日本にキリンが来たのは1907年|上野動物園で生まれた長次郎と骨格標本の歴史

上野動物園で2009年に撮影されたキリン。長次郎本人とは異なる個体

東京・武蔵境にある日本獣医生命科学大学の古い校舎には、長いあいだ一頭のキリンの全身骨格標本が立っていました。名前も生い立ちも忘れられていた標本の正体が、2020年の調査で明らかになります。1940年に上野動物園で生まれたキリン「長次郎ちょうじろう」でした。

日本に初めて生きたキリンが来た1907年

1907(明治40)年、上野動物園にドイツの動物商カール・ハーゲンベックからキリンが2頭届きました。オスの「ファンジ」とメスの「グレー」です。日本で生きたキリンが展示された最初の例でした。

一方、キリンの剥製はくせいはそれ以前に日本へ渡っています。博物学者の田中芳男たなかよしおは1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会で剥製を入手し、1877年には国内の博物館で展示されました。生きたキリンの初来日と、標本の渡来には30年の隔たりがあります。

伝説の麒麟が実在のキリンの名前になるまで

中国では古くから、鹿に似た体や牛の尾、角を持つ麒麟きりんが、徳のある君主の治世に現れる霊獣として伝えられてきました。日本でも奈良時代には麒麟を表した文様が知られ、正倉院の宝物にその姿が残っています。

1414年、ベンガルから中国・明の永楽帝えいらくていに生きたキリンが献上されました。宮廷ではその動物が伝説の麒麟と結びつけられ、皇帝の治世を祝う瑞兆として迎えられました。長い首と斑紋を持つキリンを描いた絵画も作られ、実在の動物と霊獣の名前が重なりました。

中国・清時代の絵画『キリンと二人の飼育者』。首の長いキリンと二人の人物
『Giraffe with Two Keepers(キリンと二人の飼育者)』。中国・清時代の絵画。1414年の献上を後世に伝える主題の一例。メトロポリタン美術館蔵/Wikimedia Commons(CC0 1.0)。

日本の江戸時代にも麒麟は絵画や建築を飾りました。3代将軍徳川家光とくがわいえみつが1636(寛永13)年に造営した日光東照宮の拝殿には、狩野探幽かのうたんゆうが描いた麒麟の杉戸絵があります。17世紀の絵師・狩野常信かのうつねのぶによる「麒麟図」も東京国立博物館に伝わっています。

江戸時代の画家・狩野常信が描いた伝説の霊獣、麒麟の絵
狩野常信《麒麟図》(17世紀)。実在のキリンと異なる霊獣の姿。東京国立博物館蔵。撮影:Sailko/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

一方、実在のキリンの姿も海外の博物書を通じて伝わり、明治になると田中芳男が1871(明治4)年刊の『泰西訓蒙図解』たいせいくんもうずかいや1873年の動物図で紹介しました。1888(明治21)年には、伝説の麒麟を商標にした「キリンビール」が登場します。生きたキリンが上野動物園に来た1907年、英語でジラフと呼ばれる動物の日本語名として「キリン」が定着していきました。

東京国立博物館所蔵の西洋の古いキリン図版。首の長いキリンを描いた印刷物
西洋の図版《The Giraffe—Camelopardalis Giraffa》。東京国立博物館展示資料。撮影:Daderot/Wikimedia Commons(CC0 1.0)。

ファンジとグレーは来日翌年に亡くなりました。グレーは1908年1月8日、ファンジは3月23日です。死後に剥製や骨格標本が作られ、ファンジの剥製は国立科学博物館に引き継がれました。

1907年の上野動物園は、年間入園者数が初めて100万人を超えました。来日したキリンは、明治の東京で大きな関心を集めた動物の一つでした。

1908年1月に死亡したグレーについては、当時の新聞が急性腸カタル(腸炎)と報じています。2頭の剥製は動物標本社の米山米吉が監督し、剥製師の坂本喜一が製作しました。標本をめぐる記録は『少年世界』などの雑誌にも残り、明治の人々がキリンをどのように見ていたかを今に伝えています。

遠い国から生きた動物を迎えた歴史としては、江戸時代にベトナムから来た象も知られます。象が江戸から中野へ移った経緯は、中野坂上・宝仙寺と徳川吉宗の象の歴史で紹介しています。

上野動物園で日本初の繁殖と長次郎の誕生

1933(昭和8)年、上野動物園は来日したハーゲンベック・サーカスからキリンを購入しました。オスの「長太郎」とメスの「高子」は、日本で初めて繁殖に成功したキリンのペアです。

