小栗忠順(小栗上野介)は、江戸幕府の崩壊期に役職を離れて上野国権田村へ移り、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に処刑されました。その最期を理解するには、江戸での政治判断、権田村への移住、捕縛と処刑、地域に残る史跡を時系列で追う必要があります。
鳥羽・伏見の戦い後、小栗はなぜ罷免されたのか
1868年初頭、旧幕府側は鳥羽・伏見の戦いで敗北しました。小栗は抗戦を主張しましたが、徳川慶喜は恭順へ方針を転じます。小栗は幕府の要職を離れ、知行地の権田村に移りました。政策と人物の全体像は小栗忠順の人物ガイドで整理しています。
権田村での生活と屋敷工事
現在の群馬県高崎市倉渕町権田にあたる権田村では、小栗は東善寺を仮住まいとし、屋敷の建設や用水路の整備を進めました。こうした工事が追討側から軍事的な拠点づくりと疑われたことは、高崎市の史跡解説にも紹介されています。ただし、疑念が生まれた経緯と処刑を命じた政治的判断は分けて検討する必要があります。
閏4月5日の捕縛と翌日の処刑
慶応4年閏4月5日、小栗と家臣らが捕縛され、翌6日に水沼川原で処刑されました。処刑の日付は旧暦で記されるため、西暦換算した1868年5月27日と混同しないよう整理します。高崎市の文化財解説では十分な取り調べを経ずに処刑されたと紹介されています。処刑理由を単一の陰謀や人物間の私怨に断定することは、史料上慎重であるべきです。
処刑をめぐる論点
小栗が抗戦論を唱えた事実、権田村で屋敷工事を進めた事実、追討側が工事を警戒したという地域史の説明は、それぞれ性質が異なります。政治的な責任の所在や命令系統を論じる際は、同時代の公文書、後年の編纂史料、地域の伝承を区別する必要があります。
東善寺と小栗忠順の墓
東善寺には小栗忠順と関係者の墓や、小栗に関する資料を伝える施設があります。地域の史跡を巡る場合は、寺院の案内と高崎市の文化財情報を参照すると、墓所、旧屋敷跡、終焉の地を位置づけやすくなります。小栗の故地と横須賀の結びつきは、横須賀市と旧倉渕村の友好都市交流史にも受け継がれています。
『太政官日誌』の「糾問」――取り調べは本当に行われなかったのか
小栗忠順の最期は「取り調べもなく斬首された」と語られることがあります。一方、慶応4年の『太政官日誌』第25号には、高崎藩の届書の写しが収められ、追討側の原保太郎が「糾問」した旨が記されています。この語からは何らかの問いただしがあったことが読み取れますが、どのような質問を行い、小栗が何と答えたのか、質問や回答の具体的な内容を知るには、別の記録との照合が必要です。
同じ届書は、三ノ倉村での軍議、寺の裏手と表門からの兵隊の配置、主従の処刑、養嗣子・又一らのその後の処刑にも触れています。処刑の日付や人数を検討する際は、届書が記す行動の順序と、後年の史書・郷土史が採用する日付を区別する必要があります。
出典:アジア歴史資料センター「太政官日誌」資料群、『太政官日誌』慶応4年第25号(高崎藩届書写)。
東善寺には供養墓と本墓がある
東善寺の境内には小栗忠順父子と家臣らの供養墓があり、寺の裏山には小栗忠順の本墓があります。墓所を一か所と考えると、境内と裏山の史跡の関係が分かりにくくなります。また、倉渕町水沼の河原には終焉の地を示す顕彰慰霊碑が建ち、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」の碑文が刻まれています。墓所と処刑地は別の場所です。
出典:高崎市「小栗上野介の関連史跡」。
なぜ小栗の最期が語り継がれたのか
小栗が推進した横須賀製鉄所などの近代化事業は、幕府崩壊後も継承されました。その一方で、本人は新政府成立の過程で命を落としました。この対照が、幕末の政治的敗者と近代化の担い手という二つの側面から小栗を再評価する契機となっています。
関連する記事
参考資料
高崎市の文化財・観光資料、国立国会図書館の小栗関係資料、幕末の公文書・編纂史料を基本資料とします。処刑の命令系統や政治的動機は、史料による確証の範囲を区別して記述します。

