海上自衛隊館山航空基地のすぐ南側、館山市宮城の赤山には、総延長約1.6kmの地下坑道が残っています。正式名称は館山海軍航空隊赤山地下壕跡。太平洋戦争末期、館山海軍航空隊の基地機能を空襲から守るために使われた軍用地下施設で、現在は館山市が所有する市指定史跡です。
2004年から長く一般公開されてきましたが、2023年8月15日に壕内のモルタル剥離などが確認され休壕しました。2024年度の改修を経て2025年4月1日に公開を再開したものの、同年11月6日に見学ルートで再び崩落・剥落が確認されました。2026年9月2日現在も安全調査のため休壕中で、再開日は決まっていません。

赤山地下壕とは|館山海軍航空隊の地下1.6km
館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、館山市宮城字寺下にある市指定史跡です。指定日は2005年1月27日、所有者は館山市です。館山市は、全長約1.6kmで全国的にみても大規模な地下壕と説明しています。
坑道は網の目のように延び、壕と壕の間隔は5~10mです。館山市の説明では、全国各地の大規模地下壕は一般に10~20m以上の間隔をとる例が多く、赤山地下壕は密に掘られています。見学公開されてきたのは1.6kmすべてではなく、その一部です。

「防空壕」と呼ばれますが、住民避難用の小規模な壕とは性格が異なります。飛行場に付属する発電・整備・治療などの機能を地下へ移し、基地を動かし続けるための軍用地下施設でした。

なぜ館山に海軍航空基地ができたのか
関東大震災と館山湾沿岸の隆起
館山の軍事拠点化には地形の変化が関係しています。1923年の関東大震災で房総半島南部は大きく隆起し、館山湾沿岸では海岸線の形が変わりました。海軍は隆起した海岸部と埋め立て地を利用して飛行場を整備し、東京湾入口に航空基地を置く条件を整えました。
1930年、館山海軍航空隊が開隊
1930年、館山海軍航空隊が海軍5番目の実戦航空部隊として開隊しました。館山市資料では、1939年には九七式艦上攻撃機を中心に124機を擁し、中国方面への航空機供給にも関わったとされています。太平洋戦争後半には、東京・東京湾と太平洋岸を守る航空基地としての性格が強まりました。終戦時の提出資料には、零式艦上戦闘機や紫電など41機が残っていたと記録されています。
東京湾入口に広がった海軍施設
館山に集まったのは航空隊だけではありません。航空機の修理や部品補給を担う第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを扱う横須賀軍需部館山支庫、掩体壕、高射砲陣地、洲ノ埼海軍航空隊、館山海軍砲術学校など、航空・補給・防衛を支える施設が館山一帯に置かれました。
館山全体が海軍航空・補給・東京湾防衛の拠点になった結果、空襲で地上施設が損傷しても基地機能を維持するため、重要設備を地下へ移す必要が生まれました。赤山地下壕はこの基地地下化の中で位置づけられます。同じ旧日本海軍の地下施設でも、日吉台地下壕は連合艦隊司令部を中心とする指揮中枢、赤山地下壕は館山海軍航空隊の基地機能を守る大規模地下施設という違いがあります。
赤山地下壕はいつ造られたのか
建設時期には複数の見方があります。館山市は、1930年代半ば頃から工事が始まったとする説を紹介しつつ、同規模の大規模地下壕が1941年の太平洋戦争開戦前に造られた例はなく、軍が本格的に大規模防空壕を造り始めるのは1942年以降だったと整理しています。
さらに、建設に関わった旧館山海軍航空隊兵士の複数の証言から、館山市は本格的な建設工事を1944年以降としています。工事は1945年8月15日の終戦まで続き、地下壕は未完成のまま残りました。
一方、赤山近くで育った高橋博夫は、開戦以前からトロッコを使った地下工事を見たと証言しています。安房文化遺産フォーラムなどの地域研究では、戦前から何らかの掘削や地下施設建設が進んでいた可能性も検討されています。館山市は1944年以降の本格建設と整理し、地元にはそれ以前からの掘削を伝える証言が残っています。
地下には何があったのか|発電所・格納庫・治療所
地下壕の用途は、防衛研究所所蔵の「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」から具体的に確認できます。赤山地下壕の位置には「館空自力発電所」「工作科格納庫」「館空応急治療所」と記されています。