1937(昭和12)年、上野動物園で日本初のキリンの子が誕生しました。名前は「高男」。1940(昭和15)年10月に生まれた長次郎ちょうじろうは、その弟にあたります。兄弟のうち、長次郎の骨格が後世に残りました。

長太郎と高子の家族については、2026年刊行の『キリンが来た道 麒麟児きりんじ 長次郎の歩み』に、死産だった双子やミナミ、フジの名も記されています。上野動物園でキリンの繁殖が重ねられていた時代です。

1942年、戦時下の井の頭自然文化園へ

1942(昭和17)年5月17日、東京に井の頭自然文化園が開園しました。動物や植物を通じて自然科学に親しむ施設として整えられ、同年、上野動物園からキリン2頭が移されます。長次郎ちょうじろうが井の頭へ移ったのは7月でした。

井の頭自然文化園の入口(2019年)
井の頭自然文化園の入口(2019年撮影)。長次郎が移された1942年から現在まで続く動物園です。撮影:Kestrel/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)。

開園翌年の1943年には、戦時下の猛獣処分でホッキョクグマやツキノワグマ、ラクダが命を落としました。長次郎が亡くなったのは1944(昭和19)年12月、4歳のときです。

当時の園と戦後の変化については、井の頭自然文化園の歴史と見どころでも紹介しています。現在の園内には彫刻園や童心居など、戦後に加わった施設が残ります。

解剖から4年以上かけて作られた全身骨格標本

長次郎ちょうじろうの遺体は、現在の日本獣医生命科学大学の前身にあたる日本高等獣医学校へ運ばれ、解剖されました。骨格標本の製作には4年以上を要しました。1952(昭和27)年の卒業アルバムにも、その姿が写っています。

完成した標本は当初、解剖実習場と呼ばれた校舎に置かれていました。1968(昭和43)年、校舎の解体に伴って一号棟の2階へ移されます。骨格はその場所で50年以上、組み立てられた姿のまま残りました。

2026年10月31日に撮影した一号棟2階の旧展示場所には、木製の手すりと大きな窓、長次郎の来歴を伝える資料パネルが残っていました。

日本獣医生命科学大学一号棟2階のキリン長次郎骨格標本の旧展示場所。窓際の手すりと写真パネル、解体を知らせる掲示
長次郎の骨格標本が置かれていた日本獣医生命科学大学一号棟2階。現在は資料パネルと解体のお知らせが並びます(2026年10月31日、筆者撮影)。
日本獣医生命科学大学一号棟2階の旧展示場所。木製の手すりと大きな窓、資料パネルが並ぶ
長次郎の骨格標本があった一号棟2階の展示場所を別方向から撮影(2026年10月31日、筆者撮影)。

名前を失ったキリンが2020年に「長次郎」と判明

一号棟に展示され続けた骨格標本は、いつしか名前も来歴もわからなくなっていました。2020(令和2)年、日本獣医生命科学大学付属博物館の調査で、その個体が長次郎ちょうじろうだと判明しました。

上野動物園で生まれた長次郎は、現存する日本の動物園生まれのキリンの標本として、最も古い全身骨格標本とされています。先に生まれた兄弟たちの標本は、長い年月のうちに所在がわからなくなりました。

大学付属博物館は2023年11月から2024年6月まで、第1回企画展「キリンが来た道~麒麟児 長次郎の歩み~」を開催しました。明治から昭和初期のキリン飼育史と長次郎の生涯を取り上げ、2024年4月にはキリン講話会も開かれました。

標本に写り込んだ古い写真の発見や身元調査の経緯は、大学付属博物館が監修した書籍『キリンが来た道 麒麟児 長次郎の歩み』(工作舎、2026年3月刊)にまとめられています。

2025年に解体、2026年に全身の骨を特別公開

長次郎ちょうじろうの骨格は長年、窓から光の差し込む場所に置かれていました。紫外線や高温、ホコリに加え、組み立てに使用した金属の劣化も問題となり、2023年には頭部の補強が行われました。

2025(令和7)年1月21日、標本の保護を目的として全身骨格が解体されました。同年には頭骨と頸椎けいついを紹介するミニ展示も開催されています。

「キリン『長次郎』の骨格標本について」と題した大学の説明パネル。1940年の誕生から2025年の解体までを記載
一号棟に掲示された長次郎の骨格標本の説明。誕生・移動・死亡・標本製作・保存について記されています(2026年10月31日、筆者撮影)。

