山口県周南市の大津島に、海軍の魚雷整備工場と海上の発射試験場を結んだ長さ247mのトンネルが残っています。
現在「回天運搬用トンネル」と呼ばれている地下道です。

トンネルの高さは約4m。戦前、日本海軍の九三式酸素魚雷をトロッコで運ぶために造られました。
戦争末期になると魚雷発射試験場は、人が操縦して敵艦へ体当たりする特攻兵器「回天」の訓練基地へ転用され、トンネルも回天を整備工場から訓練基地へ運ぶ地下輸送路として使われました。
現在もトロッコのレール跡、水抜き穴、複線区間、当時の坑道壁面が残っています。終戦時の資料には、複線区間の北側レールに整備済みの回天3基を常置していたことも記録されています。
大津島はどこにある?
大津島は、山口県周南市の徳山港から南西約10kmの瀬戸内海に浮かぶ島です。現在は徳山港から大津島巡航のフェリー・旅客船で渡ります。
島には回天記念館、回天運搬用トンネル、回天訓練基地跡、魚雷見張所跡、旧整備工場関連施設、出撃桟橋跡など、旧海軍の魚雷・回天関連施設がまとまって残っています。
もともとは「回天基地」ではなかった
大津島の軍事施設は、最初から人間魚雷「回天」のために造られたものではありません。周南市によると、もともとは九三式酸素魚雷の発射試験場として整備されました。
呉海軍工廠水雷部で製造された魚雷を大津島へ運び、海上へ発射して長距離航走の性能を確認していました。戦争末期、既存施設が回天の訓練基地へ転用されます。
1939年の魚雷発射試験場が回天訓練基地の前身
土木学会の選奨土木遺産資料によると、海上の発射訓練施設は1939年に海軍省の魚雷発射試験場として建設されました。1944年に突然回天基地を海上へ造ったのではなく、長射程魚雷を試験するための既存施設を、戦争末期に回天訓練へ転用したものです。
現在残る発射訓練基地は鉄筋コンクリート造2階建てで、海中の基礎には8個の大型ケーソンが使われています。土木学会によると、発射基地部のケーソンは1基あたり幅7.5m、長さ12m、高さ10m、重量約700tです。トンネル出口から基地へ延びる通路部にも5個のケーソンが使われ、こちらは幅4m、長さ5m、高さ5.2m、重量約72tとされています。
これらのケーソンは現地で製作され、海中へ据え付けられました。魚雷を海面へ降ろすためのクレーン、作業場、トンネルからの搬入路を一体化した施設で、単なる桟橋とは異なります。重量8t前後の回天を陸上整備工場から海上へ安全に移し、訓練のたびに回収・再整備するための土木施設でした。
なぜ大津島が魚雷試験場になった?
九三式酸素魚雷は、日本海軍が開発した長射程魚雷です。周南市公式資料によると、従来の呉周辺の試験海域では長距離航走を十分に確認することが難しくなりました。
呉から魚雷を海上輸送しやすいこと、長距離航走を確認できる海域があること、新兵器の機密を保ちやすいことなどから大津島が選ばれました。1938年から発射試験場の工事が本格化します。
運搬用トンネルの建設時期・構造・運用
回天運搬用トンネルはいつ造られた?
周南市の資料には建設時期について表現差があります。回天記念館の解説では1937年から掘削開始、2025年更新の観光・戦後80年事業ページでは「1940年以降に工事が開始されたと思われる」としています。
魚雷発射試験場の整備に伴って戦前に建設され、周南市の最新案内では1940年以降に工事が始まったと考えられています。
長さ247m、高さ約4m
現在の周南市公式ページでは、回天運搬用トンネルの規模を長さ247m、高さ約4mとしています。整備工場側から発射試験場まで山を貫く地下道です。
路面は戦後にコンクリートで埋め戻されていますが、側壁や上部には当時の状態が残り、水抜き穴も確認できます。人員避難用の防空壕ではなく、重量物をトロッコで輸送する軍事インフラでした。
回天はトロッコで運ばれた
回天一型は九三式酸素魚雷を基礎とする大型兵器で、全長約14.75m、重量約8tとされます。整備を終えた回天はトロッコへ載せ、トンネル内のレールを移動しました。
現在レールそのものは残っていませんが、路面に敷設位置が明瞭に残っています。
西側出口付近は複線だった
トンネルの西側出口付近では、トロッコ用レールが1本から2本へ分かれていました。周南市が紹介する終戦時の資料では、北側のレールに整備を終えた回天3基を常置していました。
訓練基地に置かれた回天が故障した場合、すぐに代替機へ交換して訓練を続けるための予備機待機区画でした。
搭乗員と整備員も一緒に歩いた
周南市の公式解説では、トンネル入口から搭乗員と担当整備員が一緒に訓練基地まで歩いたと説明しています。現在この地下道を歩くと、整備工場から海上訓練へ向かう当時の動線をたどれます。
「回天」とは?
