明治五千分一東京図を徹底解説①|浅草・上野・本所・御徒町を読む

五千分一東京図測量原図1001 東京府武蔵国浅草区浅草公園地及松清町近傍

明治16〜17年(1883〜1884)に作成された「五千分一東京図測量原図」は、近代東京が形を変え始めた時期の街を、建物、寺社、庭園、河川、堀、鉄道、官公署、邸宅まで細かく記録した地図です。現在の道路地図のように場所を確認するだけでなく、江戸以来の都市構造がどこまで残り、明治政府の施設や鉄道、公園がどこに入り込んだのかを一枚の中で追えます。

第1回は、資料番号1001〜1004を対象に、浅草公園地、上野公園地、隅田川沿岸、本所横網、御徒町・佐久間町周辺を読みます。4図を続けて見ると、寺町と盛り場、公園と博覧会、鉄道と物流、軍用地と医薬施設という、明治東京の異なる顔が隣り合っていたことがわかります。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、「五千分一東京図測量原図」を明治16〜17年に作成された東京市中の地図としています。縮尺5,000分の1なので、1センチメートルが実地の50メートルに相当します。街区だけでなく、個々の建物、境内、庭園、池、堀、鉄道路線などをかなり細かく読み取れる縮尺です。

地図には道路沿いに小さな数字や測量点が大量に記されています。彩色も土地利用や建物の違いを読み取る手掛かりになります。細かな記号の意味は測量方法・凡例とあわせて慎重に確認する必要がありますが、「建物名を探す地図」ではなく、「都市の形そのものを読む史料」として見ると情報量の多さが際立ちます。

東京府武蔵国浅草区浅草公園地及松清町近傍

国土地理院 資料番号1001

五千分一東京図測量原図1001 東京府武蔵国浅草区浅草公園地及松清町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国浅草区浅草公園地及松清町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1001は浅草寺と浅草公園地、その西側から松清町周辺へ続く寺町を描いています。高精細原図では、浅草寺、浅草神社、伝法院、東本願寺だけでなく、本願寺教校、源空寺、海禅寺、曹源寺などの寺名や、海禅寺墓地の大名家関係の表記まで判読できます。寺社地、公園、教育施設、旧大名家墓所が同じ図面に収まるのが1001の特徴です。

1884年、浅草寺境内が7区に分けられた

浅草寺境内は明治6年(1873)の太政官布達によって浅草公園となり、明治17年(1884)には7区に区画されました。1001が作られた時期と重なります。一区は浅草寺本堂一帯、二区は宝蔵門・仲見世、三区は伝法院、四区は本堂西側の林泉地、五区は奥山、六区は後の興行街、七区は公園東南部でした。

地図には後の浅草六区につながる区画が成立した直後の姿が残っています。凌雲閣の開業は明治23年(1890)で、この図にはまだありません。江戸以来の寺社境内を残しながら、その一部を近代の公園・興行空間へ組み替え始めた段階です。

浅草寺・浅草神社・伝法院―神仏分離後の境内

浅草神社は、浅草寺と深く結びついていた三社権現社を前身とします。明治元年(1868)の神仏分離で三社明神社と改称し、明治5年に郷社、翌6年に現在の浅草神社となりました。1001は改称から約11年後の姿です。地図には「山王権現」の名も確認できますが、現在のどの社に直接つながるかは確認できないため、名称の存在までにとどめます。

伝法院でんぼういんは浅草寺の本坊です。江戸時代初期の庭園を持ち、明治17年の公園区画では第三区に入りました。1001でも寺院建築と庭園の大きな区画が周囲の町家とは別に描かれています。

弁天山と「時の鐘」

浅草寺本堂の東南には弁天山があり、弁天堂と鐘楼が置かれています。現在の鐘は元禄5年(1692)、5代将軍徳川綱吉の命で改鋳されたもので、江戸市中に時刻を知らせた「時の鐘」の一つでした。松尾芭蕉の「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で知られる鐘でもあります。明治の公園化後も、江戸の時刻制度を担った場所が境内に残っていました。

