硫黄島の地下壕とは?18kmの地下要塞と栗林忠道の持久戦を解説

1945年に米海軍建設大隊が記録した硫黄島362A高地の日本軍地下トンネル網

東京都小笠原村の硫黄島(いおうとう)では、1945年2月から3月にかけて太平洋戦争でも特に激しい地上戦が行われました。

小笠原村によると、島には全長約18kmの地下壕があり、壕口は数千か所あったといわれています。

1945年に米海軍建設大隊が記録した硫黄島362A高地の日本軍地下トンネル網
硫黄島362A高地の日本軍地下トンネル網を示した1945年の米海軍図。U.S. Navy / Wikimedia Commons(Public Domain)

日本軍は地下壕、洞窟、砲台、機関銃陣地、トーチカ、指揮所、弾薬庫を相互につなぎ、上陸した米軍に対して地下から繰り返し攻撃する持久戦を行いました。

硫黄島はどこにある?

硫黄島は東京都小笠原村に属し、父島から南へ約280kmに位置します。北硫黄島、南硫黄島とともに火山列島を構成します。

小笠原村によると、戦前には約1,100人の島民が農業・漁業などを営み、硫黄採取、サトウキビ、コカ、レモングラスなどの産業もありました。

1944年、島民は強制疎開

戦争の激化で硫黄島が本土防衛の最前線となると、1944年夏に島民は本土へ強制疎開させられました。

小笠原村によると、軍属として徴用された男性103人が島に残り、そのうち82人が戦闘で死亡しました。

なぜ硫黄島が重要だった?米軍が想定した価値と戦後に分かった実像

硫黄島はマリアナ諸島と日本本土のほぼ中間に位置します。1944年以降、米軍はサイパン・テニアンなどからB-29を日本本土へ飛ばすようになり、その航路上にある硫黄島の軍事的価値が急速に高まりました。

米軍が攻略を決めた段階では、硫黄島の日本軍飛行場から戦闘機がB-29を迎撃できること、島の警戒施設が本土防空へ早期警報を送っていること、逆に島を占領すればP-51戦闘機の護衛基地や損傷したB-29の緊急着陸地として使えることが主要な理由として挙げられました。米統合参謀本部は1944年秋、この前提で硫黄島攻略を具体化しています。

ただし、戦後の米海軍・海兵隊史料は、この「早期警戒拠点」という評価をそのまま肯定していません。占領後の調査では、硫黄島のレーダーは本土防空に必要な精度で早期警報を与える能力を持っていなかったとされ、P-51によるB-29護衛も長大な航続距離と運用負担のため期待したほど実用的ではありませんでした。日本側も1945年初頭には、硫黄島飛行場を大規模航空作戦へ使う余力を急速に失っていました。

一方、占領後の飛行場がB-29の着陸地として使われたこと自体は事実です。したがって硫黄島の戦略価値は、「攻略前に米軍が想定した価値」と「占領後に実際に発揮した価値」を分けて考える必要があります。このずれは、硫黄島攻略の必要性と人的損失をめぐる戦後評価が現在まで議論される理由の一つです。

栗林忠道が1944年6月に着任|水際決戦から縦深持久戦へ

硫黄島防衛を指揮した陸軍中将・栗林忠道は1944年6月に着任しました。米軍の圧倒的な艦砲射撃と航空攻撃を前提に、従来の島嶼防御で繰り返されてきた「海岸で敵を撃退する」水際決戦を避け、地下陣地を利用して島の奥へ戦闘を長引かせる方針を強めました。

米海兵隊公式戦史が整理した最終防御方針では、上陸前の艦砲射撃に対して砲兵陣地をむやみに露呈せず、米軍が上陸して内陸へ進出した段階で集中射撃を浴びせる考えが示されています。海岸線へ大量の兵を並べれば、上陸前砲爆撃で壊滅する可能性が高かったためです。

また、従来の日本軍が多用した大規模な万歳突撃も抑制し、互いに支援できる地下陣地・トーチカ・砲座を最後まで保持することが重視されました。陣地が孤立しても地下連絡路を使って移動し、別の射撃口から再び攻撃することで、米軍に一つずつ陣地を攻略させる構想でした。

この戦い方では「敵を海へ追い返す」ことより、米軍の進撃を遅らせ、長期間にわたり人的損害を与えることが目的になります。硫黄島の地下壕は、単なる避難設備ではなく、この持久戦構想を実行するための中心インフラでした。