回天は、太平洋戦争末期に日本海軍が使用した有人魚雷です。搭乗員が内部へ入り、自ら操縦して敵艦へ突入することを前提とした特攻兵器でした。
九三式酸素魚雷の機関部などを利用し、人が入る操縦区画と大型弾頭を組み合わせています。
1944年9月、大津島で訓練開始|最初の回天訓練基地
1944年9月1日、大津島に回天訓練基地が開設され、第一特別基地隊第二部隊が編成されました。発案者の黒木博司大尉、仁科関夫中尉もここに入り、当初の訓練搭乗員は34人でした。実際の海上訓練は9月5日に始まります。
募集要項では訓練期間はおおむね3か月とされました。ところが志願・選抜された搭乗員が増えると大津島だけでは収容できなくなり、1944年11月25日に光基地、1945年3月1日に平生基地、4月25日に大分県大神基地が開隊します。全国4基地で回天搭乗訓練を受けた兵士は最終的に1,375人に達しました。
周南市の集計では、内訳は海軍兵学校89人、海軍機関学校32人、海軍水雷学校9人、予備学生210人、甲種飛行予科練習生935人、乙種飛行予科練習生100人です。実戦・訓練などで戦没した回天搭乗員は106人とされています。回天は一部の特殊な士官だけが扱った兵器ではなく、戦争末期に予科練出身者を中心とする多数の若年兵を組織的に訓練する兵器体系へ拡大しました。

現在、当時の回天訓練施設がまとまった形で残るのは大津島で、周南市は「全国で唯一残っている人間魚雷『回天』の訓練基地跡」と説明しています。
もともとは酸素魚雷の発射試験場
現在「回天訓練基地跡」と呼ばれるコンクリート施設も、回天専用に新設されたものではありません。もともとは九三式酸素魚雷の発射試験場でした。
戦争末期、その既存施設を利用して回天訓練が行われました。
どうやって回天を海へ降ろした?
発射試験場にはクレーンが設置され、トンネルから運ばれた回天を吊り上げて海面へ降ろしました。搭乗員は回天に乗り込み、沖合へ出て訓練を行いました。
訓練は5つの水域で段階的に行われた
大津島の訓練は、単に基地沖を往復するだけではありません。周南市が紹介する訓練水域は5段階に分かれ、直進、潜航・浮上、島や岩礁を避ける変針、狭水道の通過、潜水艦からの発進まで、実戦で必要になる操作を順番に身につける構成でした。
- 第1訓練水域:整備工場前から蛇島方向へ片道約5,000mを往復し、潜航と浮上を繰り返す基礎訓練
- 第2訓練水域:馬島・洲島の南側を通り、徳山湾入口の狭い水道を抜けて戻る航法訓練
- 第3訓練水域:訓練基地正面の野島を一周する変針訓練
- 第4訓練水域:大津島北端を回り、島・岬・暗礁を避けながら長距離を航走する狭水道訓練
- 第5訓練水域:実際に潜水艦甲板へ回天を搭載し、沖合で発進する訓練
とくに第4水域は、環礁や港湾へ侵入して停泊艦船を狙う実戦を想定したコースでした。潜望鏡で短時間だけ海面を確認し、潜航・浮上と変針を繰り返して目標へ近づくため、搭乗員には地形把握と推測航法が求められました。
訓練2日目に黒木博司・樋口孝大尉が殉職
訓練の危険性は開始直後に現れました。1944年9月6日、訓練開始2日目に黒木博司大尉が指導、樋口孝大尉が操縦する一号艇が徳山湾で訓練に出ました。午後は風とうねりが強まり、基地司令官の板倉光馬少佐は一度中止を指示しましたが、黒木は実戦では悪天候でも敵が待ってくれないとして実施を強く求めました。
午後5時40分に発進した一号艇は、波の影響で姿勢が大きく崩れ、そのまま水面下へ沈みました。追走艇は荒天で艇を見失い、夜通し捜索が続けられます。翌朝、海面に上がる気泡から位置が判明し、回天は水深約18mの海底に着底していました。艇内の酸素が尽き、黒木と樋口は死亡していました。