東本願寺と本願寺教校―寺院が政治と教育の場になる

東本願寺は、徳川家康から寺地を与えられて神田に建立されたのち、明暦3年(1657)の大火を経て浅草へ移りました。江戸時代には朝鮮通信使の宿館も務めています。明治8年(1875)には第1回地方官会議が浅草本願寺で開かれました。大寺院の広い堂宇が、明治政府の会議にも利用された例です。

1001の南側には「本願寺教校」と明瞭に記されています。岐阜県歴史資料館には明治11年(1878)の文書に「東京浅草東本願寺教校ニテ」と記された史料が残り、浅草本願寺に教校が存在したことを確認できます。のちに南極探検を率いた白瀬矗しらせ・のぶも明治12年(1879)、浅草本願寺境内の「小教校」に入学しています。「本願寺教校」と「小教校」が同一施設だったとは断定できませんが、この時期の浅草本願寺が僧侶教育の場を備えていたことは確かです。

源空寺―伊能忠敬と高橋至時が眠る測量史の場所

地図に記された源空寺げんくうじの墓地には、伊能忠敬いのう・ただたかと師の高橋至時たかはし・よしときの墓があります。忠敬は50歳で至時に西洋暦法と測図法を学び、寛政12年(1800)から全国測量を開始しました。至時は幕府天文方として寛政暦を作り、忠敬の測量を指導した人物です。二人の墓は国指定史跡です。

源空寺には江戸後期の文人画家谷文晁たに・ぶんちょう、町奴として知られる幡随院長兵衛ばんずいいん・ちょうべえの墓もあります。明治政府の精密測量図の中に、近世測量史を代表する師弟と江戸文化を象徴する人物の墓所が同時に描かれています。

海禅寺―大名家の墓所が地図に家名付きで残る

海禅寺かいぜんじ周辺を拡大すると、寺名だけでなく大名家関係の墓域が書き込まれています。「蜂須賀家之墓」と読める区画があり、徳川林政史研究所の蜂須賀家文書目録でも、海禅寺は徳島藩蜂須賀家の庇護が厚く「阿波様寺」と呼ばれたと記されています。徳島県立図書館の調査では、海禅寺に蜂須賀家関係の墓誌が6枚あることも確認されています。

地図には「小笠原忠忱先墓」と読める表記もあります。小笠原忠忱おがさわら・ただのぶは旧小倉藩小笠原家の当主で、1001が作られた明治17年(1884)に伯爵となりました。この時点では存命だったため、地図の表記は忠忱本人ではなく先祖の墓所を指します。忠忱は明治30年(1897)に36歳で亡くなり、その後、同じ海禅寺に葬られました。

さらに「土屋寅直父墓」と読める表記があります。土浦藩主土屋寅直つちや・ともなおの父は9代藩主土屋彦直つちや・よしなおで、弘化4年(1847)に死去し、土屋家の菩提寺だった海禅寺に葬られました。土浦市立博物館の資料でも、近世の土浦藩土屋家の歴代墓所が海禅寺にあったことが確認できます。

海禅寺境内の「泊船軒」も幕末史につながります。尊王攘夷派の儒学者梅田雲浜うめだ・うんぴんは安政の大獄で捕らえられ、安政6年(1859)に小倉藩江戸邸で病没しました。遺体は海禅寺内の泊船軒はくせんけんに仮埋葬され、文久2年(1862)に現在の墓石が建立されています。