地下要塞化の設計・構造・建設

島全体を地下要塞化

日本軍は天然洞窟を利用しながら新たな地下坑道を掘り、兵員壕、指揮所、砲兵陣地、機関銃陣地、弾薬庫、物資庫、救護所などを地下へ配置しました。

地下施設は人が避難するだけの空間ではなく、地表の戦闘陣地をつなぐ移動・指揮・補給のネットワークでした。

全長約18km|計画では島全体を約27kmの地下道で結ぶ構想

小笠原村は、硫黄島に残る地下壕の全長を約18km、壕口を数千か所としています。これは一本の巨大トンネルではなく、天然洞窟、兵員壕、砲台壕、指揮所、弾薬庫、連絡坑など多数の地下施設を合わせた規模です。

米海兵隊の公式戦史は、日本軍がさらに大規模な「島内主要陣地を地下道で結ぶ計画」を進めていたと記録しています。計画上の総延長は約17マイル、約27kmで、北部の地下陣地群と南端の摺鉢山地区までを連結する構想でした。

ただし計画は完成していません。米海兵隊が1945年2月19日に上陸した時点で完成していた坑道は「11マイル以上」、約18kmとされています。この米軍記録の完成値と、小笠原村が現在示す全長約18kmはほぼ同規模です。硫黄島の「18km」は当初計画の全長ではなく、戦闘開始までに実際に構築された地下施設網の規模として理解できます。

地下施設には複数の出入口・階段・連絡坑が設けられ、一つの坑口が砲撃で封鎖されても別方向へ移動できるよう工夫されました。地表の砲座や機関銃陣地を地下からつなぐことで、兵員・弾薬・命令を露出せずに移動させることが持久戦の基盤となりました。

坑道建設は気温32~49℃、硫黄ガスの中で進められた

地下要塞化そのものも過酷な作業でした。米海兵隊公式戦史は、坑道工事に従事した日本兵が華氏90~120度、摂氏約32~49度の高温と硫黄ガスにさらされたと記録しています。場所によっては防毒マスクが必要で、作業班をわずか5分ほどで交代させなければならないこともありました。

硫黄島の火山岩は場所によって掘削しやすい一方、熱と火山性ガス、落盤、換気不足が工事を難しくしました。天然洞窟を拡張した区画もあれば、岩盤を手工具で掘り進めた区画、コンクリートで補強した指揮所や砲座もあります。地下要塞は同じ規格のトンネルを大量生産したものではなく、地質と用途に応じて構造が異なりました。

1944年12月8日以降、米軍の航空攻撃はほぼ連日となり、築城要員の一部は破壊された飛行場の修復にも回されました。地下壕を掘る作業と、空襲で損傷した滑走路を復旧する作業が同時進行していたため、約27kmの全島地下連絡網は完成しないまま米軍上陸を迎えました。

栗林司令部は地下約23m、通信施設には約70人が勤務

島北部に置かれた栗林忠道の司令部も、地下要塞化を象徴する施設でした。米海兵隊公式戦史によると、司令部は地表から約75フィート、約23mの地下にあり、大小の洞窟を約500フィート、約150mの坑道で結んでいました。

内部には栗林の作戦室と幕僚用のコンクリート区画があり、地上部には通信施設が設けられました。この通信施設は長さ約46m、幅約21m規模で、屋根厚約3m、壁厚約1.5mと記録されています。約70人の通信要員が交代勤務し、島内各陣地と司令部を結びました。

さらに北部の通信センターには、長さ約46m、幅約21mの大空間へ約150mの地下坑道で入る施設もありました。地下化は兵員を隠すだけではなく、指揮・通信・砲兵観測・補給を砲爆撃から守り、戦闘を継続するためのシステムとして設計されていました。

摺鉢山の地下陣地

島南端の摺鉢山にも地下陣地が張り巡らされました。米海軍戦史では、約2,000人の日本軍が配置され、一部は7層に及ぶ複雑な構造だったと記録しています。

1945年2月23日に米海兵隊が山頂を確保した後も、島北部を中心に戦闘は続きました。

上陸前の激しい砲爆撃

1945年2月17日の上陸前砲爆撃を受ける硫黄島と摺鉢山
1945年2月17日、米軍上陸前砲爆撃を受ける硫黄島。U.S. Navy / Wikimedia Commons(Public Domain)

米軍は上陸前から長期間の空襲と艦砲射撃を行いました。しかし米海軍戦史では、地下深くに造られ、入口を偽装し、天然洞窟を利用した日本軍地下施設の全貌を把握できなかったと記録しています。

