新宿通りから一本、路地へ入ります。
昼間は事務所、マンション、寺、コンビニが並ぶ普通の市街地です。ところが夕方になると、小さな看板に灯が入り、数階建てのビルの一室一室が別々の店であることに気づきます。表通りに巨大な店を構える歌舞伎町とは違い、新宿二丁目の夜は、狭い階段と小さな扉の奥へ積み重なっています。
なぜ、この場所にこれほど多くのゲイバーが集まったのでしょうか。
「昔、赤線だったから」と説明されることがあります。確かに、1958年に旧赤線の店が閉じ、空いた建物や小規模物件へ店が移ったことは重要です。しかし、それだけなら、全国の旧赤線が同じようにゲイタウンになっているはずです。実際には、そうなっていません。
新宿二丁目を形づくったのは、一度の転換ではありません。
甲州街道の宿場。 宿場に付随した遊興。 近代の貸座敷街。 戦後の赤線。 営業終了後の空白。 周辺から移ってきたゲイバー。 小さな店を借りる仕組み。 店主と客の紹介ネットワーク。 性的指向を隠さずに過ごせる場所への切実な需要。 建物の建て替えと、縦方向への店舗集積。
この記事では、現在の新宿二丁目を珍しい街として眺めるのではなく、人、建物、制度、交通が約300年かけて組み替わった都市としてたどります。
この記事で分かること
- 新宿二丁目が内藤新宿の宿場から始まった経緯
- 遊郭、赤線、ゲイタウンの違い
- 1958年以後にゲイバーが集まった理由
- 「最初の一軒」を断定できない理由
- 小規模物件と紹介ネットワークが集積を支えた仕組み
- 新宿二丁目が当事者にとって「ホーム」になった意味
- オンライン化や観光化の後も街が残る理由
- 歴史散歩で見るべき場所と守るべきマナー
まず結論―赤線だったことは一因だが、答えの全部ではない
新宿二丁目がゲイタウンになった理由は、次の六つが重なったからです。
- 旧赤線の営業終了後、小規模な店舗や旅館などの空間が空いた
- 新宿三丁目や東口周辺などに点在していたゲイバーが二丁目へ移った
- 小さな区画の店を比較的低い初期費用で始められる仕組みがあった
- 物件を貸す人、仲介する人、店を譲る人、独立する店員のネットワークができた
- 新宿という巨大ターミナルに近く、地域外から匿名性を保って訪れやすかった
- 当事者が安心して出会い、話し、自己を表現できる場所として認識された
旧赤線の空洞化は、最初の条件の一つです。しかし、空いた物件があるだけでは店は集まりません。そこへ人を呼び、次の店主へ物件を渡し、客が別の客を連れてくる関係が必要です。
地理学者の須崎成二は、ゲイバー経営者や物件供給者への聞き取りから、コストを抑えられるリース店舗、出店時のカミングアウト負担を軽くする環境、物件供給に関わるキーパーソンが新宿二丁目の存続を支えていると指摘しました。
つまり、答えは「赤線跡」ではなく、「空間が空いた後に、店と人を結ぶ仕組みが育った」です。
まず誤解をほどく―遊郭・赤線・ゲイタウンは同じではない
新宿二丁目の歴史を語る前に、三つの言葉を分ける必要があります。
| 用語 | 主な意味 | 新宿二丁目との関係 |
|---|---|---|
| 遊郭・遊廓 | 公的に指定・管理された貸座敷と娼妓の営業地域 | 宿場の遊興機能が近代に再編され、新宿遊廓が成立した |
| 赤線 | 公娼制度廃止後、特殊飲食店などの形で営業が続いた地域の通称 | 戦後から1958年まで旧遊廓の営業が続いた |
| ゲイタウン | ゲイバーなど性的少数者向けの店とコミュニティが集積する地域 | 1960年代以後、複数の条件が重なって形成された |
遊郭は、女性が男性客を相手にする性産業を公的に管理した制度です。赤線は、戦後に公娼制度が廃止された後も、特殊飲食店などの形で営業が続いた地域を指します。
一方、ゲイタウンは、ゲイ男性を中心とする飲食店、交流、情報、文化、支援活動などが集まる都市空間です。ゲイバーの多くは飲食店であり、旧遊郭や性風俗店と同じ業態ではありません。
性的少数者の街を「性風俗街が形を変えただけ」と説明すると、当事者が安全に集まる場所をつくってきた歴史が消えてしまいます。
