板橋区本町と仲宿の境で、旧中山道が石神井川を渡る橋が「板橋」です。現在の橋は昭和47年(1972)に架け替えられたものですが、江戸時代には木造の橋が架かっていました。「板橋」は区名の由来と伝えられる一方、中世の文献にも地名として現れます。橋と地名の関係を知ると、宿場町ができる前から続く地域の歴史がたどれます。
中世の文献にも現れる「板橋」
板橋の地名は『延慶本平家物語』や『義経記』などの古い文献に登場します。これらの記述から、鎌倉時代には「板橋」という地名が使われていたと考えられています。江戸時代の宿場制度が整うよりも前から、この名が地域に結び付いていました。
橋が地名の起こりになったという説は、江戸時代の地誌『江戸名所図会』にも見られます。一方、「板」を崖や河岸、「橋」を端と解釈して、武蔵野台地の縁の地形から名付けられたとする説もあります。板橋区立郷土資料館は両方の説を紹介しており、由来は一つに確定されていません。
板橋宿の上宿と中宿を分けた橋
江戸時代、旧中山道の板橋宿は江戸から数えて最初の宿場でした。石神井川に架かる板橋を境に、北側は上宿、南側は中宿と呼ばれました。中宿には本陣や荷物を扱う問屋場など宿場の主要施設が集まり、旅人や街道の荷物が行き交いました。
石神井川は台地を刻みながら流れ、街道を通る人々にとっては渡河する必要のある川でした。橋が架かることで、上宿と中宿の往来や街道の交通が支えられました。現在も旧中山道の道筋をたどると、街道が石神井川を渡る場所を確認できます。
江戸時代の板橋は長さ約16メートルの木橋
江戸時代の板橋は太鼓橋のような形をした木製の橋で、長さ9間(約16.2メートル)、幅3間(約5.4メートル)と記録されています。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間(1831~1845)には修復が行われました。
木造の橋は川の増水や長年の通行によって傷むため、維持管理が必要でした。板橋は中山道の交通を支える橋であり、修復の記録は宿場の交通施設を守る取り組みを伝えています。江戸後期の『江戸名所図会』には、板橋宿と橋の様子が描かれています。
1972年の架け替えと現在の橋
現在の板橋は昭和47年(1972)に架け替えられました。橋の周辺では石神井川の護岸や市街地の整備も進み、江戸時代の木橋とは構造や周囲の景観が異なります。それでも橋の位置と「板橋」の名は、旧中山道の地理を伝えています。
板橋は板橋区の「板橋十景」にも選ばれています。所在地は板橋区本町28・29番と仲宿49・50番の間で、都営三田線「板橋区役所前駅」「板橋本町駅」の双方から徒歩で訪ねられます。春には石神井川沿いの桜並木が見られます。
周辺に残る板橋宿の史跡
橋の南側から仲宿へ進むと、本陣跡や商家、寺院など板橋宿の歴史に関わる場所があります。近隣の文化財は板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財で紹介しています。石神井川沿いには加賀藩前田家下屋敷跡もあり、橋から川沿いの歴史をたどれます。
参考資料
- 板橋区「板橋十景 板橋」
- 板橋区「板橋散策コース」
- 板橋区立郷土資料館「解説シート いたばしの地名」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』