- 館空自力発電所:外部電力が止まっても基地機能を維持するための発電設備です。
- 工作科格納庫:航空機の整備・工作に関係する物資や機能を地下へ移す施設です。
- 館空応急治療所:空襲や戦闘で出た負傷者を応急処置する場所です。
館山市は、坑内に発電施設の跡が残ることに加え、終戦間際に地下壕で館山海軍航空隊の事務を行ったという関係者証言、病院施設があったという証言も紹介しています。基地を動かす電力、整備、医療、事務の一部が地下へ移されていたことが分かります。
地域研究では司令部、戦闘指揮所、燃料庫、兵器庫などの可能性も論じられています。公的資料で直接確認できる発電所・工作科格納庫・応急治療所と、証言や研究から検討されている用途は分けて考える必要があります。

米軍は館山飛行場を直接攻撃していた
地下化が進んだ1945年、館山飛行場は米海軍空母機の直接攻撃対象になりました。2月17日、空母USS WaspのAircraft Action Report No. 2-D-79には、任務として「Attack Tateyama Airfield」と明記されています。
7月30日にも、USS Bon Homme RichardのAircraft Action Report No. 8は、任務を「Strike VS Shimoda, Atami – Zipper on Tateyama」とし、攻撃対象にTateyamaを記録しています。米海軍の最終公式報告でも、7月30日に高速空母部隊が東京周辺を再び攻撃したことが記されています。
赤山地下壕の本格建設は館山市の整理では1944年以降です。地下化は1945年2月の攻撃より前に始まっていました。その後、実際に空母艦載機が館山を攻撃し、基地機能を地下へ移す必要性が現実のものになりました。
終戦直後、米海軍は館山の地下施設を調査した
敗戦後、米海軍は日本海軍の技術と軍事施設を組織的に調査しました。U.S. Naval Technical Mission to Japan(米海軍技術調査団、USNTMJ)は1945年8月14日に設置され、同年9月から1946年11月にかけて調査を進め、185の報告書を刊行しました。
1946年1月15日付のReport X-31 “Bombproof Construction in Japan”は、日本の耐爆・地下構造物を扱った報告書です。調査対象にはTateyama Air Baseが含まれ、Figure 24には“Aircraft Tunnel at Tateyama Air Base”、Enclosure Kには“Typical Section, Tunnel Revetment at TATEYAMA airfield”というトンネル覆工の標準断面図が収められています。
米海軍技術調査団が終戦直後の館山航空基地で航空機用トンネルを撮影し、トンネル断面も記録したことは確認できます。X-31に載る「Aircraft Tunnel」と、現在「赤山地下壕」と呼ばれる約1.6kmの坑道網の具体的な対応関係は、公開資料だけで単純に結びつけずに扱う必要があります。
1945年9月、今度は米軍が館山へ上陸した
日本の降伏後、館山は攻撃目標から占領拠点へ変わります。米海軍公式戦史は、1945年9月1日に米海兵隊が館山海軍基地を占領したと記録しています。正式な降伏文書が戦艦ミズーリ号上で調印されたのは翌9月2日です。
9月3日には112th Cavalry Regimental Combat Team(第112騎兵連隊戦闘団)を中心とする米陸軍部隊が館山航空基地付近へ上陸しました。USS Clearfieldの公式艦歴によると、最初の部隊は午前9時30分に上陸しています。
| 部隊 | Clearfieldからの上陸人数 |
|---|---|
| 112th Cavalry | 将校25人・兵743人 |
| 148th Field Artillery | 将校1人・兵98人 |
| 78th Engineers A Company | 将校3人・兵136人 |
| 592nd Engineers | 将校1人・兵20人 |
| Joint Signal Assault Company | 将校1人・兵6人 |
マッカーサー司令部の公式戦史には、館山に武装した日本兵約1,600人がいるとの事前報告があった一方、日本陸海軍と外務省関係者が米軍を出迎え、抵抗はなかったと記されています。接収は戦闘なしで進みました。首都圏で始まった占領の様子は、米軍写真で歩く占領期の東京|焼け跡の街はどう変わったのかでも紹介しています。

