チビチリガマとシムクガマとは?同じ読谷村で「集団死」と投降が分かれた理由

沖縄県読谷村にあるチビチリガマの入口

沖縄県読谷村波平には、直線距離で約1kmほど離れた二つの自然洞窟があります。チビチリガマとシムクガマです。

1945年4月1日、米軍は読谷村を含む沖縄本島西海岸へ上陸しました。波平の住民は艦砲射撃や空襲を避けるため、地域の自然洞窟「ガマ」に分かれて避難していました。

翌4月2日、チビチリガマでは約140人の避難者のうち83人が死亡しました。一方、約1,000人が避難したシムクガマでは、ハワイから帰国していた比嘉平治と比嘉平三が米軍との接触を仲介し、住民の投降につながりました。

二つの出来事には、同じ地域で同じ戦時教育を受けた住民が置かれていた恐怖、米軍について得られた情報、海外移民経験、英語能力、洞窟ごとの状況が重なっています。

ガマとは|沖縄の自然洞窟

沖縄で「ガマ」と呼ばれるのは、石灰岩地帯などに形成された自然洞窟です。沖縄戦では住民避難、軍の陣地、野戦病院、物資倉庫などに利用されました。

チビチリガマとシムクガマは、波平住民が避難に利用した自然洞窟です。自然洞窟を住民避難・軍陣地・病院へ転用した糸数アブチラガマに対し、旧海軍司令部壕は軍が掘削した人工地下壕です。日本各地の地下壕・地下軍事施設と比べると、沖縄では自然地形そのものが避難と戦闘の空間になった例が多く残ります。

1945年4月1日、米軍が読谷村へ上陸

米軍は1945年4月1日、沖縄本島中部西海岸へ上陸しました。読谷村は上陸地域に含まれ、住民はそれ以前から艦砲射撃と空襲にさらされていました。

読谷村史によると、波平ではシムクガマ、アガリシムクガマ、キジムナーガマ、チビチリガマ、イングェーガマなど複数の洞窟へ住民が分かれて避難しました。シムクガマには約1,000人、チビチリガマには約140人が入りました。

避難先は家族・親族関係や住居との距離などによって分かれ、波平住民は複数の洞窟へ分散していました。二つのガマでは、避難者集団の規模や構成も異なります。

チビチリガマで起きた83人の集団死

米軍上陸翌日の4月2日、チビチリガマでは約140人の避難者のうち83人が死亡しました。現在の読谷村観光協会は出来事全体を「集団死」と表現し、史料上の用語として「集団自決」も紹介しています。

読谷村史に収録された「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」の碑文では、「集団自決」という語をかぎ括弧付きで用い、軍国主義教育と「捕虜になることは恥」という価値観が背景にあったと記しています。

死亡した83人のうち約6割は18歳以下でした。幼い子ども、高齢者、女性を含む地域住民が避難した場所であり、家族間の殺害や自死が重なりました。碑文には83人とは別に、2人が米兵によって殺害された記録もあります。

住民が米軍を強く恐れた背景

読谷村観光協会は、住民が米兵を「鬼畜」と教えられ、捕まれば殺される、女性は暴行されるといった恐怖を抱いていたと説明しています。

沖縄戦当時、住民が米軍について独自に情報を集める手段は限られていました。学校教育、新聞、ラジオ、軍人などから得る情報の多くは日本側の戦時宣伝の枠内にありました。米軍がガマへ近づいた瞬間、長く蓄積された恐怖が現実の選択に直結しました。

「自決」という語は、子どもを含む住民が置かれた強制的な状況を捉えるには不十分です。読谷村史の碑文は、軍国主義教育による「強制された死」と位置づけています。

1987年の平和の像と1995年の再建

遺族と地域住民は犠牲者を追悼し、1987年4月2日に「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。同年11月に像は破壊され、その後、全国からの支援も受けて1995年4月2日に再建されました。

チビチリガマは現在も慰霊と平和学習の場です。出来事そのものに加え、戦後に遺族や地域社会がどう記憶を継承してきたかも現地に残っています。

チビチリガマの入壕は禁止されている

2026年9月現在、読谷村観光協会はチビチリガマへの入壕を遺族会の意思により禁止しています。見学できるのは入口周辺と平和の像までです。

シムクガマには約1,000人が避難

シムクガマはチビチリガマから約1km離れた波平の自然洞窟です。読谷村観光協会は、「シム」は下、「ク」は向くという意味で、谷の下に洞窟があることから名付けられたと説明しています。

米軍上陸時、約1,000人の波平住民が避難していました。読谷村史には、家財道具を持ち込んだ家族や、数か月にわたって避難生活を続けた人の証言も収録されています。

シムクガマでも住民は米軍を恐れていた

米兵が入口へ近づくと、シムクガマの洞内でも住民は「殺される」と考え、奥へ逃げようとしました。外へ出た後も、米軍車両に乗せられて海へ捨てられるのではないかと恐れた住民の証言が読谷村史に残っています。

