東京の中心を歩くと、佐賀県につながる場所が驚くほど多く現れます。日比谷公園には佐賀藩の上屋敷があり、品川台場には佐賀藩が鋳造した大砲が据えられました。岩本町のお玉ヶ池種痘所は佐賀出身の蘭方医が支え、明治になると佐賀人が東京奠都や鉄道、教育、近代建築に関わっていきます。
現在も、早稲田大学、東京駅、日本銀行本店、鍋島松濤公園、深川の「佐賀」という町名に、その痕跡が残っています。佐賀藩本家だけでなく、小城・蓮池・鹿島の三支藩、唐津出身の建築家まで視野を広げると、江戸から現代まで続く「東京の中の佐賀」が一つの歴史としてつながります。
江戸の佐賀を探す|日比谷・内幸町・麻布に広がった鍋島家の屋敷
江戸時代、佐賀藩鍋島家の上屋敷は桜田にありました。現在の日比谷公園にあたる場所です。鍋島報效会が所蔵する嘉永3年(1850)の「桜田御屋鋪差図」には、藩主家族の居所だけでなく、学問所の明善堂まで描かれています。
ここで生まれたのが、幕末佐賀藩の近代化を進めた鍋島直正です。現在の日比谷公園には当時の御殿は残っていませんが、東京都公園協会もこの地に幕末まで「松平肥前守をはじめとした大名屋敷」があったことを案内しています。江戸の大名屋敷地が陸軍練兵場を経て、1903年に近代公園へ変わった場所です。
佐賀藩の江戸屋敷は桜田だけではありません。中屋敷は溜池、下屋敷は麻布に置かれました。さらに鍋島家の三支藩も東京に拠点を持ちます。小城藩の屋敷は現在の内幸町一帯、蓮池藩と鹿島藩の屋敷は現在の六本木7丁目、国立新美術館東側付近にありました。港区が2025年に刊行した地域資料では、本家と三支藩の江戸屋敷の位置関係が整理されています。
内幸町一丁目1番には千代田区の町名由来板があり、安政3年(1856)の絵図に「肥前小城藩鍋島家」の上屋敷が描かれていたことを現地で確認できます。東京の中の佐賀は、佐賀藩本家だけでなく、小城・蓮池・鹿島まで含む鍋島家のネットワークとして広がっていました。
江戸から明治へ移る東京の土地利用を古地図でたどるなら、「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」が全体像をつかむ手がかりになります。麻布の変化は「明治五千分一東京図を徹底解説⑨|赤坂・麻布・広尾を読む」でも詳しく扱っています。
幕末の佐賀が江戸を守る|反射炉と品川台場
幕末の佐賀と東京を結ぶ場所として、品川台場は外せません。佐賀藩は嘉永3年(1850)に反射炉の建造へ着手し、鋳鉄大砲の製造を進めました。試行錯誤の末に鋳造技術を確立すると、幕府から大砲の注文を受け、完成した砲は順次、品川砲台へ据え付けられました。
鍋島直正は安政3年(1856)、実地検査のため品川砲台を訪れています。佐賀城下で生まれた技術が、江戸湾防備という国家的課題の最前線へ運ばれた場面です。
台場のうち第三台場は現在、台場公園として陸続きで歩けます。石垣や土塁が残り、幕末の海防施設の規模を現地で体感できます。佐賀県内の反射炉跡や資料館だけで完結しない、佐賀の幕末技術史の「東京側の現場」です。
佐賀の蘭方医学が東京大学医学部へつながる|お玉ヶ池種痘所
神田・岩本町には、佐賀出身の蘭方医伊東玄朴の足跡が残ります。玄朴は長崎でシーボルトに学び、1828年に江戸で開業しました。1843年には佐賀藩の侍医となり、牛痘接種の普及にも取り組みます。

安政5年(1858)、玄朴ら蘭方医はお玉ヶ池種痘所を設立しました。種痘所は西洋医学所、医学所などへ改組され、明治政府下の医学校へつながり、東京大学医学部の系譜の一つとなります。現在、千代田区岩本町2丁目には「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」の碑が立っています。
佐賀藩で学び、江戸・大阪・京都へ遊学した佐野常民も、西洋医学と技術を吸収した人物です。のちに博愛社を創設し、日本赤十字社の初代社長となりました。佐賀の医学・技術教育は、幕末の藩政改革から明治の医療・救護制度へ連続しています。

