邸宅が「青山」という地名の起源とされ、青山邸と周辺の地域称は不可分だったと説明されています。江戸期には青山家の屋敷が分かれ、現在の南北青山より東まで広がる範囲に青山の名が定着しました。明治5年(1872)には青山南町一~七丁目が成立しており、1035の「青山邸」は、家名に由来する地名と実際の邸宅表記が同じ原図上に重なる例です。

さらに翌明治17年(1884)の陸軍文書には、青山南町の「青山邸地家屋共」を買収したとの記録があり、青山姓を冠した邸宅地が明治10年代にも実在し、その直後に軍用地化した区画があったことが分かります。この文書の青山邸と1035上の区画が完全に同一かまでは断定しませんが、原図の表記を、江戸以来の青山家の土地史と明治期の土地再編の双方から説明できます。

鍋島邸と加地邸――青山に残る旧藩・華族関係者の邸宅

原図には「鍋島邸」が明瞭に記されています。鍋島家は旧佐賀藩主家だけでなく複数の分家を含む大きな家系で、明治以後は東京に複数の邸宅を構えました。鍋島報效会の資料では、旧佐賀藩主鍋島家が維新後に東京へ住まいを移し、後には永田町に大規模な洋館を建てたこと、青山霊園に鍋島家墓所が長く置かれたことが確認できます。また後年の史料には青山南町の鍋島邸も現れます。1035の「鍋島邸」が鍋島家のどの系統の邸宅だったかは今回確認できませんでしたが、明治16年の青山に鍋島姓の大規模邸宅が存在したことは原図から確実に読み取れます。

「加地邸」も高精細原図で判読できます。明治期の加地家については、加地匡郷かじ・まささとが紀州徳川家最後の藩主徳川茂承とくがわ・もちつぐに仕えたことが和歌山県立近代美術館の調査で確認されています。匡郷の弟加地為也かじ・ためやは明治8年(1875)に渡米し、アメリカで絵画を学んだ日本人の先駆けの一人です。1035の「加地邸」と加地匡郷の直接の関係を示す住所資料までは確認できませんが、原図の邸名は明瞭です。加地家について確認できる明治期の人物史を背景として紹介することで、この邸名が当時の青山にあった加地姓の邸宅を示すことが分かります。

東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍

国土地理院 資料番号1036

五千分一東京図測量原図1036 東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

資料番号1036は明治16年(1883)12月の測量原図です。高精細原図を全域確認すると、麻布広尾町から南豊島郡下渋谷村にかけて「工部省病院」「内務省試驗所」「宮内省御用地」「海軍囚獄署」に加え、「高樹邸」「岡部邸」も明瞭に読めます。周囲には畑や茶畑が広がり、東京市街の外縁に医療施設、試験用地、皇室用地が置かれていた状況を具体的に記録しています。

工部省病院――殖産興業を支えた官庁病院

原図東側には「工部省病院」と記されています。『新修港区史』が明治12年(1879)の『東京府統計書』から整理した官有地一覧にも、工部省の「病院」が麻布広尾町23番地に置かれていたことが確認できます。1036は、その工部省病院を建物配置とともに描いた資料です。

『工部省沿革報告』によれば、工部省営繕課は明治10年(1877)2月、管轄する建築現場で就業中に負傷し療治費の支給を受ける職工・役夫について「本省病院」で治療させる方針を定めました。工部省は鉄道、鉱山、電信、官営工場、営繕など近代化事業を抱えており、病院はそうした事業に従事する人々の医療とも結びついていました。1036作成から2年後の明治18年(1885)12月に工部省は廃止されるため、地図は省の末期に存在した病院を記録しています。

海軍囚獄署――現在のドイツ大使館敷地にあった海軍の懲罰施設

原図南東部の大区画には、右横書きで「海軍囚獄署」と明瞭に記されています。現在のドイツ大使館敷地にあたる場所です。ドイツ大使館がまとめた敷地史でも、1880年代の一時期にこの場所へ海軍の懲罰施設「海軍囚獄処」が置かれていたことが、当時の地図から確認できるとしています。1036の測量は明治16年(1883)12月で、まさにその時期の施設を記録したものです。

海軍省関係の公文書には「麻布囚獄場」という呼称も見え、海軍の裁判・刑罰制度に属する拘禁施設が麻布に置かれていたことが分かります。原図の「海軍囚獄署」、大使館資料の「海軍囚獄処」、公文書の「麻布囚獄場」は表記が異なりますが、いずれも同時期の麻布に存在した海軍の拘禁・懲罰施設を示す語として理解できます。ここでは地図上の文字を尊重して「海軍囚獄署」と記し、施設の性格を海軍の懲罰・拘禁施設として説明します。