米軍への恐怖はシムクガマにも共有されていました。結果を分けた条件の一つが、その恐怖と異なる情報を持つ人の存在でした。

比嘉平治と比嘉平三|ハワイ経験と英語が果たした役割

シムクガマにいた比嘉平治は当時72歳、比嘉平三は63歳でした。二人はハワイからの帰国者で、アメリカ社会で生活した経験があり、英語を話せました。

住民が洞窟の奥へ逃げようとする中、二人は自らのアメリカ生活経験をもとに米軍への投降を住民に勧め、外へ出るよう説得しました。英語能力は米兵との直接交渉にも使われました。

読谷村史によると、入口で米兵は英語が話せるか、日本兵がいるか、中に何人いるかを尋ねました。帰国者側は日本兵はいないこと、約1,000人がいることを答え、住民は順次ガマから出ました。全員が出るまで約1時間かかったと記録されています。

シムクガマでも砲撃による死者がいた

シムクガマは「約1,000人の命が救われたガマ」として伝えられ、1995年に波平区が建立した「救命洞窟之碑」も比嘉平治・比嘉平三への感謝を記しています。

読谷村史には米軍接近前後の砲撃で入口付近の住民4人が死亡した記録があります。それでも住民による集団死は起きず、多くの避難者が投降して生き残りました。

沖縄戦中に洞窟から出る民間人を写した米軍写真
沖縄戦中、洞窟から出る民間人。U.S. Army / Signal Corps Archive / Wikimedia Commons(Public Domain)

掲載写真は沖縄戦中に洞窟から出る民間人を記録した米軍写真で、シムクガマの記録写真とは別資料です。

二つのガマで結果が分かれた条件

米軍についての別の情報があった

シムクガマには、アメリカで生活した経験から戦時宣伝とは異なる米国社会の実像を知る帰国者がいました。

英語で米兵と直接交渉できた

比嘉平治・比嘉平三は、住民側の状況を米兵へ伝え、米兵の意図を住民へ説明する仲介者になりました。言語能力が情報の断絶を埋めました。

避難者集団の規模と洞窟の条件が違った

チビチリガマは約140人、シムクガマは約1,000人で、洞窟の規模、入口の状況、避難者の構成、米軍との接触過程も異なりました。二つの結果を一つの原因だけで説明すると、現地の条件差が抜け落ちます。

恐怖は両方に存在した

両方のガマで米軍への強い恐怖がありました。シムクガマでは、別の情報を提示し、米兵と交渉できる人物がいました。

海外移民経験が沖縄戦の現場で意味を持った

沖縄は近代以降、ハワイ、北米、中南米などへ多くの移民を送り出した地域です。移民経験者の帰郷は家族や地域の生活と結びついていました。

シムクガマでは、その移民経験が1945年4月の極限状況で具体的な情報資源となりました。比嘉平治と比嘉平三は、アメリカ社会を知る経験と英語を使い、住民の投降を仲介しました。移民史と沖縄戦が同じ場所で交差した例です。

戦後の記憶|平和の像と救命洞窟之碑

チビチリガマには「世代を結ぶ平和の像」、シムクガマには「救命洞窟之碑」があります。前者は83人の集団死とその背景を伝え、後者は比嘉平治・比嘉平三による説得と多くの住民の生存を記憶しています。

二つの碑は、同じ波平地区で起きた異なる経験を別々の言葉で残しています。現地では洞窟そのものだけでなく、戦後に地域がどのように出来事を記録したかも確認できます。

2026年現在の見学方法

チビチリガマは遺族会の意思により入壕禁止です。シムクガマも2026年8月1日から、読谷村観光協会による洞内入壕・暗闇体験を中止しています。シムクガマの平和ガイドは入口の「救命洞窟之碑」で解説する方式になっています。

読谷村観光協会の「自由に見学」という案内は、入口や慰霊碑などを予約なしで訪ねられる範囲を指します。洞内は自由入壕の対象外です。

平和ガイドは事前予約制で、直近の申込みは原則2週間前までと案内されています。2026年10月1日から料金改定が予定されているため、料金は申込時の公式案内が基準になります。

参考文献・確認先

  1. 読谷村観光協会「チビチリガマ・シムクガマ」
  2. 読谷村観光協会「シムクガマへの入壕(暗闇体験)について」
  3. 読谷村史『戦時記録』上巻「波平」
  4. 読谷村史『戦時記録』上巻「それぞれの体験」
  5. 読谷村史『戦時記録』下巻「慰霊の塔は語る」
  6. 読谷村「救命洞窟之碑を建立」
  7. 読谷村「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が除幕」