新宿二丁目はなぜゲイタウンになったのか|内藤新宿・遊郭・赤線から現在まで

飲食店やバーが並ぶ2019年の新宿二丁目の街並み

新宿通りから一本、路地へ入ります。

昼間は事務所、マンション、寺、コンビニが並ぶ市街地です。夕方になると小さな看板に灯が入り、数階建てのビルの一室一室が別々の店であることに気づきます。表通りに巨大な店を構える歌舞伎町とは違い、新宿二丁目の夜は狭い階段と小さな扉の奥へ積み重なっています。

1958年に旧赤線の店が閉じ、空いた建物や小規模物件へ店が移ったことは、ゲイバー集積の一因です。さらに、周辺から移った店、小さな店を借りる仕組み、店主や客の紹介ネットワーク、巨大ターミナルへの近さ、性的指向を隠さずに過ごせる場所への需要が重なりました。

まず結論―赤線だったことは一因だが、答えの全部ではない

新宿二丁目がゲイタウンになった理由は、次の六つが重なったからです。

  1. 旧赤線の営業終了後、小規模な店舗や旅館などの空間が空いた
  2. 新宿三丁目や東口周辺などに点在していたゲイバーが二丁目へ移った
  3. 小さな区画の店を比較的低い初期費用で始められる仕組みがあった
  4. 物件を貸す人、仲介する人、店を譲る人、独立する店員のネットワークができた
  5. 新宿という巨大ターミナルに近く、地域外から匿名性を保って訪れやすかった
  6. 当事者が安心して出会い、話し、自己を表現できる場所として認識された

地理学者の須崎成二すさき せいじは、ゲイバー経営者や物件供給者への聞き取りから、コストを抑えられるリース店舗、出店時のカミングアウト負担を軽くする環境、物件供給に関わるキーパーソンが新宿二丁目の存続を支えていると指摘しました。

まず誤解をほどく―遊郭・赤線・ゲイタウンは同じではない

用語主な意味新宿二丁目との関係
遊郭・遊廓公的に指定・管理された貸座敷と娼妓の営業地域宿場の遊興機能が近代に再編され、新宿遊廓が成立した
赤線公娼制度廃止後、特殊飲食店などの形で営業が続いた地域の通称戦後から1958年まで旧遊廓の営業が続いた
ゲイタウンゲイバーなど性的少数者向けの店とコミュニティが集積する地域1960年代以後、複数の条件が重なって形成された

遊郭ゆうかくは、女性が男性客を相手にする性産業を公的に管理した制度です。赤線は、戦後に公娼こうしょう制度が廃止された後も、特殊飲食店などの形で営業が続いた地域を指します。

ゲイタウンは、ゲイ男性を中心とする飲食店、交流、情報、文化、支援活動などが集まる都市空間です。ゲイバーの多くは飲食店であり、旧遊郭や性風俗店とは業態が異なります。

現在の新宿二丁目には、ゲイ男性向けの店、レズビアンバー、トランスジェンダーやクィアの人々が関わる店、誰でも入れる店があります。店ごとに客層や利用ルールは異なります。

内藤新宿―甲州街道の宿場から始まった

現在の新宿二丁目の前史は、内藤新宿ないとうしんじゅくにあります。

江戸時代、日本橋から甲州街道こうしゅうかいどうを進むと、最初の宿場は高井戸でした。距離が長かったため、浅草阿部川町の名主らが幕府へ新しい宿場の開設を願い出ます。元禄12年(1699)、内藤家の屋敷地の一部を利用して新しい宿駅が開かれました。

新宿という地名は、「新しい宿」に由来します。

宿場には、旅人の宿泊、荷物や馬の継ぎ立て、飲食、買い物が集まりました。そこには飯盛女めしもりおんなと呼ばれる女性たちもいました。表向きは旅籠で食事や給仕を担う女性でしたが、性的な接客を求められる場合がありました。