お玉ヶ池種痘所から現在の医学部・大学病院へ伸びる複数の系譜は、「日本の医学・病院の歴史と系譜|医学部・大学病院の起源を解説」で整理しています。
江戸を「東京」にする|大木喬任・江藤新平・大隈重信
明治元年(1868)、佐賀藩出身の大木喬任と江藤新平は、江戸を東京と改め、新しい政治の中心とする構想を建白しました。佐賀城本丸歴史館は、この建白が東京奠都に大きな影響を与えたと位置付けています。

大木は第二代東京府知事となり、武家地の再編や貧困対策など、体制転換で混乱する東京の行政を担いました。江藤は新政府で司法制度の整備を進めます。二人とも佐賀藩校の弘道館で学んだ人物で、藩校教育が明治国家の制度形成へ接続した例でもあります。江戸時代の藩校の仕組みは、「藩校とは何だったのか|何を学び、どう経営した?」で詳しく解説しています。
同じ佐賀藩出身の大隈重信は、築地の邸宅を拠点に政府の開明派官僚と交流し、財政、鉄道、近代都市政策に関わりました。この集まりは「築地梁山泊」と呼ばれます。佐賀城本丸歴史館の「東京をつくった佐賀人たち」では、大木・江藤の東京奠都から、大隈らの鉄道・煉瓦街構想までを近代東京形成の一続きの流れとして紹介しています。

早稲田に残る大隈重信|政治家の邸宅から大学の街へ
大隈重信の東京で最もわかりやすい痕跡は早稲田です。1882年、大隈は東京専門学校を創立しました。現在の早稲田大学です。キャンパスの大隈庭園は旧大隈邸の庭園を受け継ぎ、大隈講堂、銅像とともに、大学の歴史を現在の景観に残しています。
大隈が東京で築いた人的ネットワークは政治だけに閉じません。学校を通じて教育の場をつくり、早稲田という地域の性格にも長い影響を与えました。佐賀出身者が東京の制度を動かした時代から、東京に恒久的な教育拠点を残す時代へ移ったことがわかります。
明治から大正にかけての早稲田周辺を古地図で確認するなら、「明治五千分一東京図を徹底解説⑦|高田・小日向・牛込を読む」もあわせて読むと、大学と周辺市街地の変化を追えます。
唐津の建築家が東京の顔をつくる|日本銀行・東京駅・丸の内
佐賀県と東京を結ぶもう一つの太い線が、唐津出身の建築家たちです。辰野金吾は唐津藩士の家に生まれ、工部大学校で建築を学び、イギリス留学後に日本の建築教育と設計を主導しました。