館山で起きた「直接軍政」をめぐる混乱
9月3日の館山では、基地接収とは別に占領統治をめぐる混乱も起きました。アジア歴史資料センター(JACAR)の外交史料解説によると、占領軍を率いたBrigadier General Julian Cunninghamは同日午後、日本側に要求文書を渡しました。
要求には、軍政参謀部が裁判、警察、金融・財産、教育、運輸などを監督する内容が含まれ、学校や酒場の閉鎖、夜間外出禁止、10人以上の集会禁止なども求められました。日本政府は、GHQが示していた日本政府の行政機構を利用する間接統治方針と異なるとしてGHQへ照会し、直接軍政型の措置は撤回・修正へ向かいました。
館山では直接軍政型の要求が出され、日本側がGHQへ照会する事態になった、というのが外交史料から確認できる経緯です。「館山で4日間、完全な軍政が行われた」と単純化すると、占領初期の調整過程を取り違えます。日本政府を利用した占領統治の仕組みは、GHQ側から見た戦後日本|占領軍は日本をどう理解し、どう作り変えようとしたのかで詳しく解説しています。
戦後はキノコ栽培にも使われた
終戦後、赤山地下壕は軍事施設としての役割を失いました。館山市の資料では、昭和30年前後、1950年代半ば頃から、年間を通じて温度が比較的一定な坑内環境を利用してキノコ栽培が行われたとされています。
坑内に残る風呂、ボイラー、コンクリートブロックなどの一部は、この戦後利用の時代に設けられた設備です。発電施設跡など戦時中の設備、キノコ栽培など戦後利用の設備、一般公開のため後年に設けられた照明や安全設備は、それぞれ時代が異なります。
戦争遺跡から館山市の歴史資源へ
1980~90年代になると、市民や博物館関係者による戦争遺跡の調査、展示、平和学習が進み、赤山地下壕も地域史の資料として再評価されました。館山市は2002年度、地方自治研究機構と共同で「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」を実施し、2003年3月に報告書をまとめました。
報告書は、戦争遺跡を文化財として保存するだけでなく、市民の生涯学習、観光・交流にも活用する方針を示し、「地域まるごとオープンエアミュージアム・館山歴史公園都市」という考え方を掲げました。赤山地下壕はその中核候補の一つとされ、2004年4月に一般公開が始まり、2005年1月27日に市指定史跡となりました。
公開されていたのは約1.6kmの坑道全体ではなく、安全を確認した一部区間です。館山市の案内では見学時間は20~30分程度で、受付後にヘルメットを着用して入壕する方式でした。
| 年度 | 入壕者数 |
|---|---|
| 2005年度 | 13,164人 |
| 2017年度 | 38,248人 |
| 2018年度 | 33,853人 |
| 2019年度 | 21,260人 |
| 2022年度 | 28,248人 |
| 2023年度 | 9,704人(8月15日から休壕) |
年間3万人を超える見学者が訪れた時期もあり、赤山地下壕は平和学習、観光、地域史教育の施設として定着しました。首都圏に残る大規模地下戦争遺跡では、中島飛行機の地下軍需工場として造られた浅川地下壕も保存・公開の課題を抱えています。
一度直して再開したのに、また崩落した
公開施設としての赤山地下壕は、老朽化した地下空間を安全に使い続ける難しさにも直面しています。2023年8月15日、壕内のモルタル剥離など安全上の問題が確認され、館山市は休壕しました。
2024年度には改修事業が組まれました。館山市の補正予算説明資料では事業費13,931千円、約1,393万円。確認できる工事には既設の吹付コンクリート撤去や電気設備関係が含まれます。
工事後の2025年4月1日、一般公開は再開しました。しかし約7か月後の11月6日早朝、見学ルート内で一部崩落・剥落が確認され、再び休壕となりました。経緯は「2023年休壕→2024年度改修→2025年4月再開→2025年11月再崩落→再休壕」です。
2026年現在|2,300万円の安全点検と再開時期
2026年第1回館山市議会定例会の補正予算説明資料では、赤山地下壕跡安全点検業務として23,000千円、2,300万円が計上されています。調査は岩盤状況の把握、補修工法の検討、概算工事費の算出などを含みます。施設内で崩落が確認されたため緊急に実施する必要が生じましたが、年度内の完了が見込めず、2026年度へ繰り越されました。
