野島掩体壕とは?横浜・野島山を貫く国内最大級の航空機地下格納庫の歴史・現在・今後

横浜市金沢区の野島掩体壕東側出入口

横浜市金沢区の野島公園には、野島山を東西に貫く巨大なコンクリート開口部が残っています。第二次世界大戦末期、航空機を空襲から守るために造られた野島掩体壕です。

佐世保工業高等専門学校の研究では、全長は約260m。東西の出入口は幅約20m、高さ約7mで、東側約74m、西側約84.5mがコンクリート覆工、中央部約100mは幅約10m、高さ約8mの素掘り区間とされています。

一般的な航空機用掩体壕が1機程度を土塁やコンクリートで覆う規模であるのに対し、野島では山そのものを大規模な地下格納庫として利用する計画が進められました。

野島掩体壕とは|野島山を約260m貫く航空機地下格納庫

野島掩体壕は、現在の横浜市金沢区野島町、野島公園内に残る旧海軍の航空機用掩体壕です。戦争末期の1945年、横須賀海軍航空隊や追浜飛行場などの航空機を空襲から守るため建設されました。

標高約55m級の野島山を東西に貫き、現存する航空機用掩体壕の中でも国内最大級の規模とされています。

掩体壕とは|人員用防空壕との違い

掩体壕は、航空機、車両、兵員、軍需物資などを爆撃や砲撃から守るための防護施設です。航空機用では土を盛る、コンクリートで覆う、地形を利用するなどの方法で機体を隠し、防護しました。

人員の退避を主目的とする防空壕に対し、航空機用掩体壕は機体そのものを守る施設です。野島は山体をトンネル状に貫き、多数の航空機を収容する大規模地下格納庫として計画されました。

日本各地の地下壕・地下軍事施設では、司令部壕、地下工場、航空基地施設など、用途ごとの違いを整理しています。

なぜ野島だったのか|追浜・夏島の海軍航空拠点

野島の南側には横須賀市の追浜・夏島地区があります。戦前、この一帯には横須賀海軍航空隊、追浜飛行場、海軍航空技術廠など、海軍航空関係施設が集中していました。

野島付近から望む横須賀市夏島方面
野島付近から望む横須賀・夏島方面。与謝野鋼管 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

掲載写真は2016年の現況写真で、野島と追浜・夏島が近接する地理関係を示しています。

戦争末期、海軍航空施設が空襲を受ける中で、航空機を地上格納庫から分散し、地下へ収容する必要が高まりました。追浜側の海軍航空技術拠点に残る地下施設は貝山地下壕の記事で詳しく扱っています。

1945年、第三〇〇設営隊が野島山を掘る

工事を担ったのは海軍の第三〇〇設営隊です。海軍施設の築造を担当する専門部隊で、横浜市の現地説明板は第三〇〇設営隊戦時日誌に基づき、1945年3月15日から6月30日まで掘削工事が進められたことを紹介しています。

一方、佐世保高専の研究では工事開始を1945年1月とし、元設営隊長の記録から8月14日ごろに完成したと紹介しています。記録ごとに工事期間の捉え方が異なりますが、1945年の終戦直前まで大規模工事が続いていたことは共通しています。

入口20m、内部8m|巨大トンネルの構造

東側出入口は幅約20m、高さ約7mで、入口から約74mがコンクリート覆工です。覆工は、掘ったトンネルの内側をコンクリートなどで補強することを指します。

西側も出入口は幅約20m、高さ約7mで、約84.5mがコンクリートで覆われています。中央部約100mは幅約10m、高さ約8mの素掘り区間で、地山を掘ったまま全面をコンクリートで覆っていません。

横浜市金沢区の野島掩体壕西側出入口
野島掩体壕の西側出入口。Quercus acuta / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

入口側と中央部で構造が異なり、長大な格納空間を山中に確保しようとした工事の規模を確認できます。

野島と夏島で小型機約100機を格納する計画

横浜市の説明では、野島と夏島で同時期に掩体壕が掘削され、両施設を合わせて海軍小型機約100機を格納する計画だったとされています。

約100機という数字は、野島と夏島を組み合わせた大規模な航空機分散・地下格納計画の合計です。

元設営隊長の記録に従えば完成は1945年8月14日ごろで、翌15日に終戦を迎えます。航空機格納施設として本格運用される期間はほとんどありませんでした。

敗戦後、軍事施設から野島公園へ

戦後、横浜市は野島を臨海公園として整備する計画を進めました。国有地の無償貸与を受け、隣接民有地も買収し、1955年から整備を開始。1956年4月1日に野島公園が開園しました。

現在の野島公園には自然海浜、展望台、キャンプ場、旧伊藤博文金沢別邸などがあります。戦時中に基地化された土地は、市民が利用する臨海公園へ転換され、その中に掩体壕の巨大な壕口が残りました。

2026年現在、野島掩体壕はどこまで見られる?

野島公園は通常利用でき、東西の巨大な壕口は外部から確認できます。掩体壕内部は通常の観光施設として一般公開されていません。

佐世保高専の調査論文では、内部に調査員も立ち入れない区間があると報告されています。横浜市の野島公園事業報告書では掩体壕を指定管理者の「管理範囲外」と記載しています。

現在の見学は、公園から壕口の大きさと野島山を貫く施設の規模を外観で確認するのが基本です。

内部の土砂堆積と老朽化

佐世保高専の研究では、西側壕口から約60m奥に大規模な土砂堆積があり、トンネル断面の大部分を塞いでいると報告されています。

東側内部もコンクリート区間、素掘り区間、土砂堆積へ続きます。内部には土砂堆積や老朽化があり、継続的な状況把握が保存上の課題になっています。

ドローンとロボットで地下を測る|UAV・UGV・3Dモデル化

野島掩体壕は、佐世保高専の地下空間探査研究の実験サイトにもなっています。UAVはドローンなどの無人航空機、UGVは地上を走る無人車両・ロボットです。

研究では、西側壕内でのUAV飛行、UAVとUGVの協同、東側壕内の360度撮影、測量、3Dモデル化が検討・実施されています。人が入りにくい区間でも、無人機で内部状況を記録・計測する方法を検証しています。

この取り組みは地下空間の探査・計測を目的とする研究プロジェクトです。横浜市の観光施設化計画とは別に、保存と調査へ無人機を活用する技術研究として進められています。

文化財指定と2026年の保存活用方針

2026年9月時点で、野島掩体壕が国・神奈川県・横浜市の指定文化財になったという公式情報は確認できません。

2024年の横浜市文化財保存活用地域計画への市民意見では、野島掩体壕について調査、防災対策、保存・管理、見学機会、情報発信を求める意見が提出されました。市は計画を着実に進めると回答しています。ここで示されたのは市民意見と市の回答で、文化財指定の決定とは区別されます。

2026年1月7日基準の横浜市回答では、野島掩体壕などの軍事遺跡を博物館企画展で紹介し、所有者や関係機関と協力して保存・活用に努める方針が示されています。

2026年には横浜都市発展記念館の企画展「戦争の記憶―横浜と軍隊の120年」や、横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターの展示でも野島掩体壕が紹介されました。現地公開だけでなく、博物館展示や調査記録を通じた普及も進んでいます。

参考文献・確認先

  1. 横浜市「野島公園」
  2. 佐世保工業高等専門学校研究報告 第60号
  3. 横浜市「文化財保存活用地域計画 市民意見募集結果」
  4. 横浜市「市内の戦争遺跡を保存してください」への回答
  5. 横浜都市発展記念館「戦争の記憶―横浜と軍隊の120年」