寺町の寺名からたどれる人物と江戸の都市史

1001の西側から南側には寺院が密集しています。すべてを列挙するより、地図で明瞭に読め、歴史的な人物や出来事と結びつく寺を拾うと、この寺町の性格が分かります。

  • 曹源寺そうげんじ―通称「かっぱ寺」。文化年間、低湿地の排水工事に私財を投じた合羽屋喜八を河童が助けたという伝承があり、合羽橋の名の由来の一説にもなっています。河童の部分は寺に伝わる伝承です。
  • 徳本寺とくほんじ―天明4年(1784)に江戸城内で田沼意知を斬り、切腹となった佐野政言さの・まさことの墓があります。政言は後に民衆から「世直し大明神」と呼ばれました。南蘋派の写実的な花鳥画を江戸に広めた画家宋紫石そう・しせきもここに眠ります。
  • 清光寺せいこうじ―江戸歌舞伎の看板や番付に使われる勘亭流を生み出した岡崎屋勘六おかざきや・かんろくの墓があります。安永8年(1779)、中村座の春狂言の大名題を書いたことが勘亭流の始まりとされます。
  • 誓教寺せいきょうじ―浮世絵師葛飾北斎かつしか・ほくさいの墓所です。北斎は嘉永2年(1849)に没し、墓標には雅号の一つ「画狂老人卍」が刻まれています。
  • 天嶽院てんがくいん―上杉鷹山の師として知られる儒学者細井平洲ほそい・へいしゅうの墓があります。
  • 正定寺しょうじょうじ―幕末の剣客島田虎之助しまだ・とらのすけの墓があります。浅草新堀に道場を開き、若い勝麟太郎、のちの勝海舟も通いました。
  • 聖徳寺しょうとくじ―玉川上水を開削した玉川庄右衛門・清右衛門の墓があります。上水は承応3年(1654)に完成し、江戸の飲料水を支えました。
  • 善照寺ぜんしょうじ―医師・国学者の清水浜臣しみず・はまおみの墓があります。松平定信の知遇を受け、古典や和歌の考証に取り組みました。
  • 願龍寺がんりゅうじ―千宗旦の高弟で宗徧流の祖となった茶人山田宗徧やまだ・そうへんの墓があります。

1001では浅草寺の公園化だけでなく、神仏分離、寺院教育、近世測量史、旧大名家の墓所、幕末政治史、江戸の芸術・茶道・上水整備まで、一枚の地図から連続して追えます。一般的な町名や通常の寺院は除き、原図で名称を明瞭に読め、歴史的な背景を確認できる対象に絞ると、明治17年の浅草が江戸の記憶を濃く残していたことが具体的に分かります。

東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍

国土地理院 資料番号1002

五千分一東京図測量原図1002 東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1002は隅田川を挟んで浅草須賀町と本所横網町を描きます。高精細原図では、西岸に「大蔵本廩」「東京職工学校」「猿屋町警察署」「小林病院」、東岸に「池田邸」「徳川邸」「陸軍倉庫」「本所憲兵分屯所」などの名称を確認できます。江戸幕府の米蔵や大名屋敷が、明治政府の物流・教育・警察・軍事施設、華族邸宅へ使い直されていく過程を一枚で追える図です。

大蔵本廩―浅草御蔵から明治政府の米穀施設へ

浅草側の大規模な倉庫群には「大蔵本廩」と記されています。りんは穀物を収める倉を意味します。この一帯は江戸時代の浅草御蔵で、幕府が年貢米を収納・保管した大規模な米蔵でした。明治政府も施設を引き継ぎ、明治11年(1878)には大蔵省の常平局じょうへいきょくが置かれ、米穀の売買・輸出・精米・米価調整にあたりました。

常平局は明治15年(1882)に廃止されましたが、1002が作られた明治17年(1884)にも「大蔵本廩」として倉庫群が残っています。幕府の御蔵を壊して別用途にしたのではなく、既存の倉庫と水運立地を明治政府が継承した例です。

東京職工学校―米蔵跡が工業教育の拠点になる

大蔵本廩の近くには「東京職工学校」と明瞭にあります。東京職工学校は明治14年(1881)に設立され、現在の東京科学大学へつながる工業教育機関です。機械工芸科と化学工芸科を置き、工業技術者だけでなく工業教育を担う人材の育成も目的としました。1002は開校から約3年後の姿です。