1896年に竣工した日本銀行本店本館は、辰野が手掛けた最初の国家的近代建築とされ、現在は国の重要文化財です。日本銀行では平日に事前予約制の見学を行っており、地下金庫や旧営業場など本館内部を見学できます。
1914年に開業した東京駅丸の内駅舎も辰野の代表作です。赤煉瓦の長大な駅舎は戦災を受け、戦後は2階建ての姿で使われましたが、2012年に創建時の3階建てと南北ドームが復原されました。東京の玄関口そのものが、唐津出身の建築家の仕事です。建築の細部と保存復原の歴史は、「東京駅の歴史と建築を徹底解説|丸の内駅舎・辰野金吾・戦災復興・保存復原から見る100年の物語」で詳しく紹介しています。
同じ唐津出身の曾禰達蔵は三菱で丸の内のオフィス建築に関わり、昭和には村野藤吾が日生劇場を設計しました。佐賀県立博物館は辰野・曾禰・村野を「唐津が生んだ3人の名建築家」として取り上げています。唐津から東京へ続く建築家の系譜は、明治の国家建築から大正の駅舎、昭和の劇場まで三世代に及びます。
鍋島家が渋谷に残した「松濤」|茶園から高級住宅地の地名へ
渋谷区の松濤という地名にも、佐賀との関係があります。明治9年(1876)、鍋島家は旧紀州徳川家下屋敷の払い下げを受けて茶園を開き、「松濤」の銘で茶を売り出しました。
茶園はやがて廃止され、土地は住宅地へ変わりましたが、湧水地を中心とする一画が児童遊園として公開され、のちに東京市へ寄贈されました。現在の鍋島松濤公園です。池、水車、樹木に囲まれた公園名と周辺の「松濤」という町名に、鍋島家の土地利用の記憶が残りました。
江戸では藩邸を構えた鍋島家が、明治には東京の土地経営に関わり、その呼び名が現代の地名へ定着しました。日比谷の大名屋敷跡と松濤の住宅地を比べると、旧大名家が東京の都市空間に残した痕跡の形が時代によって変わったことがわかります。
深川に「佐賀」が残る|江戸の地名から2026年の祭礼交流へ
江東区には現在も「佐賀一丁目」「佐賀二丁目」という町名があります。江東区によると、この一帯は寛永6年(1629)に開発された深川猟師町の一部で、元禄8年(1695)の検地後、地形が肥前国の佐賀湊に似ていたことから「佐賀町」と名付けられたと伝わります。
この地名は、21世紀になって新しい交流を生みました。2026年8月16日の深川八幡祭りでは、佐賀県ゆかりの人々が佐賀町の神輿を担ぎました。江戸の地形から生まれた町名が、300年以上後に東京と佐賀を結ぶ人的交流のきっかけになった例です。
東京の佐賀は、藩邸跡や偉人の記念だけで終わりません。地名が残り、その名前を媒介に現代の人々が再びつながっています。
2026年の東京で佐賀を訪ねる|現地で見られる場所
| 場所 | 佐賀との関係 | 2026年現在に見られるもの |
|---|---|---|
| 日比谷公園 | 佐賀藩桜田上屋敷 | 公園。江戸期の屋敷建物は現存しません |
| 内幸町一丁目1番 | 小城藩鍋島家上屋敷 | 千代田区の町名由来板 |
| 台場公園(第三台場) | 佐賀藩製大砲が据えられた品川台場 | 石垣・土塁など台場遺構 |
| 岩本町2丁目 | 伊東玄朴らのお玉ヶ池種痘所 | 種痘所跡碑 |
| 早稲田大学 | 大隈重信が東京専門学校を創立 | 大隈庭園、大隈講堂、銅像など |
| 日本銀行本店本館 | 辰野金吾設計 | 重要文化財。内部見学は事前予約制 |
| 東京駅丸の内駅舎 | 辰野金吾設計 | 重要文化財の現役駅舎 |
| 鍋島松濤公園 | 鍋島家の茶園「松濤」 | 池・水車・緑地 |
| 江東区佐賀 | 肥前国佐賀湊に似た地形から命名 | 現在の町名と市街地 |
| 佐賀県首都圏事務所 | 現代の県公式拠点 | 千代田区平河町・都道府県会館11階 |
佐賀県首都圏事務所は2026年3月現在、千代田区平河町2丁目の都道府県会館11階にあり、県が「東京での佐賀の窓口」と位置付けています。江戸の藩邸から始まった東京の佐賀拠点は、形を変えながら現在も続いています。
東京の風景に残る佐賀|藩邸・技術・制度・建築・地名
東京と佐賀の関係は、日比谷の藩邸から始まり、お台場の海防、お玉ヶ池の医学、東京奠都、早稲田の教育、日本銀行と東京駅の建築、松濤と深川佐賀の地名へ広がりました。政治家や建築家を個別に並べるより、場所をつないで歩くと、佐賀の人と技術が東京の形成に何度も現れたことがはっきりします。
日比谷公園から内幸町、日本銀行、東京駅へは徒歩でつなげられます。別の日に岩本町、早稲田、松濤、台場、深川佐賀を訪ねると、江戸の大名屋敷から現代の町名まで、時代の異なる「東京の中の佐賀」を実際の都市景観の中でたどれます。

