東京に1軒だけ残る醤油工場。あきる野「近藤醸造」とキッコーゴ117年の歴史

東京都あきる野市山田に、都内で唯一、醤油を醸造する工場があります。1908年創業の近藤醸造です。「キッコーゴ」の名で知られ、国産の丸大豆と小麦を使った本醸造醤油を現在も造っています。

創業者・近藤五郎兵衛は裕福な家に生まれた人物ではなく、幼いころから奉公に出て、10代で醤油屋へ入りました。20年近く修業し、資金をためて33歳で独立します。15年後、関東大震災で工場が損壊しました。それでも同じ年のうちに再出発しました。

戦後は大手メーカーとの価格競争が進み、全国の醤油工場は1955年の約6,000社から2024年には1,013社まで減りました。東京でも小さな蔵が消える中、近藤醸造は地域への配達、丸大豆醤油、無添加商品、加工調味料、直売へ仕事を広げました。四代目・近藤寛さんは宮城県の醤油蔵で修業した後に戻り、現在の経営を担っています。

江戸は醤油の巨大消費地だったが、主産地は東京の外にあった

東京で醤油工場が1軒になった歴史を考えるとき、江戸時代の醤油流通まで遡る必要があります。

江戸初期、江戸で使われる醤油の多くは上方から運ばれる「下り醤油」でした。人口が増え、そば、天ぷら、うなぎ、握りずしなど江戸独自の料理が発達すると、香りが強く色の濃い関東の濃口醤油が好まれるようになります。

関東醤油の中心になったのが、現在の千葉県野田市と銚子市です。野田は利根川と江戸川に囲まれ、大豆、小麦、塩を水運で集めやすく、完成した醤油を大量消費地の江戸へ運ぶにも便利でした。銚子も利根川と海運を使える立地にありました。

文政4年(1821年)には、江戸へ入った醤油125万樽のうち、上方からの下り醤油は約2万樽まで減り、ほとんどが関東産になったとされています。1840年の関東醤油番付でも、野田と銚子の銘柄が上位を占めました。

巨大都市の江戸は醤油を大量に消費しましたが、原料、水運、土地を備えた周辺地域が生産を担う構造が早い時期からできていました。東京が大消費地であることと、東京そのものが大醸造産地であることは一致しません。

創業者・近藤五郎兵衛は14歳で醤油屋へ奉公した

近藤醸造の創業者は近藤五郎兵衛です。1875年、西秋留村下代継、現在のあきる野市下代継に生まれました。

四代目・近藤寛さんが地域紙へ寄せた回想では、五郎兵衛は6歳から分家へ奉公に出ています。14歳になると東秋留村二宮の早川醤油へ入り、下男として働きながら醤油造りを学びました。修業期間は約20年に及びます。

働きながら資金をため、1908年(明治41年)、33歳で西秋留村渕上に醤油醸造所を開きました。屋号の「キッコーゴ」は、亀甲形の中に創業者・五郎兵衛の「五」を入れた印です。

五郎兵衛は近藤家の曽孫にあたる現在の寛さんにも、厳格な人物として伝わっています。幼い寛さんは仏壇の遺影を見るだけで緊張したと回想しています。現在の商品や看板に残る「五」の印は、創業者の名前そのものを100年以上伝えています。

1923年、関東大震災で創業工場が壊れた

創業から15年後の1923年(大正12年)、関東大震災が起きます。渕上の工場は損壊しました。

五郎兵衛はその年、当時の増戸村山田へ製造拠点を移して再出発しました。近藤家には、明治期の醤油製造免許と、大正12年に山田へ移転した際の許可証が残っています。

会社の現行沿革では1966年12月に「現在地 山田733に移転」と記されているため、1923年の山田移転後、同じ地区内で後に現在の敷地へ移った経緯があったとみられます。公開資料だけでは、この間の敷地移動の詳細までは確認できません。

現在の工場がある山田は秋川渓谷の入口に位置します。多摩の山々と秋川水系に近く、醤油醸造に欠かせない水を得やすい地域です。近藤醸造はこの土地で、震災後の再建から現在まで醸造を続けてきました。