街道を移動する外来者を相手に、宿泊・飲食・遊興が集まる都市機能は、地域の長い前史となりました。

新宿二丁目の太宗寺たいそうじは、内藤新宿の宿場とともに発展した寺です。現在もバーやマンションの間に境内が残ります。

歌川広重が1857年に描いた四ツ谷内藤新宿の甲州街道
歌川広重「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」(1857年)。国立国会図書館所蔵/Wikimedia Commons/Public Domain。

広重は、後の遊廓ではなく、甲州街道を行き交う馬と旅人を低い視点から描きました。

新宿御苑の外周、新宿追分、内藤家の土地を現地でたどるなら、新宿御苑の外周から内藤新宿の痕跡をたどる記事も参考になります。

宿場の遊興から近代の新宿遊廓へ

明治になると、宿場の遊興は近代国家の警察・衛生制度の中へ組み替えられました。

営業する貸座敷かしざしき、そこで働く娼妓しょうぎ、店の所在地は許可と取締りの対象になります。身分制度、営業許可、検査、税、警察管理が変わり、町の空間も再編されました。

新宿の貸座敷営業は、1918年に警察から移転を命じられ、1921年までに現在の新宿二丁目側へ集約されたとする研究があります。同じ1921年には大火があり、街は焼失しましたが、53軒の貸座敷が再建され、「新宿遊廓」と呼ばれるようになりました。

関東大震災後、東京の人口と繁華街は西へ広がりました。東側の吉原や洲崎が大きな被害を受けた一方、新宿駅周辺では鉄道と商業が発展します。自治体資料では、戦前の新宿遊廓に53軒の妓楼ぎろうと500人余りの娼妓がいた時期が記録されています。

そこで働いた女性たちは、借金、移動の制約、健康管理、警察の監督の中で生活しました。

幕府公認の遊郭と、街道宿場から近代に再編された新宿の違いは、幕府公認の吉原遊郭との違いをたどると、より具体的に見えてきます。

戦争で焼け、戦後は赤線になった

1945年の空襲で、新宿二丁目も大きな被害を受けました。

戦後、GHQの方針と国内の法令廃止によって、公娼制度は1946年に廃止されます。旧遊廓では、特殊飲食店の従業員と客の「自由恋愛」という建前の下で営業が続き、こうした地域が赤線と呼ばれました。

新宿二丁目は、戦前の新宿遊廓を引き継ぐ赤線地帯になりました。

1956年に売春防止法が成立し、1958年4月に処罰規定を含めて全面施行されます。旧赤線の店は廃業し、一部は旅館、飲食店、アパートなどへ業態を変えました。

新宿区の研究報告は、旅館などへ業態変更した店もあった一方、多くが店をたたみ、その空白地帯へ新宿三丁目付近に点在していたゲイバーが移ったと説明しています。

旧赤線の終了後も、建物、店舗区画、飲食営業の経験、夜間利用に慣れた街区が残りました。そこへ店を営む人、物件を貸す人、紹介する人、客が集まり、新しい店舗集積が生まれました。

ゲイバーはどこから来たのか

新宿二丁目のゲイバー史には、「最初の一軒」をめぐる複数の説明があります。

1960年代初頭の特定店舗を起点とする説、新千鳥街を重要な場所とみる説、新宿三丁目や東口周辺に点在していた店が二丁目へ移ったとする説明があります。当時の広告、電話帳、住宅地図、雑誌、店主や客の回想では、記録範囲が異なります。

特定の店を「日本初」「二丁目最初」「すべての始まり」と断定することは困難です。

1960年代には現在の新宿二丁目周辺でゲイバーの集積が進み、1960年代後半から1970年代にかけて店の数と知名度が増しました。

新宿の東口側には、戦後から喫茶店、酒場、映画館、劇場、旅館、闇市由来の小店舗など、多様な人が交わる場所がありました。周辺の出会いと飲食の場所が旧赤線跡の小さな店舗へ移り、近距離に集まることで客と働き手を共有できるようになりました。

