正保元〜2年(1644〜1645)ごろの「正保年中江戸絵図」で江戸城の東から南東へ目を移すと、現在の日本橋・京橋・銀座・八丁堀・新川・湊にあたる市街地が、水路と海に沿って広がっています。日本橋や京橋はすでに江戸の主要な橋となり、銀座では銀貨鋳造に関わる組織が置かれ、鉄砲洲には江戸湊の船が出入りしていました。
現在の築地本願寺、築地場外市場、旧築地市場の一帯には遠浅の海が広がり、浜離宮恩賜庭園もまだ造られていない時代です。正保図は、明暦3年(1657)の大火とその後の大規模な埋め立て・都市改造より約12〜13年前の東京湾岸を伝えています。
正保年中江戸絵図そのものの成立年代や全図の特徴は「正保年中江戸絵図とは?」、江戸城と大手門前の武家地は江戸城編と大手町・丸の内編で詳しく紹介しています。
日本橋・京橋・銀座・鉄砲洲――水路が街の骨格だった
現在の中央区では道路と地下鉄が移動の骨格になっていますが、正保期の市街地では川・堀・河岸がそれと並ぶ重要な交通路でした。日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀、亀島川がつながり、その先に江戸湾が広がっています。
江戸城へ運ばれる建築資材、米、魚、野菜、薪炭など大量の物資は船で運ぶのが効率的でした。水路沿いには荷揚げのための河岸や商人・職人の町が形成され、湾岸には幕府の船を扱う施設も置かれました。現在の日本橋から銀座、新川、湊へ続く街路を正保図に重ねると、埋め立てられた水路の多さが際立ちます。
日本橋――五街道と魚河岸がつくった江戸の中心
日本橋は慶長8年(1603)に架けられ、翌年には東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道の起点となりました。正保期にはすでに、江戸から全国へ延びる陸上交通の基準点です。現在の橋は明治44年(1911)完成の石造アーチ橋ですが、江戸初期以来の位置と名称を受け継いでいます。
橋の周辺には商業機能も集まりました。中央区の年表では、元和2年(1616)に大和屋助五郎が本小田原町、現在の日本橋室町一丁目付近で魚市場を開いたとされています。後の日本橋魚河岸です。江戸湾や近海から届いた魚がここで取引され、江戸の人口増加とともに巨大な市場へ発展しました。
日本橋魚河岸は関東大震災後に築地へ移り、さらに平成30年(2018)には豊洲市場へ移転します。正保図の日本橋を起点にすると、日本橋魚河岸から築地市場、豊洲市場へ続く東京の食市場の移動も一つの流れとしてたどれます。
京橋――東海道と船入堀が交わる商人・職人の町
京橋は、日本橋とほぼ同じ慶長8年(1603)ごろに架けられたと考えられています。大川から八丁堀へ続く船入堀である京橋川に架かり、東海道の街路が橋を渡って南へ延びました。江戸市中でも格式の高い橋で、日本橋・新橋とともに欄干へ擬宝珠が付けられていました。
周囲には商人や職人が集まり、京橋川は物資の集散路となりました。後世には竹河岸や大根河岸が発達します。大根河岸の青物市場は寛文2年(1662)ごろの成立と伝わるため、正保図の時点ではその前段階です。1640年代の京橋は、後に巨大な市場や河岸が成長する水運軸をすでに備えていました。
中橋南地――猿若座から始まった江戸歌舞伎
現在の京橋一丁目付近にあたる中橋南地では、寛永元年(1624)に猿若勘三郎が猿若座を開きました。中央区は、この興行を江戸歌舞伎の発祥としています。猿若座は、後に江戸三座の筆頭となる中村座につながる劇場です。
猿若座は寛永9年(1632)に江戸城に近い中橋南地から禰宜町、現在の日本橋堀留町方面へ移りました。その後、慶安4年(1651)に堺町へ移り、二代目勘三郎の時代に中村座の名が定着します。正保元年(1644)は、中橋で江戸歌舞伎が始まって20年、猿若座がこの土地を離れて約12年後にあたります。
銀座――新両替町に置かれた銀貨の「銀座」
現在の銀座二丁目付近には、慶長17年(1612)に駿府から銀貨鋳造に関わる「銀座」が移されました。江戸時代の町名は新両替町で、「銀座」は組織・役所に由来する通称でした。銀座が正式な町名となるのは明治2年(1869)です。
正保図が描く1640年代には、現在の世界的な商業地名「銀座」の由来となった機関がすでにこの場所にありました。江戸城から東海道へ続く主要街路と水路に近く、貨幣・商業・物流が重なる区域です。
三十間堀――現在の銀座を南北に貫いていた水路
三十間堀は慶長17年(1612)、京橋川から汐留川へ通じる堀として開削されました。幅が約30間、約55メートルあったことが名の由来です。現在の中央通りと昭和通りの間を南北に流れ、銀座の町並みの東側を区切る大きな水路でした。