館山市公式ページは2026年8月28日更新時点で、現在壕内を調査中で、安全性が確認できるまで休壕し、再開時期が決まり次第案内するとしています。2026年9月2日現在も休壕中で、安全調査が続いており、再開日は未定です。
赤山地下壕は今後どうなるのか
館山市は2003年の保存活用方策報告書以来、戦争遺跡を歴史学習・観光・交流に活用する政策を続けてきました。文化財保存活用地域計画の検討でも、赤山地下壕を館山市立博物館や地域の関連文化財と結び、館山の歴史文化を一体的に理解する枠組みの中核に置く案が示されています。東京湾要塞、館山海軍航空隊、砲台跡など近現代の軍事遺産と合わせて保存活用する流れです。
2026年現在の課題は、老朽化した地下空間の安全と史跡保存の両立です。地下壕は岩盤そのものが歴史資料で、掘削跡や地層も見学対象です。吹付コンクリートなどによる補強を広げれば安全性を高めやすくなる一方、坑道壁の施工痕や地質を覆う範囲も増えます。公開施設として見学者の安全を確保しながら、遺構の情報をどこまで残すかが問われています。
館山市が将来の公開利用を放棄したとする発表はありません。市は安全点検を続け、公式ページで再開時期が決まり次第知らせるとしています。
戦争遺跡の壁で、数百万年前の地層も学べる
赤山地下壕には、戦争遺跡とは別の教育的価値もあります。産業技術総合研究所・地質調査総合センターの資料では、赤山地下壕は鏡ヶ浦層を観察できる地点です。砂岩やシルト岩などからなる地層が見られます。
地表の露頭は風雨で風化しますが、地下壕の壁や天井では比較的新鮮な地層面を観察できます。坑道が複数方向に交差するため、同じ地層を横方向・縦方向に追い、三次元的につながりを確かめられる点も特徴です。
武蔵野大学の地学教育研究では、赤山地下壕を使って断層面のつながり、走向と傾斜、鍵層などを学ぶ教材化が行われています。「走向」は地層面が水平面と交わる方向、「傾斜」は地層がどちらへどの程度傾くか、「鍵層」は広い範囲で同じ地層を追跡するときの目印になる特徴的な層です。戦争のために掘られた坑道は、現在は地層を立体的に学ぶ教材にもなっています。
まとめ|地下壕の歴史は2026年現在も続いている
赤山地下壕は、館山海軍航空隊の基地地下化、1945年の米軍攻撃、敗戦と米軍上陸、戦後のキノコ栽培、戦争遺跡としての保存・公開を経てきました。2004年の一般公開後は多くの見学者を受け入れましたが、2023年と2025年に安全上の問題で休壕し、2026年現在は2,300万円規模の安全点検が続いています。
80年以上前の地下空間を、史跡として残しながら安全に公開できるか。赤山地下壕の歴史は、再開時期を含む現在進行形の保存課題へ続いています。
主な参考資料
- 館山市「館山海軍航空隊関係」
- 館山市「【市指定史跡】館山海軍航空隊赤山地下壕跡」
- 館山市「【臨時休壕】赤山地下壕跡 見学のご案内」
- 館山市「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書
- 館山市「令和8年第1回市議会定例会 補正予算説明資料」
- U.S. Naval Technical Mission to Japan, Report X-31 “Bombproof Construction in Japan”, 15 January 1946
- USS Wasp, Aircraft Action Report No. 2-D-79, 17 February 1945
- USS Bon Homme Richard, Aircraft Action Report No. 8, 30 July 1945
- U.S. Navy, United States Navy at War – Final Official Report
- U.S. Navy DANFS, USS Clearfield (APA-142)
- U.S. Army, Reports of General MacArthur: MacArthur in Japan
- アジア歴史資料センター「占領期の軍政問題・館山」
- 産業技術総合研究所 地質調査総合センター「館山地域の地質」
- 武蔵野大学「地層観察学習による主体的・対話的で深い学びの実践」
- NPO法人安房文化遺産フォーラム