なぜ店が集まり続けたのか

小さな店から始められた

ゲイバーの多くは、カウンターを中心とする小規模な店です。

地理学研究では、内装、設備、営業権などを引き継ぐリース店舗が、開業時のコストを抑える役割を持つと指摘されています。店員が経験を積み、前の店や知人から物件を紹介されて独立し、閉店した店の空間を次の店主が引き継ぐ循環が集積を再生産しました。

物件を貸す人と紹介する人がいた

性的指向への偏見が強い時代、一般の不動産市場で「ゲイバーを始めたい」と説明することには負担がありました。

すでにゲイバーが存在する街では、店の性格を理解して物件を貸す所有者、テナントを仲介する人、前の店主から次の店主へつなぐ人がいました。研究では、こうした物件供給のキーパーソンと、出店時のカミングアウト負担が軽くなることが、地区の存続条件として挙げられています。

客層を分けても近くにいられた

年齢、趣味、職業、体格、音楽、会話中心かイベント中心か、常連中心か初来店者を受け入れるかなど、店ごとに客層と雰囲気が異なります。

店が近距離に集まることで、小さな店が違いを保ちながら隣り合い、客は複数の店を回ることができました。

巨大ターミナルに近かった

新宿駅は多くの鉄道路線が集まる巨大ターミナルです。新宿三丁目駅も利用できます。

地域外から来る人にとって、自宅や職場の近所ではなく、多くの人が行き交う都心へ出ることは匿名性を保ちやすい選択でした。駅から歩ける一方、大通りから路地へ入れば店の入口が目立ちにくい位置も集積を支えました。

集まること自体が情報になった

インターネット以前、性的少数者向けの店、仲間、雑誌、イベント、相談先を見つける手段は限られていました。

「二丁目へ行けば何かがある」という評判が広がると、客が増え、働き手が集まり、新しい店が開きました。店の集積そのものが次の利用者への案内になりました。

再開発で消えず、店は縦に積み重なった

新宿二丁目周辺では1970年代から建物の更新が進み、バブル崩壊前後まで多くのビルが建て替えられました。研究によれば、新しいビルにもゲイ向け店舗が入居し、地区は集積を維持しました。

店はビルの二階、三階、地下へ入り、一つの敷地に複数の小店舗が縦方向へ重なりました。地上から見える街並み以上の密度が生まれます。

狭い階段、エレベーター前の店名表示、同じ住所に並ぶ多数の店は、建て替え後も店舗ネットワークが新しい建物へ入り直した結果です。

近年のマンション建設や地価・賃料の変化は、小規模店舗の存続に影響します。新宿御苑と駅への近さが住宅地としても評価され、都心居住の需要によるジェントリフィケーションが進んでいます。

街はなぜ「ホーム」になったのか

砂川秀樹すながわ ひできは、文化人類学の立場から、新宿二丁目のゲイ・コミュニティと都市空間を研究しました。須崎の聞き取り調査でも、多くのゲイ男性が、安心してセクシュアリティを表現できる特別な場所として二丁目を肯定的に捉えています。

家族、学校、職場、地元の友人に性的指向を明かしていない人にとって、日常生活では言えないことを話せる場所でした。

  • 初めて同じ性的指向の人と会う
  • 恋愛や生活の悩みを話す
  • 年上の当事者から経験を聞く
  • 仕事や住居の情報を得る
  • 雑誌、イベント、支援活動を知る
  • 自分だけではないと実感する

こうした経験が重なり、新宿二丁目は「帰ってこられる場所」「自分でいられる場所」という意味を持ちました。

1980年代以降のHIV/AIDSをめぐる危機では、差別や恐怖が広がる一方、予防啓発、相談、支援、当事者活動のネットワークも形成されました。当事者団体、医療、行政、研究者の活動が交差しました。