内務省試驗所しけんじょ――旧開拓使の試験用地が残る地域

下渋谷村側の広い区画には「内務省試驗所」とあります。敷地内と周辺には「茶」「畑」の土地利用記号が多く、農村景観の中に官設の試験施設が置かれていました。

この一帯には1036以前から政府の農業・畜産試験用地がありました。明治4年(1871)、開拓使は麻布新笄町の旧佐倉藩主堀田正倫ほった・まさとも邸などを第三官園とし、外国から導入した動植物の試育や牧畜を行いました。『新修港区史』が掲げる明治12年の官有地一覧にも、開拓使の「動植物植附場」が南豊島郡下渋谷村14・297番地にあったことが記されています。明治14年(1881)には開拓使が東京の農業試験場3区のうち2区を廃止し、翌15年に開拓使そのものが廃止されました。

1036の「内務省試驗所」について、公的資料からは明治16年当時の所管局や具体的な試験内容までは確認できません。周辺には旧開拓使の試験用地があり、官庁再編の中でその一部が別用途へ組み替えられた可能性があります。原図の「茶」「畑」という土地利用と合わせると、官設の試験施設が農村景観の中に置かれていたことは明確です。なお、同じ明治16年に神田和泉町で「衛生局試験所」と改称された薬品検査機関は所在地が異なるため、1036の施設と同一視できません。

宮内省御用地――下渋谷に広がった皇室用地

内務省試驗所の南側には「宮内省御用地」と大きく記されています。東京都立図書館木子文庫には「皇室御料地敷地図/下渋谷村十四番地御用地」と「渋谷第二御用地字伊勢山」が残り、下渋谷村に複数の皇室関係用地が存在したことを確認できます。

明治21年(1888)の国立公文書館資料にも「南豊島郡下渋谷村皇宮地附属地」を返付する記録があり、1036作成後も下渋谷の皇室用地は行政上明確に扱われていました。後には下渋谷の御料地の一部が学校などへ転用され、常磐松の渋谷第三御料地には明治36年(1903)に実践女学校が移転します。ただし1036に描かれた「宮内省御用地」の全区画を、後の実践女学校校地とそのまま同一視することはできません。地図から確実に読み取れるのは、明治16年の下渋谷に宮内省の大規模な御用地が置かれていたことです。

高樹邸――「高木町」から「高樹町」へ変わった地名を映す表記

高精細原図を再確認すると、ここは「高木邸」ではなく、右横書きで明瞭に「高樹邸」と記されています。原図の文字をそのまま読む必要があります。『新修港区史』によれば、近世のこの一帯には河内丹南藩たんなんはん高木家の邸宅があり、周辺では高木家の姓から「高木町」、歴代当主の官途名から「主水町」という里俗称が生まれました。

明治5年(1872)の町名制定では、里俗称の「高木町」の文字を「高樹」に改め、青山高樹町が成立しました。したがって1036の「高樹邸」は、江戸期の高木家屋敷を背景に生まれた「高樹」という明治の地名表記が、邸宅名にも用いられていたことを示すものと理解できます。1883年当時の居住者を決めなくても、高木家の屋敷史から高樹町の成立へ続く土地の来歴を説明できる表記です。

岡部邸――下渋谷に長く残った岸和田藩岡部家の屋敷地

下渋谷側には「岡部邸」も確認できます。渋谷区立図書館の『新修渋谷区史』年表では、寛文10年(1670)に岸和田藩主岡部家の抱屋敷が渋谷に成立し、元禄15年(1702)にはその一部が同家の下屋敷になったことが記されています。岡部家の渋谷屋敷には通明観つうめいかんと呼ばれた庭園があり、『江戸名所図会』にも取り上げられた名園でした。

岡部家の渋谷屋敷は江戸期に分割や交換を重ねており、1036の「岡部邸」が江戸時代の下屋敷のどの区画を引き継いだものかまでは確認できません。それでも、下渋谷と岡部家の土地関係が17世紀から続き、明治16年の原図にも岡部姓の邸宅が記録されていることは明確です。「岡部邸」は、下渋谷に残った旧大名家の屋敷地の長い変遷を読む手がかりになります。

4枚を続けて見ると見えてくる赤坂・麻布・広尾

1033〜1036を続けると、赤坂・麻布の大規模屋敷地と寺社地、青山の墓地、広尾・下渋谷の郊外景観が連続して現れます。現在は高密度な都心住宅地・商業地となった地域でも、1880年代には市街地の縁がはっきり残っていました。

明治五千分一東京図シリーズ: ← 前の記事:⑧ 番町・紀尾井町・四谷・青山9地域総合ガイド

主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 港区「地名の歴史(赤坂地区)」
  • 港区「地名の歴史(麻布地区)」
  • 港区『港区史』通史編 近代
  • 渋谷区立図書館『新修渋谷区史』
  • 国立公文書館 アジア歴史資料センター「軍医本部伺病室増築の件」(明治17年)
  • ドイツ連邦共和国大使館『建物と庭園―日独交流史の一側面』
  • 公益財団法人鍋島報效会 徴古館「侯爵鍋島家と東京」
  • 和歌山県立近代美術館「加地為也をめぐって」