遍照寺の歴史|板橋宿の馬つなぎ場と明治の遊女参詣図絵馬

板橋区仲宿の遍照寺(へんじょうじ)は、江戸時代の板橋宿で馬をつなぐ場所として使われた寺院です。寛政10年(1798)の馬頭観音や馬を描いた絵馬が残り、明治時代の「遍照寺参詣図」絵馬には板橋遊郭の千代本楼に関わる人々が描かれています。宿場町の交通と信仰、近代の暮らしを同じ寺院の文化財からたどれます。

板橋宿の馬つなぎ場として使われた境内

江戸時代の板橋宿は中山道の宿駅として、人や荷物を次の宿場へ送り継ぐ役割を担いました。馬は荷物や公用文書を運ぶ重要な交通手段でした。遍照寺の境内には幕府公用の馬などをつなぐ場所があり、馬の世話や交代が行われていました。

宿場で働く馬には、交通を支える一方で長い距離を運ばれる荷物を担う負担がありました。人々は馬の無事を願い、亡くなった馬を供養するために馬頭観音を祀りました。遍照寺には寛政10年(1798)に建てられた馬頭観音が残され、宿場の馬をかたどった駅馬模型も伝わっています。

馬の絵柄が多い寺の絵馬

遍照寺が伝える絵馬は約50点に上り、そのなかでも馬の姿を描いた絵馬が多くを占めます。絵馬は願い事や願いがかなったお礼を絵にして寺社へ納めるもので、奉納した人々の暮らしや仕事を知る資料にもなります。

馬頭観音、駅馬模型、馬の絵馬が同じ寺に残っているのは、ここが宿場の交通施設と結び付いた場所だったためです。東光寺や観明寺に残る庚申塔と比べると、街道沿いの寺院に寄せられた願いにも違いがあったことが分かります。

千代本楼の遊女を描いた「遍照寺参詣図」

「遍照寺参詣図」絵馬は、明治時代に板橋宿平尾の千代本楼が奉納した作品です。板橋宿上宿に住んだ町絵師・柴左一が描き、千代本楼の主人と遊女たちが寺へ参詣する様子を表しています。早春に商売繁盛を願って参詣した場面だと伝わります。

行列の衣服や人物の配置から、江戸時代の宿場制度が終わった後も街道沿いで営まれた商売や、人々の装いを知ることができます。絵馬には旅人や住民の信仰に加えて、遊郭を含む近代の宿場の社会が記録されています。区立郷土資料館にはこの絵馬の複製が所蔵されています。

天台宗寺院から真言宗寺院へ

遍照寺は江戸時代には大日山と称し、板橋区内で唯一の天台宗寺院でした。明治4年(1871)にいったん廃寺となり、明治14年(1881)には旭不動堂として成田山新栄講の道場となりました。その後、昭和22年(1947)に真言宗寺院として再興し、成田山新勝寺の末寺となっています。

明治維新後の宗教制度の変化のなかで寺の位置付けは変わりましたが、境内には宿場時代の石造物や絵馬が受け継がれました。

所在地と関連する文化財

遍照寺の所在地は板橋区仲宿40-7で、都営三田線「板橋区役所前駅」から徒歩約4分です。境内の参拝は寺院の案内に従い、堂内の絵馬などの公開状況は訪問前に確かめてください。近くの文殊院や東光寺も含めた歴史は板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財で紹介しています。

参考資料

板橋区観光協会「遍照寺」、板橋区「中山道板橋宿デジタルガイド 歩学」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。