この敷地には直前まで官立図書館の浅草文庫があり、その浅草文庫も旧浅草御蔵の建物を利用していました。土地の履歴は、幕府の米蔵から官立図書館、さらに工業学校へと続きます。地図作成年の明治17年には、ドイツ人技術者ゴットフリード・ワグネルGottfried Wagenerも東京職工学校の教育に加わり、陶磁器・ガラス・漆器などの近代工業技術を教えました。

厩橋―浅草御蔵の「御厩」が橋名に残る

厩橋うまやばしは明治7年(1874)に創架されました。隅田川で6番目に架けられた橋で、名は浅草御蔵の米を運ぶ馬を飼った「御厩」に由来します。1002は創架から約10年後で、現在の鋼橋に架け替えられる以前の最初の厩橋があった時代です。御蔵、大蔵本廩、御厩、厩橋を続けて見ると、この一帯が米の収納と運搬を中心に発達したことが分かります。

猿屋町警察署―同じ構内に消防分署が置かれた

西岸には「猿屋町警察署」と記されています。東京消防庁の沿革によると、明治14年(1881)6月、浅草区浅草猿屋町17番地の猿屋町警察署と同一構内に第五消防分署が設置されました。1002では警察署名だけが記されていますが、その敷地には近代警察と初期の公設消防が同居していました。

小林病院―近代法医学教育が行われた地域

猿屋町警察署の近くには「小林病院」とあります。この付近には明治初期、警視庁第五病院が置かれ、ドイツ人医学者ヴィルヘルム・デーニッツが裁判医学を教えました。日本で近代的な法医学教育が始まる初期の拠点の一つです。

1002が作られた明治17年には地図上の名称が小林病院へ変わっています。東京府統計書などを用いた調査では、元警察医の小林玄海こばやし・げんかいが明治14年(1881)に小林病院を開設したとされます。ただし警視庁第五病院から小林病院への施設・運営上の継承関係は公的資料だけでは確認し切れないため、同一病院だったとは断定しません。

池田章政邸―旧大名庭園から旧安田庭園へ

隅田川東岸の大きな庭園を持つ「池田邸」は、旧備前岡山藩主池田章政いけだ・あきまさの邸宅です。この土地は江戸時代に本庄氏の下屋敷となり、潮入の回遊式庭園が造られました。明治に池田家の所有となり、1002は池田章政邸だった時期を描いています。

明治24年(1891)、安田財閥の創始者・安田善次郎がこの邸宅と庭園を購入しました。現在の旧安田庭園です。1002は安田家取得の7年前で、旧大名庭園が華族邸宅として使われていた段階を記録しています。

徳川邸―尾張徳川家の横網町邸

池田邸の近くに描かれた「徳川邸」は、尾張徳川家の本所横網町邸と特定できます。徳川林政史研究所の史料には、本所区本所横網町一丁目19番地の華族・徳川義礼とくがわ・よしあきらの住所が記録されています。義礼は尾張徳川家の当主で、1002作成年の明治17年(1884)に侯爵となりました。

義礼の養父で旧尾張藩主の徳川慶勝とくがわ・よしかつは、前年の明治16年(1883)8月1日にこの横網町邸で死去しています。1002の「徳川邸」は、幕末政治に大きく関わった慶勝が亡くなった翌年の尾張徳川家邸宅を描いたものです。

陸軍倉庫―後の被服廠跡へ続く土地

本所側には「陸軍倉庫」と明記された大規模施設があります。後世、この一帯は陸軍被服廠として知られますが、1002作成時点の地図表記はあくまで「陸軍倉庫」です。陸軍被服廠条例が制定されるのは明治23年(1890)で、1884年の施設をそのまま被服廠と呼ぶのは避ける必要があります。

この土地はのちに東京市へ移管され、関東大震災時には被服廠跡へ多数の避難者が集まり、火災旋風によって約3万8千人が亡くなりました。現在の横網町公園・東京都慰霊堂周辺です。1002は、その悲劇より約40年前の軍用地としての姿を残しています。

本所憲兵分屯所―憲兵制度発足直後の施設

原図には「本所憲兵分屯所」も確認できます。憲兵は明治14年(1881)に陸軍内へ設置され、同年に憲兵条例が制定されました。東京府下で憲兵が施行されたのも1881年です。1002は制度発足から約3年後で、軍事警察制度が東京市中へ展開した初期の施設を記録しています。