文政11年(1828)には幅が狭められ、戦後の昭和27年(1952)までに埋め立てられました。現在は道路と建物が並ぶ場所ですが、正保図では銀座の地形を理解する重要な目印です。
木挽町――江戸城を造った職人町から芝居町へ
木挽町の名は、江戸城造営に必要な材木を挽く木挽職人を住まわせたことに由来します。歌舞伎座の資料では、慶長11年(1606)に江戸城造営関係の鋸職人が集住した土地とされています。現在の銀座東側、歌舞伎座周辺です。
木挽職人は大鋸で丸太を板材へ加工する専門職です。巨大な江戸城と城下町を建設するため、大量の木材を水運で運び込み、その加工に携わる職人が水辺に近い場所へ集められました。木挽町という地名そのものが、江戸初期の都市建設を支えた職人町の記憶です。
山村座――正保期に始まった木挽町の歌舞伎
木挽町では正保期に歌舞伎興行が始まります。山村座の創設年には寛永19年(1642)説と正保元年(1644)説が伝わり、歌舞伎座の資料にも両説が紹介されています。いずれの伝承でも、正保年中江戸絵図が描く時代は山村座が生まれた直後です。
その後、万治3年(1660)には森田座も木挽町に開場します。江戸城造営を支えた木挽職人の町は、17世紀中頃から芝居町としての顔を持つようになり、その文化は現在の歌舞伎座へつながっています。
八丁堀――正保期には寺町の姿が残る
八丁堀は、江戸初期に造成された市街地と堀に由来する地名です。後世には町奉行配下の与力・同心の町として知られますが、正保期の景観を考える際には寺町としての性格が重要です。
中央区の発掘調査によると、現在の八丁堀から日本橋茅場町一帯は、明暦3年(1657)の大火以前には多数の寺院が密集する寺町でした。大火後の都市再編で寺院の移転が進み、与力・同心の組屋敷や町屋が広がっていきます。時代劇で知られる「八丁堀の旦那」の町並みは、正保図より後の都市改造を経て形づくられたものです。
霊岸島――現在の新川に大寺院・霊巌寺があった
現在の新川一〜二丁目にあたる一帯は、正保期には霊岸島と呼ばれていました。寛永元年(1624)、僧・霊巌が埋め立てを行い、浄土宗の霊巌寺を建立したことが地名の由来です。正保図には寺の大きな境内が描かれています。
霊巌寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河へ移転しました。現在の新川から大寺院の姿が消えたのは、この大火後の都市再編によります。
現在の「新川」はまだない
現在の町名「新川」の由来となった水路は、万治年間(1658〜1660)に開削されました。正保図が描く時代より後の成立です。霊巌寺の移転とほぼ同時期に土地利用が変わり、のちに川名が町名へ受け継がれます。
御船手・向井将監家――江戸湊を守った幕府水軍の家
霊岸島付近には「御船手 向井将監」と読める表記があります。向井将監家は、単なる一武家の屋敷名ではなく、徳川幕府の水軍・船舶行政を担った家です。「将監」は人名ではなく、向井家が代々用いた呼称として定着しました。
武田水軍から徳川水軍へ
向井家の祖・向井正綱は武田氏の水軍に連なる人物で、武田氏滅亡後に徳川家康へ仕えました。相模国三浦を拠点に船奉行として活動し、その子の向井忠勝が家の地位を大きく高めます。
忠勝は大坂の陣で水軍を率いて功績を挙げ、父の遺領を継いだ後、寛永2年(1625)には新田開発分を含め六千石余を領する大身旗本となりました。向井家の系譜資料では、忠勝が「将監」の称を最初に用いた人物とされます。家光の時代には向井家が御船手の中でも特別な地位を持ち、将監の呼称と職務が後代へ受け継がれました。
戦う水軍から、幕府の船と江戸湾を管理する役へ
戦国期の水軍は軍船を率いて戦う役割が中心でしたが、天下泰平の江戸時代には仕事の比重が変わります。幕府船の管理、将軍の船遊びや川御成への対応、廻船の監督など、水上交通と幕府船を統制する役割が大きくなりました。幕末の向井家当主の回想でも、向井家は複数の御船手頭の中で、廻船調べや将軍の川御成に際して他の御船手を指揮する特別な家だったと述べています。
初代将監・忠勝は寛永18年(1641)に没し、正保図の時期にはすでに次代へ移っています。地図の「向井将監」は、正保元〜2年の特定の一人を紹介するより、御船手を世襲した向井将監家の拠点として読むと役割が明確になります。
霊岸島の番所と将監河岸
向井家は亀島川河口に近い霊岸島にも御船手の番所・役屋敷を持ちました。後世、この付近の亀島川沿いは「将監河岸」と呼ばれます。江戸湾と日本橋川・亀島川を結ぶ水際に御船手の拠点を置く配置は、船を扱う役職に適したものでした。