また、現在の新宿二丁目には、ゲイ男性向けの店だけでなく、レズビアンバー、トランスジェンダーやクィアの人々が関わる店、誰でも入れる店があります。ただし、すべての店があらゆる人を同じように受け入れるわけではありません。店ごとの客層やルールを無視して、「LGBTQなら誰でも同じコミュニティ」と一括りにすることはできません。
内藤新宿―甲州街道の宿場から始まった
現在の新宿二丁目の前史は、内藤新宿にあります。
江戸時代、日本橋から甲州街道を進むと、最初の宿場は高井戸でした。距離が長かったため、浅草阿部川町の名主らが幕府へ新しい宿場の開設を願い出ます。元禄12年(1699)、内藤家の屋敷地の一部を利用して、新しい宿駅が開かれました。
新宿という地名は、「新しい宿」に由来します。
宿場には、旅人の宿泊、荷物や馬の継ぎ立て、飲食、買い物が集まりました。そこには飯盛女と呼ばれる女性たちもいました。表向きは旅籠で食事や給仕を担う女性でしたが、実際には性的な接客を求められる場合がありました。
この時点の内藤新宿を、後世の新宿遊廓や現代の新宿二丁目と同じものとして扱ってはいけません。ただし、「街道を移動する外来者を相手に、宿泊・飲食・遊興が集まる」という都市機能は、地域の長い前史になりました。
新宿二丁目の太宗寺は、内藤新宿の宿場とともに発展した寺です。現在の街を歩くと、バーやマンションの間に寺が残り、夜の街より古い時間層が見えてきます。

画像を見てください。広重は、後の遊廓ではなく、甲州街道を行き交う馬と旅人を低い視点から描きました。新宿二丁目の歴史は、まず「人が通り、泊まり、町の外から金と情報が入る場所」だったことから始まります。
新宿御苑の外周、新宿追分、内藤家の土地を現地でたどるなら、新宿御苑の外周から内藤新宿の痕跡をたどる記事も参考になります。
宿場の遊興から近代の新宿遊廓へ
明治になると、宿場の遊興は近代国家の警察・衛生制度の中へ組み替えられました。
営業する貸座敷、そこで働く娼妓、店の所在地は、許可と取締りの対象になります。江戸時代の飯盛女が、そのまま同じ制度の下で近代の娼妓になったわけではありません。身分制度、営業許可、検査、税、警察管理が変わり、町の空間も再編されました。
新宿の貸座敷営業は、1918年に警察から移転を命じられ、1921年までに現在の新宿二丁目側へ集約されたとする研究があります。同じ1921年には大火があり、街は焼失しましたが、53軒の貸座敷が再建され、「新宿遊廓」と呼ばれるようになりました。
関東大震災後、東京の人口と繁華街は西へ広がりました。東側の吉原や洲崎が大きな被害を受けた一方、新宿駅周辺では鉄道と商業が発展します。自治体資料では、戦前の新宿遊廓に53軒の妓楼と500人余りの娼妓がいた時期が記録されています。
しかし、数字だけで繁栄を語ってはいけません。
そこで働いた女性たちは、借金、移動の制約、健康管理、警察の監督などの中で生活しました。「モダン遊廓」「華やかな夜」といった言葉だけで消費するのではなく、制度が女性の身体と移動を管理した歴史も見落とせません。
幕府公認の遊郭と、街道宿場から近代に再編された新宿の違いは、幕府公認の吉原遊郭との違いをたどると、より具体的に見えてきます。
戦争で焼け、戦後は赤線になった
1945年の空襲で、新宿二丁目も大きな被害を受けました。
戦後、GHQの方針と国内の法令廃止によって、公娼制度は1946年に廃止されます。しかし、性産業が即日なくなったわけではありません。旧遊廓では、特殊飲食店の従業員と客の「自由恋愛」という建前の下で営業が続き、こうした地域が赤線と呼ばれました。
新宿二丁目は、戦前の新宿遊廓を引き継ぐ赤線地帯になりました。
1956年に売春防止法が成立し、1958年4月に処罰規定を含めて全面施行されます。旧赤線の店は、廃業するか、旅館、飲食店、アパートなどへ業態を変えなければなりませんでした。
新宿区の研究報告は、旅館などへ業態変更した店もあった一方、多くが店をたたみ、その空白地帯へ新宿三丁目付近に点在していたゲイバーが移ったと説明しています。
ここを「赤線がゲイタウンへ変身した」と一足飛びに捉えることはできません。