松平邸―家系・当主は未特定

西岸には大きな敷地に「松平邸」と明瞭に書かれています。松平を称する旧大名家は多く、明治17年のこの邸宅を特定の家系・人物へ一意に結び付ける公的資料は確認できませんでした。地図上に大規模な華族・旧大名家系の邸宅があったことは確認できますが、当主名は推測で補いません。

1002では、江戸の米蔵と大名屋敷を基盤に、米穀行政、工業教育、警察・消防、病院、華族邸宅、陸軍・憲兵施設が近接しています。隅田川はそれらを分断する境界ではなく、物流と交通を支える軸でした。江戸の土地の形を残しながら、明治国家の新しい機能が重ねられていく過程を具体的に追える図です。

東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍

国土地理院 資料番号1003

五千分一東京図測量原図1003 東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1003は明治17年(1884)8月の上野公園と周辺市街を描いています。高精細原図では「博物館」「博覧会陳列場」「動物館」「慈眼堂」「大佛」「徳川氏墓」「東照宮」「清水堂」「弁天社」「五條天神」「上野外国教師官舎」「日本鉄道会社」「下谷区役所」「前田邸」などを確認できます。上野戦争後の寛永寺旧境内に、徳川家の墓所や寺社を残したまま、公園、博物館、動物園、博覧会施設、鉄道が入り込んだ時期です。

博覧会陳列場―第2回内国勧業博覧会から3年後

上野公園では明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会が開かれました。国立公文書館によると、英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計した本館と6館の陳列館が建てられ、約33万点が出品され、入場者は約82万人に達しました。1003が作られたのはその3年後で、原図には「博覧会陳列場」の名称が残っています。

博覧会終了後も建物や敷地の一部が公園内の施設として残り、上野は産業・美術・教育を展示する国家的な会場として使われ続けました。江戸以来の寺社地に近代国家の展示施設が重なったことが、1003では建物配置として確認できます。

博物館―コンドル旧本館が開館して2年

原図の「博物館」は、現在の東京国立博物館につながる施設です。コンドル設計の旧本館は明治14年(1881)に竣工し、第2回内国勧業博覧会では美術館として使用されました。翌明治15年(1882)3月20日に上野博物館が開館しています。1003は開館から約2年後の姿です。

動物館と日本最初の上野動物園

1003には「動物館」と明瞭に記された建物があります。一方、同じ上野公園では明治15年(1882)3月20日、博物館附属施設として日本最初の動物園が開園していました。地図作成時は開園から約2年後です。

「動物館」という名称は第1回内国勧業博覧会の施設名にも見られますが、1003に描かれた動物館と、1882年開園の博物館附属動物園を同一施設と断定できる資料は確認できません。地図上の建物名と動物園の制度上の施設は区別して扱う必要があります。

徳川氏墓―近代公園の中に残った将軍家霊廟

寛永寺側には「徳川氏墓」と大きく記されています。寛永寺には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍が埋葬されました。上野戦争で山内の大部分が焼失し、明治6年(1873)に旧境内が公園となった後も、将軍家墓所は残されました。

1003では、徳川将軍家の墓域の近くに博物館や博覧会施設が並びます。上野の近代化は江戸の宗教・権力空間をすべて消したのではなく、既存の墓所や寺社を残しながら新しい公共施設を配置して進みました。

慈眼堂・上野大仏―寛永寺旧境内に残った施設

慈眼堂じげんどうは寛永寺を開いた天海を慈眼大師として祀る堂で、現在の開山堂、通称「両大師」です。初建は正保元年(1644)で、1003には現在の通称ではなく「慈眼堂」と記されています。

原図の「大佛」は上野大仏です。寛永8年(1631)、越後村上藩主堀直寄ほり・なおよりが建立したのが始まりで、1003が作られた1884年には現在の顔面だけではなく大仏像そのものが立っていました。像は関東大震災で頭部が落下し、その後胴体は戦時中の金属供出で失われました。