「ゲイタウン」という言葉で見えなくなる人々

新宿二丁目はゲイタウンと呼ばれますが、この言葉は主にゲイ男性の店の集積を表しています。

実際の街には、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、ノンバイナリー、クィアの人々、その友人や支援者も関わってきました。研究では、レズビアンバー同士、またはゲイバーとのつながりが店舗集積の維持に重要である一方、誰が安心して利用できるかをめぐる緊張も指摘されています。

店には客層があり、女性だけの安心を重視する店、ゲイ男性のコミュニティを守る店、誰でも入れる店があります。

アプリ時代でも、なぜ街は消えなかったのか

聞き取り研究では、オンライン上のつながりが増えた後も、新宿二丁目のゲイバー利用は続いています。

店の空気、偶然の会話、長い時間をかけた常連関係、世代を越えた経験の共有は、対面の場で生まれます。

オンラインと街は、互いに人を送り合います。

  • SNSで店を知って初めて訪れる
  • 店で知り合った人とオンラインでつながる
  • イベント情報がオンラインで広がる
  • 遠方の人が上京時に立ち寄る

メディアや観光情報によって異性愛者や海外観光客の来訪も増えました。外部からの関心を歓迎する人がいる一方、見物されることで安心感が損なわれたと感じる人もいます。

同じ新宿でも歌舞伎町とは成り立ちが違う

新宿二丁目は、宿場、遊廓、赤線、小規模店舗、ゲイ・コミュニティという層を持ちます。

歌舞伎町は、戦災後の焼け跡に劇場や映画館を集める計画から形成された歓楽街です。後に飲食、宿泊、性風俗、ホストクラブなどが集積しましたが、出発点は戦後の興行・娯楽都市計画でした。

この違いは、戦災復興から計画された歌舞伎町の歴史と比べると、より鮮明になります。

地図で歩く新宿二丁目

新宿二丁目では、夜の看板だけでなく、宿場から現在までの街区の変化をたどれます。

1.新宿追分と新宿通り

甲州街道と青梅街道が分かれた追分付近から、新宿という宿場の位置を確認します。

2.太宗寺

太宗寺は内藤新宿の宿場とともに発展した寺です。境内は、現在の繁華街より前の門前と宿場の位置を伝えています。

3.旧新宿遊廓・赤線の街区

道路の幅、街区の大きさ、大通りとの位置関係を確認できます。

建物の用途や年代を判断するには、火災、空襲、建て替えによる変化を踏まえる必要があります。

4.仲通りと縦に重なる店舗

一つのビルに小さな看板が多数並び、上階と地下に店が重なる「垂直の街」を確認できます。

5.新宿御苑との境界

新宿御苑に近い住宅地と夜間の店舗街が接し、マンション需要、地価、住民と店舗の関係が街を変えています。

太宗寺から新宿二丁目、花園神社方面までの街の重なりは、新宿一~三丁目を実際に歩いた歴史散歩レポートでも確認できます。ほかの地域も歩くなら、東京の歴史散歩コース集も参考になります。

歩くときの注意点

  • 人物や店内を無断撮影しない
  • 入口、看板、客を至近距離で撮らない
  • 「本物のゲイを見たい」など、当事者を見世物にする言動をしない
  • 店ごとの入店方針を尊重する
  • 性的少数者向けの店を性風俗店と決めつけない
  • 営業中の店舗や住宅をのぞき込まない
  • 酔客、客引き、交通に注意する
  • 歴史上の遊郭・赤線と、現在の住民や店舗を同一視しない

よくある疑問

新宿二丁目は、赤線がそのままゲイタウンになったのですか?

1958年に旧赤線の営業が終わり、小規模物件に空きが生まれました。そこへゲイバーが移り、物件を貸す人、店主同士の紹介、巨大ターミナルへの近さ、安心して集まれる場所への需要が重なって、現在の集積が形成されました。

新宿二丁目で最初のゲイバーはどこですか?