旧赤線の終了によって、建物、店舗区画、飲食営業の経験、夜間利用に慣れた街区が残りました。しかし、その空間をゲイバーとして使う人、貸す人、紹介する人、訪れる客がいなければ、新しい集積は生まれません。
制度が終わったことと、次のコミュニティが形成されたことの間には、人々の選択とネットワークがあります。
ゲイバーはどこから来たのか
新宿二丁目のゲイバー史には、「最初の一軒」をめぐる複数の説明があります。
1960年代初頭の特定店舗を起点とする説、新千鳥街を重要な場所とみる説、新宿三丁目や東口周辺に点在していた店が二丁目へ移ったとする説明があります。当時の広告、電話帳、住宅地図、雑誌、店主や客の回想は、同じものを記録していません。
したがって、特定の店を「日本初」「二丁目最初」「すべての始まり」と断定することはできません。
確実に言えるのは、1960年代には現在の新宿二丁目周辺でゲイバーの集積が進み、1960年代後半から1970年代にかけて、店の数と知名度が増したことです。
新宿の東口側には、戦後から喫茶店、酒場、映画館、劇場、旅館、闇市由来の小店舗など、多様な人が交わる場所がありました。店は突然、何もない場所から発生したのではありません。周辺に存在した出会いと飲食の場所が、旧赤線跡の小さな店舗へ移り、近距離に集まることで、客と働き手を共有できるようになりました。
重要なのは、最初の一軒より、二軒目、十軒目、百軒目が続いた理由です。
なぜ店が集まり続けたのか
新宿二丁目の集積は、店が店を呼ぶ仕組みによって強くなりました。
小さな店から始められた
ゲイバーの多くは、大型レストランではありません。カウンターを中心とする小規模な店です。
地理学研究では、内装、設備、営業権などを引き継ぐリース店舗が、開業時のコストを抑える役割を持つと指摘されています。店員が経験を積み、前の店や知人から物件を紹介され、独立する。閉店した店の空間を、次の店主が引き継ぐ。この循環が集積を再生産しました。
物件を貸す人と紹介する人がいた
性的指向に対する偏見が強い時代、一般の不動産市場で「ゲイバーを始めたい」と説明することには負担がありました。
すでにゲイバーが存在する街では、店の性格を理解して物件を貸す所有者、テナントを仲介する人、前の店主から次の店主へつなぐ人がいました。研究では、このような物件供給のキーパーソンと、出店時のカミングアウト負担が軽くなることが、地区の存続条件として挙げられています。
客層を分けても近くにいられた
ゲイバーは一種類ではありません。
年齢、趣味、職業、体格、音楽、会話中心かイベント中心か、常連中心か初来店者を受け入れるかなど、店ごとに客層と雰囲気が異なります。
店が近距離に集まると、同じ属性だけで固まることも、複数の店を回ることもできます。大きな一店舗が全員を受け入れるのではなく、小さな店が違いを保ったまま隣り合うことが、新宿二丁目らしい多様性をつくりました。
巨大ターミナルに近かった
新宿駅は多くの鉄道路線が集まる巨大ターミナルです。新宿三丁目駅も利用できます。
地域外から来る人にとって、自宅や職場の近所ではなく、膨大な人が行き交う都心の繁華街に出ることは、匿名性を保ちやすい選択でした。駅から歩ける一方、大通りから路地へ入れば店の入口が目立ちにくい。この「近いが、少し隠れられる」位置も重要でした。
集まること自体が情報になった
インターネット以前、性的少数者向けの店、仲間、雑誌、イベント、相談先を見つけることは簡単ではありませんでした。
「二丁目へ行けば何かがある」という評判が広がると、客が増え、働き手が集まり、新しい店が開きます。店の集積そのものが、次の利用者への案内板になりました。
こうして新宿二丁目は、立地条件だけでなく、人と情報のネットワークによって拡大しました。
再開発で消えず、店は縦に積み重なった
古い建物が取り壊されれば、ゲイタウンは消えるように思えます。
実際、新宿二丁目周辺では1970年代から建物の更新が進み、バブル崩壊前後まで多くのビルが建て替えられました。ところが研究によれば、新しいビルにもゲイ向け店舗が入居し、地区は集積を維持しました。
これは新宿二丁目の重要な特徴です。