地下化によってすべての陣地が無傷だったわけではありませんが、砲爆撃に対する生存性は大きく高まりました。

1945年2月19日、米軍上陸

1945年2月19日、米海兵隊が硫黄島へ上陸しました。日本軍は上陸部隊が海岸へ集まった段階で、砲兵、迫撃砲、機関銃による攻撃を始めました。

米軍は地下陣地を一つずつ攻略

地下陣地を航空爆撃だけで破壊することは難しく、米海兵隊は火炎放射器、爆薬、手榴弾、戦車、砲撃などを使って地下壕入口を一つずつ攻撃しました。

入口を封鎖しても別の出口から日本兵が現れる場合があり、地下トンネルによる陣地間の連絡が攻略を難しくしました。

地下生活は過酷だった

硫黄島には自然の淡水源がほとんどなく、日本軍は雨水を集める貯水設備や地下の貯水施設を整えました。それでも水不足は深刻でした。

高温、硫黄臭、換気不足、負傷者、物資不足、砲爆撃、入口の崩落などの中で地下生活が続きました。

日本軍戦死者21,900人

小笠原村は厚生労働省社会・援護局の調査に基づき、硫黄島の日本軍戦死者を21,900人としています。

村は、多くの兵士が米軍の火炎放射、注水、射撃、手榴弾攻撃などで地下壕の奥へ追い込まれて戦死したと推測しています。

戦闘は3月26日まで続いた

米軍は3月14日に島の占領を公式宣言しましたが、戦闘はその後も続き、米海軍戦史では3月26日に島を「secure」と宣言しています。

占領後の硫黄島|B-29の着陸地として実際に使われた

戦闘中から米軍は飛行場の復旧を急ぎました。1945年3月4日には、まだ島北部で戦闘が続くなか、B-29「Dinah Might」が第1飛行場へ緊急着陸し、給油後に再離陸しています。島が完全制圧される前から、飛行場がマリアナ諸島と日本本土の間の中継・退避地点として使えることが実証されました。

米海兵隊の公式資料では、終戦までに2,200機を超えるB-29が硫黄島へ着陸したとされています。故障や戦闘損傷を受けた機体だけでなく、燃料・機体状態などを考慮した予防的な着陸も含まれており、すべてが「硫黄島がなければ海へ墜落した機体」だったわけではありません。

一方、攻略前に期待されたP-51戦闘機の護衛基地としての価値は限定的でした。硫黄島から日本本土までの往復は長距離で、操縦者・整備・燃料の負担が大きく、1945年春には日本側の航空戦力自体も急速に弱体化していました。米海軍史は、硫黄島攻略の戦略的必要性について、戦後の結果を踏まえると現在も議論が残るとしています。

そのため、硫黄島の占領効果は「B-29護衛基地として決定的だった」と単純化せず、緊急・予防着陸地としての実用性、マリアナ基地への日本軍航空攻撃の排除、沖縄攻略前の側面確保など複数の効果に分けて評価する必要があります。

栗林忠道の最期

栗林忠道の最期には複数の記録・伝承があります。最終段階で指揮所を出て戦闘に加わり死亡したとされますが、遺体は確実に確認されておらず、日付や状況には史料差があります。

戦後も地下壕に遺骨が残った

小笠原村によると、1952年度から2023年度末までに収集された遺骨は10,652柱です。日本軍戦死者21,900人の約半数にあたり、現在も多数の遺骨が地下壕などに残るとみられています。

遺骨収集が難しい理由

地下壕は約18kmに及び、壕口は数千か所、米軍によって閉鎖された壕も多くあります。戦後の地形変化、火山活動、崩落も調査を難しくしています。

2026年現在も遺骨収集が続く

厚生労働省は2026年度も硫黄島で遺骨収集を実施しています。第1次は6月24日から7月9日、第2次は8月18日から9月4日に行われました。

2026年4月には、硫黄島で収容された遺骨1柱についてDNA鑑定で身元が判明し、遺族へ返還されることが発表されました。

現在、一般観光はできない

硫黄島は父島・母島のように一般観光客が自由に訪問できる島ではありません。旧島民の帰島も実現していません。

小笠原村や東京都は旧島民の墓参・里帰り事業などを実施していますが、一般観光客向けの定期船や自由上陸制度はありません。

硫黄島・北硫黄島・南硫黄島の周辺を船で巡るクルーズが行われることはありますが、硫黄島へ上陸するツアーではありません。

戦前の島民生活も残る歴史

硫黄島は大規模な戦場であると同時に、戦前に約1,100人が暮らした島でもあります。現在も旧島民が帰島できない状況が続いています。

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