東照宮・清水堂・弁天社―天海がつくった江戸の宗教景観

上野東照宮は徳川家康を祀る社で、現在の主要社殿は慶安4年(1651)に3代将軍家光が造営しました。上野戦争でも焼失を免れ、神仏分離後も上野公園の中に残りました。

「清水堂」は現在の清水観音堂きよみずかんのんどうです。寛永8年(1631)、天海が京都清水寺を見立てて舞台造りで建立しました。不忍池の「弁天社」は現在の不忍池辯天堂で、天海が不忍池を琵琶湖、中之島を竹生島に見立て、竹生島宝厳寺になぞらえて建立したものです。京都や近江の名所を江戸へ写す「見立て」の都市景観が、明治の公園化後も残っていました。

五條天神―現在とは違う場所にあった薬祖神

原図の「五條天神」は現在の五條天神社とは位置が異なります。台東区の資料によると、元禄10年(1697)から大正期まで現在の上野4丁目10番付近に鎮座し、明治2年(1869)には門前が「五條町」となりました。医薬の祖神として信仰された古社で、鉄道工事や関東大震災を経て移転し、昭和3年(1928)に現在地へ移っています。

上野外国教師官舎―お雇い外国人の時代

1003には「上野外国教師官舎」と明瞭にあります。国立公文書館には、上野山内の「東校教師館」に関する絵図が残っており、明治初期の上野に外国人教師用の官舎が設けられたことを確認できます。

大学東校では明治初期からドイツ人医師らによる西洋医学教育が進められていました。ただし、公文書館の東校教師館と1003の「上野外国教師官舎」が建物単位で完全に同一だったことや、特定の外国人教師の居住までは確認できません。人物名は推測で補いません。

日本鉄道会社―上野駅開業から約1年

原図の東側には「日本鉄道会社」と鉄道路線・停車場関係施設が描かれています。上野駅は明治16年(1883)7月28日に開業しました。1003は開業から約1年後で、現在の巨大な上野駅になる前の初期の鉄道景観を記録しています。

明治17年(1884)には日本鉄道が高崎・前橋方面へ延伸し、同年8月28日には明治天皇臨席のもと上野駅で開業式が行われました。1003の測量時期は同年8月で、鉄道が北関東へ伸びるまさにその時期に当たります。

下谷区役所―短期間だけ使われた山下町庁舎

原図には「下谷区役所」とあります。当時の区役所は明治15年(1882)12月に山下町3番地へ移転し、明治18年(1885)5月には北稲荷町へ再移転しました。1003は約2年半しか区役所として使われなかった山下町庁舎を記録しています。

前田邸―最後の富山藩主・前田利同

北東部の「前田邸」は、下谷新坂本町5番地の前田利同まえだ・としあつ邸と特定できます。利同は安政3年(1856)生まれで、安政6年(1859)に3歳で富山藩主となり、明治2年(1869)には富山藩知事となった最後の富山藩主です。後年の『東京名所図会』にも同番地が伯爵前田利同邸として記録されています。

不忍池―共同競馬場の正式落成直前

1003の測量時期は明治17年(1884)8月です。不忍池ではこの年、共同競馬場の建設が進められており、正式な落成は同年11月1日でした。東京都公文書館には6月時点で不忍池畔競馬場に関する記録が残っています。

したがって1003は、上野共同競馬場が正式に開場する数か月前の不忍池を描いています。後年の競馬場が明確に描かれていないのは、地図作成時期と工事時期を考えると自然です。

東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍

国土地理院 資料番号1004

五千分一東京図測量原図1004 東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1004は神田区佐久間町から下谷区仲御徒町にかけての市街を描きます。高精細原図では「東京府養育院」「第二醫院」「薬品試製所」「松浦邸」「藤堂邸」「天主教會」「三味線堀」「鎮火社」などを確認できます。医療・福祉・薬事行政、旧大名家邸宅、キリスト教、水運、防火都市計画が近接し、現在の秋葉原・浅草橋周辺とは異なる明治初期の土地利用が見えます。