資料によって説明が異なり、確定的に一軒を挙げることは困難です。

1960年代初頭の店舗、新千鳥街、周辺地区からの移動などが論じられていますが、広告、電話帳、住宅地図、回想証言では確認できる範囲が違います。本記事では、「最初の一軒」より、複数の店が集まり続けた仕組みを重視します。

ゲイバーは性風俗店ですか?

ゲイバーの多くは、酒類や会話を提供する飲食店です。店ごとに客層や入店方針があり、旧遊郭や性風俗店とは業態が異なります。

新宿二丁目はLGBTQ+なら誰でも入れる街ですか?

街自体は公道と一般の市街地です。ただし、各店舗には対象とする客層やルールがあります。

ゲイ男性向け、女性向け、会員や紹介を重視する店、誰でも利用できる店などがあります。店の方針を事前に確認し、少数者の安全な空間を観光目的で侵害しないことが必要です。

アプリがあれば、ゲイタウンは不要ではありませんか?

オンライン上で出会う機会が増えた後も、街は対面交流の場として機能しています。

対面の会話、偶然の出会い、世代間の経験共有、常連関係、情報や支援への接続は、物理的な場所で生まれる面があります。研究でも、オンライン利用がゲイバー利用を単純に妨げるわけではないと報告されています。

現在、新宿二丁目には何軒のゲイバーがありますか?

正確な店舗数は、時点、範囲、業種、営業状況によって変わります。

過去の研究や聞き取りで示された店舗数を現在値として扱うには、「調査年」「対象範囲」「推計・確認方法」の確認が必要です。

まとめ―街をつくったのは、空いた建物だけではない

新宿二丁目は、元禄期に開かれた宿場内藤新宿ないとうしんじゅくから始まり、近代の新宿遊廓、戦後の赤線を経ました。1958年の赤線廃止後、空いた小規模物件へ周辺のゲイバーが移りました。

物件を貸す人や紹介する人、独立する店員、客のネットワークが店を増やし、巨大ターミナルへの近さと安心して過ごせる場所への需要が集積を定着させました。建て替え後は店舗がビルの上階や地下へ入り、オンライン化の後も対面の交流拠点として残りました。

参考文献・資料

  1. 新宿区新宿自治創造研究所『新宿区のまちの魅力の研究(2)―地域資源の集積と魅力形成メカニズムの分析―』
  2. 新宿区史年表「江戸時代(1600~1868年)」
  3. 須崎成二「新宿二丁目におけるゲイ・ディストリクトの空間的特徴と存続条件」『都市地理学』14巻、2019年、16-27頁
  4. 須崎成二「『新宿二丁目』地区におけるゲイ男性の場所イメージとその変化」『地理学評論』92巻2号、2019年、72-87頁
  5. 須崎成二「『新宿二丁目』地区と英語圏型ゲイ・ディストリクトとの比較」2019年度日本地理学会春季学術大会
  6. 須崎成二「東京都新宿区新宿二丁目におけるゲイバーの立地傾向と再生産構造」2018年度日本地理学会春季学術大会
  7. 須崎成二「新宿二丁目におけるレズビアンとゲイの共存をめぐる諸問題」2019年度日本地理学会秋季学術大会
  8. 砂川秀樹『新宿二丁目の文化人類学―ゲイ・コミュニティから都市をまなざす』太郎次郎社エディタス、2015年
  9. 砂川秀樹「セクシュアリティと都市的社会空間の編成―新宿二丁目における『ゲイ・コミュニティ』意識形成の背景に関する分析から」博士論文、2008年
  10. 伏見憲明『新宿二丁目』新潮新書、2019年
  11. 三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』朝日選書、2018年
  12. e-Gov法令検索「売春防止法」
  13. 国立国会図書館レファレンス協同データベース「公娼制度はいつ廃止されたのか」
  14. 国立国会図書館レファレンス協同データベース「いつから赤線・青線と呼ばれたか? またその意味は?」
  15. 歌川広重「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」国立国会図書館所蔵/Wikimedia Commons/Public Domain
  16. LittleT889「Shinjuku Ni-chōme」Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0