正保図で霊巌寺の近くに「御船手 向井将監」が見えることは、霊岸島が寺院の島であると同時に、江戸城東側の水上交通と港湾警備に関わる場所だったことを伝えています。
鉄砲洲――全国の船が集まる江戸湊
鉄砲洲は、現在の湊・入船・明石町方面にあたる水辺です。江戸初期の海岸線に近く、亀島川から隅田川・江戸湾へ出る船の動線上にありました。諸国から江戸へ入る廻船が集まり、荷を問屋へ運ぶ江戸湊の一角として発展します。
「鉄砲洲」の由来には、幕府鉄砲方が大筒の試射を行ったことに結び付ける説や、海へ突き出した砂洲の形が鉄砲に似ていたとする説があります。いずれにしても、正保期にはすでに江戸湾岸の地名として使われていました。
鉄砲洲稲荷――船乗りが拝んだ湊の神社
鉄砲洲稲荷神社は、江戸時代には現在地より約100メートル北北東、稲荷橋の南詰付近にありました。江戸湊へ入る船から近く、諸国の廻船の船乗りたちから海上守護の神として信仰されました。
後世の『江戸名所図会』にも、社の前へ多くの船が入津し、積荷を問屋へ運ぶ港の景観が描かれています。正保図の鉄砲洲と御船手の配置を合わせると、この一帯が江戸の海の玄関だったことが分かります。
正保期には築地がまだない――現在の築地本願寺は海の中
正保年中江戸絵図を現在の地図と比べたとき、最も大きな違いの一つが築地です。中央区によると、現在の築地は明暦3年(1657)の大火後に埋め立てられた土地です。正保元〜2年(1644〜1645)には、現在の築地本願寺、築地場外市場、旧築地市場方面のかなりの範囲が海でした。
現在は銀座・築地・浜離宮が連続した陸地ですが、1640年代の海岸線は現在より大きく内陸側にあります。正保図で鉄砲洲の先に広がる青い水面は、後に埋め立てられて築地となる場所を含んでいます。
西本願寺はまだ築地にない
正保期の西本願寺江戸別院は、元和3年(1617)に創建された浅草御門内の横山町二丁目南側にありました。国立公文書館も、正保年中江戸絵図では西本願寺が築地移転前の浜町側に描かれていると説明しています。現在の築地本願寺の場所は、その時点では海でした。
転機は明暦3年(1657)の大火です。江戸別院が焼失すると、幕府から再建地として与えられたのは木挽町裏、八丁堀沖の遠浅の海でした。佃島の門徒たちが埋め立てに協力し、万治元年(1658)には仮御堂が建てられました。「築地」という地名は、海を埋め立てて土地を築いたことに由来します。
正保元年にできた佃島が、後の築地造成を支えた
佃島は、摂津国佃村などから移住した漁師たちが隅田川河口の干潟を埋め立て、正保元年(1644)に築いたと伝わります。正保年中江戸絵図の年代とほぼ同時です。
その約13年後、明暦の大火で西本願寺が焼けると、佃島の門徒たちが新しい寺地の埋め立てに尽力しました。現在の築地本願寺境内には、佃島初代名主・佃忠兵衛の報恩塔が残り、築地造成と本願寺再興に佃島の人々が関わった歴史を伝えています。
浜離宮もまだない――正保期の南端は鷹狩場と海辺
現在の浜離宮恩賜庭園にあたる土地は、正保期には将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。庭園の成立はその後です。
承応3年(1654)、四代将軍家綱の弟・松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷を築きます。正保元年(1644)から約10年後です。さらに綱重の子・綱豊が六代将軍家宣となると将軍家の別邸「浜御殿」となり、後世の浜離宮へつながりました。
1644年から十数年で海岸線と町の役割が変わった
正保期の日本橋・京橋では商業地が成長し、銀座には銀座役所、木挽町には職人町と新しい芝居文化、八丁堀には寺町、霊岸島には霊巌寺と御船手、鉄砲洲には江戸湊がありました。その南東に広がる海は、1650年代後半から埋め立てが進みます。
- 1644年:佃島が成立。築地はまだ海。
- 1654年:松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷を築く。
- 1657年:明暦の大火。西本願寺・霊巌寺などが焼失。
- 1658年:西本願寺が築地の新寺地に仮御堂を建立。築地造成が進む。
- 1658〜1660年ごろ:霊岸島で新川が開削される。
- 1660年:木挽町に森田座が開場。
現在の日本橋・銀座・築地を一続きの都心として見ると、この変化は見えにくくなります。正保年中江戸絵図では、商業都市の中心と江戸湾の海岸線がすぐ隣り合い、その境界が十数年のうちに大きく作り替えられていく直前の姿を確認できます。