木造の低層店舗が失われても、関係まで消えたわけではありません。店はビルの二階、三階、地下へ入りました。一つの敷地に複数の小店舗が縦方向へ重なることで、地上から見える街並み以上の密度が生まれました。
狭い階段、エレベーター前の店名表示、同じ住所に並ぶ多数の店。現在の新宿二丁目の景観は、古い街がそのまま保存された結果ではなく、建て替えの後も店舗ネットワークが新しい建物へ入り直した結果です。
一方、近年のマンション建設や地価・賃料の変化は、小規模店舗の存続に影響します。新宿御苑と駅への近さが住宅地としても評価されるため、ゲイタウンの人気だけでなく、都心居住の需要によるジェントリフィケーションを考える必要があります。
街はなぜ「ホーム」になったのか
店の数だけでは、新宿二丁目の意味を説明できません。
砂川秀樹は、文化人類学の立場から、新宿二丁目のゲイ・コミュニティと都市空間を研究しました。須崎の聞き取り調査でも、多くのゲイ男性が、安心してセクシュアリティを表現できる特別な場所として二丁目を肯定的に捉えています。
家族、学校、職場、地元の友人に性的指向を明かしていない人にとって、日常生活では言えないことを話せる場所は重要です。
バーは、酒を飲むだけの店ではありませんでした。
- 初めて同じ性的指向の人と会う
- 恋愛や生活の悩みを話す
- 年上の当事者から経験を聞く
- 仕事や住居の情報を得る
- 雑誌、イベント、支援活動を知る
- 自分だけではないと実感する
こうした経験が積み重なり、新宿二丁目は地理的な地区であると同時に、「帰ってこられる場所」「自分でいられる場所」という意味を持ちました。
1980年代以降のHIV/AIDSをめぐる危機では、差別や恐怖が広がる一方、予防啓発、相談、支援、当事者活動のネットワークも形成されました。この歴史はゲイ男性だけの問題ではなく、当事者団体、医療、行政、研究者の活動が交差した歴史でもあります。
新宿二丁目は、華やかな夜の消費空間であるだけでなく、孤立を和らげる社会的な基盤でもありました。
「ゲイタウン」という言葉で見えなくなる人々
新宿二丁目はゲイタウンと呼ばれますが、この言葉は主にゲイ男性の店の集積を表しています。
実際の街には、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、ノンバイナリー、クィアの人々、その友人や支援者も関わってきました。研究では、レズビアンバー同士、またはゲイバーとのつながりが店舗集積の維持に重要である一方、誰が安心して利用できるかをめぐる緊張も指摘されています。
「多様性の街」と言うだけでは、すべての人が同じように安全で居心地がよいとは限りません。
店には客層があります。女性だけの安心を重視する店、ゲイ男性のコミュニティを守る店、誰でも入れる店があります。部外者が「差別ではないか」と外側から一律に判断するのではなく、その店が誰のための安全な空間としてつくられているかを理解する必要があります。
同時に、特定の属性を理由に相手を侮辱したり危険にさらしたりすることは正当化されません。
新宿二丁目を語るには、「LGBTQ+の全員が一つの文化を共有する」と単純化せず、重なりと違いの両方を見る必要があります。
アプリ時代でも、なぜ街は消えなかったのか
スマートフォンとSNS、マッチングアプリが普及すると、出会いのために特定の街へ行く必要はなくなったように見えます。
しかし、聞き取り研究では、オンライン上のつながりが増えても、新宿二丁目のゲイバー利用が単純に失われたわけではありません。
アプリは人を探せます。しかし、店の空気、偶然の会話、長い時間をかけた常連関係、世代を越えた経験の共有まで、同じ形で代替するわけではありません。
オンラインと街は競合するだけでなく、互いに人を送り合います。
- SNSで店を知って初めて訪れる
- 店で知り合った人とオンラインでつながる
- イベント情報がオンラインで広がる
- 遠方の人が上京時に立ち寄る
一方、メディアや観光情報によって、異性愛者や海外観光客の来訪も増えました。外部からの関心を歓迎する人もいれば、見物されることで安心感が損なわれたと感じる人もいます。