解体当日は脚立を立て、頭蓋骨から順に骨を外しました。脚の関節を固定していた針金を切り、手首や足首の細かな骨は組み合わせを保ったまま回収しました。傷みの進んだ胸骨と肋軟骨は慎重に扱い、取り外した骨には部位がわかるようタグを付けました。長年窓側に向いていた体の左側と右側では、骨の劣化状態にも違いが見られました。

2026年6月21日には、世界キリンの日に合わせて長次郎の全身の骨を床に並べる一日限りの公開イベントが開かれました。イベント後、標本は保管室へ移され、全身骨格は通常非公開となりました。解体後は、組み立てた状態では難しかった骨の清掃・計測や試料採取が可能になりました。

骨格標本を守った一号棟と日本獣医生命科学大学付属博物館

長次郎の骨格が置かれていた大学一号棟は、1909(明治42)年に東京市麻布区役所の庁舎として建てられた木造建築です。1937(昭和12)年、現在の武蔵野市へ移築され、大学の校舎となりました。2020(令和2)年4月3日、「旧東京市麻布区役所庁舎(日本獣医生命科学大学一号棟)」の名称で国の登録有形文化財になっています。

付属博物館は東京都武蔵野市境南町1丁目にあり、JR武蔵境駅から歩いて行ける場所です。通常の開館は火~土曜日の10時30分~17時、入館無料。個人見学は予約不要です。館内の展示や国の登録有形文化財である一号棟、大学祭「医獣祭」の特別公開については、日本獣医生命科学大学付属博物館の見どころと医獣祭で紹介しています。展示の変更や臨時休館については大学付属博物館の来館案内で確認できます。

戦後、日本のキリン飼育は全国へ広がった

長次郎の死から十数年後、国内の動物園ではキリンの飼育と繁殖が再び広がっていきました。1958(昭和33)年に開園した多摩動物公園は1960(昭和35)年からキリンを飼育し、1964(昭和39)年に初めて繁殖に成功しました。1962年に整備されたアフリカ園では、複数のキリンを群れで飼育する取り組みが続けられました。

1952年の上野動物園で撮影されたキリンの白黒写真。長次郎本人ではない
上野動物園のキリン(1952年)。『大東京写真帖』(至誠書院編集部編、1952年)より。1944年に亡くなった長次郎とは別の個体です。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

1960年代の調査に残る飼育の苦労

飼育が広がる一方で、キリンを日本の気候や施設に合わせて健康に育てることには難しさがありました。多摩動物公園がまとめた1969年の「日本におけるキリンの飼育に関する調査」は、1961年4月から1968年3月までに国内で飼育されたキリンなど80頭分の記録を集めています。調査対象期間に輸入された個体は26頭、国内で生まれた子は21頭でした。80頭は7年間に記録された個体の累計です。

同じ調査期間に死亡した32頭については、消化器系の病気が大きな割合を占めました。飼育施設の温度、床材、餌の内容、妊娠期間、死亡原因まで調べられています。1960年代の動物園では、輸入や繁殖を進めながら、餌と飼育環境を改良するための記録が蓄積されていました。

国内繁殖が増え、上野でも37年ぶりの誕生

2018(平成30)年末、日本のキリン飼育数は59園館、167頭でした。2020(令和2)年2月2日には、上野動物園で1983年以来37年ぶりのキリンが生まれました。母親の「リンゴ」は盛岡市動物公園、父親の「ヒナタ」は横浜市立野毛山動物園の生まれです。別々の園で生まれた個体が上野で新たな命をつないだ例でした。

多摩動物公園は国内の大きな繁殖拠点となり、1960年から2025年末までに計224頭を飼育し、そのうち199頭が園内で誕生しました。そこで生まれたキリンは全国各地、さらに海外の動物園へも移り、ほかの園での繁殖につながりました。

現代は血統と群れの暮らしを管理する時代

現在、各地の動物園は日本動物園水族館協会の血統登録と個体群管理計画に沿って、繁殖する組み合わせや園同士の移動を調整しています。近い血縁の個体ばかりが増えると遺伝的な多様性が低下するため、全国の血統を見渡して繁殖計画を立てています。

多摩動物公園では2022年に新しいキリン舎へ移り、群れで暮らす空間や飼育環境を整えました。繁殖に成功した個体数が増えたことで、施設の収容能力と動物福祉を考えた繁殖制限も行われています。1937年に上野で初めて子が生まれた時代から、全国のキリンを協力して守り育てる仕組みへと飼育のあり方が変化しました。

主な参考資料

※アイキャッチ写真は2009年に上野動物園で撮影されたキリンで、長次郎とは別の個体です。撮影:hiyang.on.flickr/Wikimedia Commons(CC BY 2.0)。