東京府養育院―渋沢栄一が支えた神田和泉町時代

神田和泉町の広い敷地には「東京府養育院」と記されています。養育院は困窮者や病者を収容する東京府の救済施設で、渋沢栄一しぶさわ・えいいちが長く運営に関わりました。上野護国院の敷地が博物館用地となったため、明治12年(1879)10月に神田区和泉町へ移転しています。

1004が作られた明治17年(1884)は、和泉町へ移って約5年後です。養育院は翌明治18年(1885)12月に本所区長岡町へ再移転するため、この地図は神田和泉町に置かれた短い時期を記録しています。明治16年からは路上で病気になった人の収容も始まり、都市救済と医療の役割が重なっていました。

第二醫院―東京大学医学部の臨床教育施設

養育院に隣接して「第二醫院」とあります。東京大学医学部は明治11年(1878)11月、医学通学生の臨床教育のため神田に第二医院を設け、本郷の医院を第一医院としました。東京大学の沿革資料では、第二医院の所在地を神田和泉町と確認できます。

1004は開設から約6年後です。養育院、第二医院、薬品試製所が近接しているため、1880年代の神田和泉町には福祉、臨床医学、薬事行政の施設がまとまっていました。

薬品試製所―国の薬品試験・製造制度が形になる

原図の「薬品試製所」は、国の医薬品試験・製造制度の初期を伝える施設です。国立医薬品食品衛生研究所の沿革資料によれば、明治16年(1883)5月、東京試験所内の製薬所を廃止して薬品試製所が新設されました。1004は設置から約1年後です。

この系譜は、明治7年(1874)に神田和泉町へ置かれた東京司薬場まで遡ります。当時は輸入された西洋医薬品の品質を検査し、粗悪品を排除する制度づくりが課題でした。東京司薬場、東京試験所、薬品試製所を経て、後の東京衛生試験所、現在の国立医薬品食品衛生研究所へつながります。

松浦詮邸と蓬莱園―旧大名庭園が華族邸宅として残る

原図の「松浦邸」は、最後の平戸藩主松浦詮まつら・あきらの邸宅です。松浦詮は政治家・茶人としても知られ、1004作成年の明治17年(1884)に伯爵となりました。台東区立図書館所蔵『蓬莱園記』では、松浦詮の住所を浅草区向柳原町二丁目一番地としています。

邸内の大きな池と庭園は蓬莱園ほうらいえんです。平戸藩松浦家の別邸庭園で、鳥越川の水を引き入れた約2600坪の大庭園でした。小堀遠州作と伝えられ、関東大震災で大きく失われました。現在は都立忍岡高校の校庭に池の一部と大イチョウが残ります。1004は旧大名庭園が明治華族の邸宅として使われていた姿を記録しています。

三味線堀―物流の水路と蓬莱園を結ぶ水系

松浦邸の近くには「三味線堀」があります。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形から三味線堀と呼ばれました。不忍池から忍川、三味線堀、鳥越川を経て隅田川へ水が通じ、下肥、木材、野菜、砂利などを運ぶ船が往来しました。

蓬莱園も鳥越川の水を庭園へ取り込んでいました。同じ水系が、一方では物資輸送を支える都市インフラとして、もう一方では大名庭園の水景として利用されていました。

天主教會―禁教解除後に広がった浅草のカトリック

原図の「天主教會」は現在のカトリック浅草教会につながります。明治10年(1877)、居留地外では教会建設の許可を得にくかったため、浅草猿屋町に玫瑰学校まいかいがっこうとして認可を受け、一室を聖堂として使用しました。同年12月には向柳原町一丁目の現在地へ移転しています。

東京大司教区の沿革では、学校設立から7年後に浅草教会担当区域の信徒が1000人を超えたとされています。その7年後が1004作成年の1884年です。キリシタン禁制解除後、東京の下町でカトリック共同体が急速に広がった時期を地図上の施設名から確認できます。