「誰でも楽しめる観光地」と宣伝するだけでは、少数者が守ってきた居場所の意味を消してしまいます。訪問者は、自分が誰かの生活圏と安全な空間へ入ることを意識する必要があります。
同じ新宿でも歌舞伎町とは成り立ちが違う
新宿二丁目と歌舞伎町は近い場所にありますが、同じ経路で夜の街になったわけではありません。
新宿二丁目は、宿場、遊廓、赤線、小規模店舗、ゲイ・コミュニティという層を持ちます。
歌舞伎町は、戦災後の焼け跡に劇場や映画館を集める計画から形成された歓楽街です。後に飲食、宿泊、性風俗、ホストクラブなどが集積しましたが、出発点は戦後の興行・娯楽都市計画でした。
二つの街を「新宿の怪しい夜の街」と一括りにすると、都市史が見えません。
- 新宿二丁目は、小規模な店と当事者ネットワークが密度をつくった
- 歌舞伎町は、劇場・映画館と大量の来街者を基盤に巨大な歓楽街になった
この違いは、戦災復興から計画された歌舞伎町の歴史と比べると、より鮮明になります。
地図で歩く新宿二丁目
新宿二丁目を歩くなら、夜の看板だけでなく、次の順序で街の時間層を見てください。
1.新宿追分と新宿通り
甲州街道と青梅街道が分かれた追分付近から、新宿という宿場の位置を確認します。現在の大通りは、長距離を移動する人々を受け入れた街道の記憶を引き継いでいます。
2.太宗寺
太宗寺は内藤新宿の宿場とともに発展した寺です。境内では、現在の繁華街より前に存在した門前と宿場の時間を感じられます。
3.旧新宿遊廓・赤線の街区
営業中の店舗や住宅をのぞき込むのではなく、道路の幅、街区の大きさ、大通りとの位置関係を見てください。
旧遊廓時代の建物がそのまま大量に残っていると決めつけないでください。火災、空襲、建て替えを経ているため、現在の外観だけで建物の用途や年代を断定できません。
4.仲通りと縦に重なる店舗
小さな看板が一つのビルに多数並ぶ様子を見ます。新宿二丁目の密度は、道路沿いの店舗数だけでは分かりません。上階と地下に店が重なる「垂直の街」であることが重要です。
5.新宿御苑との境界
新宿御苑に近い静かな住宅地と、夜間の店舗街が接しています。マンション需要、地価、住民と店舗の関係を考えると、街が今も変化の途中にあることが分かります。
太宗寺から新宿二丁目、花園神社方面までの街の重なりは、新宿一~三丁目を実際に歩いた歴史散歩レポートでも確認できます。ほかの地域も歩くなら、東京の歴史散歩コース集も参考になります。
歩くときの注意点
新宿二丁目は、歴史展示のためのテーマパークではありません。
現在も人が暮らし、働き、友人と会い、自分らしく過ごす生活の場です。
- 人物や店内を無断撮影しない
- 入口、看板、客を至近距離で撮らない
- 「本物のゲイを見たい」など、当事者を見世物にする言動をしない
- 店ごとの入店方針を尊重する
- 性的少数者向けの店を性風俗店と決めつけない
- 営業中の店舗や住宅をのぞき込まない
- 酔客、客引き、交通に注意する
- 歴史上の遊郭・赤線と、現在の住民や店舗を同一視しない
街歩きの目的は、珍しい人や店を観察することではありません。
宿場、遊廓、赤線の終了、小規模物件、店舗ネットワーク、再開発という都市の変化を読み取り、少数者が居場所をつくってきた歴史を理解することです。
よくある疑問
新宿二丁目は、赤線がそのままゲイタウンになったのですか?
そのまま変わったわけではありません。
1958年に旧赤線の営業が終わり、空いた小規模物件が生まれたことは重要です。しかし、ゲイバーの移動、物件を貸す人、店主同士の紹介、巨大ターミナルへの近さ、安心して集まれる場所への需要が重ならなければ、現在の集積は生まれませんでした。
新宿二丁目で最初のゲイバーはどこですか?
資料によって説明が異なり、確定的に一軒を挙げることは困難です。
1960年代初頭の店舗、新千鳥街、周辺地区からの移動などが論じられていますが、広告、電話帳、住宅地図、回想証言では確認できる範囲が違います。本記事では、「最初の一軒」より、複数の店が集まり続けた仕組みを重視します。
ゲイバーは性風俗店ですか?