黒木は酸素が失われるまでの間、ノートや艇内壁面に約2,000字に及ぶ事故状況と改良点を書き残しました。周南市回天記念館はこの手帳のレプリカを展示し、事故がその後の回天改良と訓練方法に影響したことを伝えています。回天は「出撃時だけ命を失う兵器」ではなく、試作・整備・訓練の段階から重大な危険を伴う兵器でした。
1944年11月8日、最初の菊水隊12基が出撃
最初の回天特別攻撃隊「菊水隊」は1944年11月8日に大津島を出撃しました。伊36潜水艦、伊37潜水艦、伊47潜水艦の3隻にそれぞれ4基、合計12基の回天を搭載し、西カロリン諸島ウルシー泊地とパラオ諸島コッソル水道を目標としました。搭乗員には回天開発者の一人、仁科関夫中尉も含まれていました。
大津島から作戦海域まで回天自身が航行したわけではありません。回天は母艦となる潜水艦の甲板上へ固定され、敵艦隊へ接近した段階で搭乗員が移乗し、発進しました。通常魚雷で攻撃できる距離まで近づけるか、回天を発進させるかは潜水艦長の判断に委ねられていたと周南市は説明しています。
その後、1945年8月8日までに全国4基地から9個の回天隊が編成され、延べ153人が出撃しました。周南市の集計では、潜水艦から出撃した搭乗員105人のうち、回天戦で戦死したことが確認される45人、母艦未帰還のため戦死状況を確認できない35人、再訓練中に殉職した2人が死亡し、23人が母艦とともに帰還しました。
搭乗員全体の戦没者は106人で、内訳は出撃等87人、訓練事故15人、基地空襲2人、戦後の自決2人です。さらに回天を運んだ潜水艦側にも多数の戦死者が出ており、土木学会は回天隊員・整備員らを含む犠牲者を145人と紹介しています。回天の作戦は、1人乗り兵器の搭乗員だけで完結せず、潜水艦乗員、整備員、基地要員を含む大きな人的システムを必要としました。
回天記念館
大津島には、回天の歴史を伝える周南市回天記念館があります。

現在の記念館は回天搭乗員の宿舎跡・練兵場跡に建ち、搭乗員の遺影、遺書、遺品、回天関係資料、開発資料、模型、九三式酸素魚雷関係資料などを展示しています。
現在の回天記念館
2026年9月1日更新の周南市公式情報では、開館時間は8:30~16:30。休館日は毎週水曜日(水曜日が祝日の場合は翌日)と12月29日~1月3日です。
入館料は大人310円、30人以上の団体は250円、18歳以下の学生・幼児は無料です。強風や濃霧で巡航船が運休する場合は臨時休館することがあります。
回天運搬用トンネルは現在も歩ける
トンネル内部には当時の写真パネル、解説展示、音声ガイドがあります。周南市の見学ルートでも回天運搬用トンネルは主要な見学ポイントとして案内されています。
2006年、土木学会選奨土木遺産に認定
大津島の旧回天発射訓練基地は2006年度、土木学会選奨土木遺産に認定されました。選奨理由は、太平洋戦争末期に造られた回天発射訓練基地が全国で唯一まとまって残り、戦争遺産として貴重であることです。
土木遺産として評価されている点は、回天という兵器の記憶だけではありません。海中ケーソン、鉄筋コンクリート造の発射施設、トンネル、通路、魚雷整備工場跡など、兵器を試験・輸送・発射するための土木システムが一体で残ることにあります。特攻兵器の歴史と近代土木技術の双方を同じ遺構から検討できる珍しい事例です。
戦後、大津島の多くの軍施設は解体されましたが、海上の発射訓練基地は残されました。現在は回天記念館、運搬用トンネル、発射訓練基地跡、危険物貯蔵庫、点火試験所、変電所跡などを歩いて確認でき、基地全体の動線を地形の中で追うことができます。
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