熊野町熊野神社文書の歴史|内務省勤務の神職が残した近代国家と地域の記録

板橋区熊野町の熊野神社には、江戸時代から平成期にかけての文書が保存されています。「熊野町熊野神社文書」は、神職を務めた中島家に伝わる資料と、昭和7年(1932)以降の神社運営に関する資料からなり、内務省の神社行政や地域の暮らしを知る手がかりとなっています。平成30年(2018)8月23日に板橋区の有形文化財(古文書)に登録されました。

中島家の資料と熊野神社の記録

熊野町熊野神社文書は、大きく中島家に伝わった文書と、熊野神社の神職に就いてから作成・収集された文書に分けられます。中島家の資料には、山梨県に住んでいた時期のものと、内務省に勤務していた時期のものがあります。神社だけの記録にとどまらず、一つの家が移り住みながら関わった仕事や制度の歴史も含まれています。

資料の年代は、天正19年(1591)に徳川家康が鷲宮神社の領地を安堵した判物の写しから、平成4年(1992)の研修修了証まで幅広く及びます。江戸時代の文書は105点あり、それ以外の多くは明治時代以降に作られたものです。判物の写しは、戦国末期の文書が後の時代に伝えられた例です。

内務省と明治神宮の造営

中島清治郎は内務省に勤務し、明治神宮の造営に携わりました。内務省は明治政府が設けた行政機関で、地方行政や警察などとともに神社に関わる業務も所管していました。明治神宮の造営は、大正期に進められた大規模な国家的事業です。

中島家には、清治郎の内務省勤務時代の資料が残されています。これらは近代の神社制度を研究するうえで注目されてきました。個人の家に保存された文書を通して、当時の行政と神社の関係を調べることができます。

1932年の社掌任命と熊野町の記録

清治郎が熊野神社との関係を持つようになったのは、昭和7年(1932)に社掌に任命されてからです。文書群には同年7月11日付の社掌任命状も含まれます。社掌は当時の神社制度で用いられた神職の職名です。

同じ昭和7年10月には、板橋町・上板橋村・志村・赤塚村が東京市に編入され、板橋区が成立しました。熊野神社の近代の資料は、地域の行政区域が変わった時期と重なります。

文書群には戦前から戦後にかけての熊野地域の記録も含まれています。地域で暮らす人々と神社との関係、神社の運営、戦争を挟んだ社会の変化を調べるための資料です。社掌就任後の記録がまとまって残ることで、一つの場所の歴史を継続して追えます。

熊野町熊野神社と文化財の所在地

熊野神社の所在地は板橋区熊野町11番2号です。文化財に登録されているのは神社が所蔵する文書群であり、すべてが常時展示されているという意味ではありません。資料の閲覧や公開については、板橋区の文化財担当部署に確認してください。

板橋宿の街道、近代の町と村の行政については、板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財でも紹介しています。

参考資料