同じではありません。
ゲイバーの多くは、酒類や会話を提供する飲食店です。店ごとに客層や入店方針がありますが、旧遊郭や性風俗店と同じ業態ではありません。
新宿二丁目はLGBTQ+なら誰でも入れる街ですか?
街自体は公道と一般の市街地です。ただし、各店舗には対象とする客層やルールがあります。
ゲイ男性向け、女性向け、会員や紹介を重視する店、誰でも利用できる店などがあります。店の方針を事前に確認し、少数者の安全な空間を観光目的で侵害しないことが必要です。
アプリがあれば、ゲイタウンは不要ではありませんか?
オンライン上で出会う機会は増えましたが、街の役割がなくなったわけではありません。
対面の会話、偶然の出会い、世代間の経験共有、常連関係、情報や支援への接続は、物理的な場所で生まれる面があります。研究でも、オンライン利用がゲイバー利用を単純に妨げるわけではないと報告されています。
現在、新宿二丁目には何軒のゲイバーがありますか?
時点、範囲、業種、営業状況によって数字が変わるため、本記事では現在の正確な店舗数を断定しません。
過去の研究や聞き取りで示された店舗数は、「調査年」「対象範囲」「推計・確認方法」を伴わなければ、現在値として扱えません。
まとめ―街をつくったのは、空いた建物だけではない
新宿二丁目は、元禄期に開かれた宿場内藤新宿から始まりました。
旅人を迎える宿泊・飲食・遊興の機能は、近代に新宿遊廓へ再編され、戦後は赤線となります。1958年にその営業が終わると、街には空白が生まれました。
しかし、空白は自動的にゲイタウンを生みません。
周辺に点在していた店が移る。 小さな店を借りる。 前の店主から次の店主へ物件を渡す。 客が別の客を連れてくる。 初めて同じ性的指向の人と会う。 日常では話せないことを話す。 店の外でも支え合う。
この連鎖が、空いた建物をコミュニティへ変えました。
1970年代以後の建て替えでは、店は消えるだけでなく、新しいビルの上階と地下へ入り直しました。インターネットが普及しても、街は対面で関係を結ぶ場所として残りました。
新宿二丁目がゲイタウンになった理由を一文で答えるなら、こうなります。
旧赤線の空洞化が入口をつくり、小規模物件と人の紹介ネットワークが店を増やし、安心して自分でいられる場所への需要が、その集積を都市文化として定着させたからです。
路地の小さな扉は、単なる夜の店の入口ではありません。
そこには、宿場から現代まで、人が都市の中に居場所をつくり直してきた歴史が重なっています。
参考文献・資料
- 新宿区新宿自治創造研究所『新宿区のまちの魅力の研究(2)―地域資源の集積と魅力形成メカニズムの分析―』
- 新宿区史年表「江戸時代(1600~1868年)」
- 須崎成二「新宿二丁目におけるゲイ・ディストリクトの空間的特徴と存続条件」『都市地理学』14巻、2019年、16-27頁
- 須崎成二「『新宿二丁目』地区におけるゲイ男性の場所イメージとその変化」『地理学評論』92巻2号、2019年、72-87頁
- 須崎成二「『新宿二丁目』地区と英語圏型ゲイ・ディストリクトとの比較」2019年度日本地理学会春季学術大会
- 須崎成二「東京都新宿区新宿二丁目におけるゲイバーの立地傾向と再生産構造」2018年度日本地理学会春季学術大会
- 須崎成二「新宿二丁目におけるレズビアンとゲイの共存をめぐる諸問題」2019年度日本地理学会秋季学術大会
- 砂川秀樹『新宿二丁目の文化人類学―ゲイ・コミュニティから都市をまなざす』太郎次郎社エディタス、2015年
- 砂川秀樹「セクシュアリティと都市的社会空間の編成―新宿二丁目における『ゲイ・コミュニティ』意識形成の背景に関する分析から」博士論文、2008年
- 伏見憲明『新宿二丁目』新潮新書、2019年
- 三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』朝日選書、2018年
- e-Gov法令検索「売春防止法」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「公娼制度はいつ廃止されたのか」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「いつから赤線・青線と呼ばれたか? またその意味は?」
- 歌川広重「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」国立国会図書館所蔵/Wikimedia Commons/Public Domain
- LittleT889「Shinjuku Ni-chōme」Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