藤堂邸―津藩藤堂家との関係が考えられる邸宅

原図には「藤堂邸」と明瞭に書かれた大規模邸宅があります。当時の津藩藤堂宗家の当主は、最後の津藩主藤堂高潔とうどう・たかきよでした。後年の記録にも神田和泉町の藤堂邸が確認できるため、1004の邸宅も藤堂宗家との関係が考えられます。

ただし、この地図の藤堂邸を藤堂高潔本人の居宅と一意に示す住所資料は確認できていません。人物との関係は可能性の範囲にとどめます。

鎮火社―「秋葉原」の名が生まれた火除地

神田側の広い空地には「鎮火社」と記されています。明治2年(1869)の大火後、新政府はこの一帯に火除地を設け、翌明治3年(1870)には火災鎮護のため鎮火社を置きました。

火伏せの神として知られる秋葉神社との連想から、この火除地は「あきばの原」「あきばっぱら」と呼ばれるようになり、後の「秋葉原」の地名につながりました。1004では、現在の電気街や巨大駅ができる前の、防火空地と鎮火社を中心とした景観を確認できます。

左衛門橋・美倉橋・和泉橋―橋名に残る江戸の土地利用

神田川沿いでは複数の橋名を確認できます。左衛門橋さえもんばしは、江戸時代に橋の北側にあった酒井左衛門尉の屋敷に由来し、明治8年(1875)に創架されたとされます。1004は架橋から約9年後です。

美倉橋みくらばしの名は、三つの蔵地を意味する「三倉地」が明治2年(1869)に美倉町と改称されたことに由来します。和泉橋は明治25年(1892)に鉄橋化されるため、1004はその前の姿です。橋名には江戸の屋敷や蔵地の記憶が残っています。

1004では、神田和泉町の医療・福祉・薬事施設、松浦家と藤堂家の大邸宅、三味線堀の水運、カトリック教会、鎮火社と火除地が近接しています。江戸の大名屋敷や水路を残しながら、明治政府の衛生行政、社会救済、宗教政策、防火都市計画が市街地へ加わっていく過程を具体的に追えます。

4枚を続けて見ると見えてくる明治東京

1001〜1004は隣接する地域を描きながら、性格が大きく異なります。浅草では寺社境内が公園制度へ組み込まれ、上野では公園が博覧会と鉄道の拠点になり、本所では水運と軍用地が大規模な土地利用をつくり、御徒町・神田では密集市街地の中に衛生行政や大邸宅が存在していました。

1880年代の東京では、江戸以来の寺町や武家地の名残の上に、近代的な公園、軍施設、鉄道、官設の試験施設、医療・福祉施設が重なっていました。五千分一東京図測量原図は、その併存を街区単位で追える史料です。

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主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 国立公文書館「変貌―内国勧業博覧会の開催について」「東京上野公園地実測図」
  • 国立国会図書館「博覧会―近代技術の展示場 第1回内国勧業博覧会」
  • 東京都立図書館「都市・東京の記憶 浅草公園」
  • 台東区文化探訪「浅草寺に詣でる」
  • 台東区立図書館デジタルアーカイブ『蓬莱園記』
  • 墨田区「都市計画マスタープラン」
  • 千代田区「和泉橋地域のまちづくり」「千代田区景観まちづくり重要物件 左衛門橋」
  • 東京大学総合研究博物館「東京大学本郷キャンパスの歴史と建築」
  • 公益財団法人渋沢栄一記念財団『渋沢栄一伝記資料』第24巻
  • 東京消防庁「公設消防の誕生」「消防署の紹介(浅草消防署)」
  • カトリック東京大司教区「教区の歴史」「東京教区ニュース第243号」
  • 徳川林政史研究所「徳川林政史研究所の所蔵史料―諸家・諸地域文書― 蜂須賀家文書」
  • 国立医薬品食品衛生研究所『国立衛生試験所百年史』
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ「衛生局薬品試製所薬草試植園ヲ同局東京試験所ノ附属トナス」