醤油は人が作る部分と、微生物に任せる部分がある

本醸造の濃口醤油は、大豆、小麦、食塩を基本原料にします。近藤醸造では国産の丸大豆と小麦を使っています。

まず大豆を蒸し、小麦を炒って砕き、種麹を加えます。麹室では麹菌が増殖する際に自ら熱を出すため、温度と湿度を見ながら手入れを続けます。麹づくりは約3日間で、仕込み後の発酵を左右する重要な工程です。

できた醤油麹へ塩水を加えると「諸味」になります。諸味の中では麹菌が作った酵素によって大豆のたんぱく質がアミノ酸へ、小麦のでんぷんが糖へ分解され、乳酸菌や酵母が働きながら香りと味を作ります。

四代目の近藤寛さんは、醤油造りについて「肝心の醤油づくりは人間にはできない」という趣旨を語っています。人ができるのは、原料を整え、麹を育て、微生物が働きやすい環境を作り、発酵の状態を見守ることです。最後の味は微生物の働きによって形になります。

全国の醤油工場は約6,000社から1,013社へ減った

近藤醸造だけが東京に残った背景には、全国の醤油産業そのものの集約があります。

日本醤油協会の統計では、1955年に約6,000社あった醤油の企業・工場数は、1965年に4,441社、1995年に1,883社、2015年に1,258社へ減り、2024年には1,013社になりました。

出荷量も1970年代前半を頂点に減少しています。一方で大手メーカーは近代的な工場、全国流通、統一ブランドを整備しました。野田では1917年に複数の醸造家が合同して野田醤油株式会社、現在のキッコーマンを設立し、工場大型化とブランド統一を進めています。

小規模蔵は価格、流通、設備投資で大手と競争することになりました。家庭で使う醤油も地元の醤油屋から買う形から、スーパーで全国ブランドを選ぶ形へ変わっていきます。東京は野田・銚子という巨大産地に近く、大手製品が入りやすい市場でもありました。

大手と価格で戦わず、近所へ醤油を配った

三代目世代が会社へ入った昭和40年代、地域の小さな醤油蔵には厳しい時代が始まっていました。

近藤家の取材では、大手メーカーの醤油が新しく魅力的に見え、価格競争でも小規模蔵は不利だったと語られています。そこで近藤醸造は、近所の家庭へ醤油を直接配達し、顔の見える関係で使ってもらう方法を続けました。

2015年の取材でも、あきる野市と周辺地域の家庭が主要な顧客として紹介されています。空瓶を持って直売所へ買いに来る客の姿もありました。全国市場で数量を競うより、地域で繰り返し選ばれる醤油を作る経営です。

1970年には無添加の純正醤油を発売しました。1980年代には焼肉のたれ、黒酢、めんつゆ、ゆずぽん酢へ商品を広げます。醤油そのものの需要が縮む中、醤油を基礎にした調味料を自社で製造することで仕事の幅を広げました。

四代目・近藤寛は宮城の蔵で1年間修業した

現在の代表取締役・近藤寛さんは1973年、当時の西多摩郡五日市町に生まれました。創業者・五郎兵衛の曽孫にあたる四代目です。

大学卒業後、父から「外の世界を見てから帰ってきてほしい」と勧められ、宮城県の醤油醸造会社で修業しました。醤油造りを5分野ほどに分け、2~3か月ずつ現場を回り、約1年間で製造工程の最初から最後まで学びました。

1997年に近藤醸造元へ入り、現在は総括、人事、醤油加工調味料なども担っています。他社の蔵で働いた経験によって、家の方法を外側から見直す機会を持った後継者です。

近藤さんは東京で醤油蔵が一軒になったことについて、競争相手が消えたことを喜ぶより「東京で醤油を造る仲間がいてほしかった」と語っています。一社だけになれば市場を独占できるわけではなく、消費者は全国の醤油から選べます。最後の一軒であることは、競争の勝利より産地そのものが消えた結果として受け止められています。

近藤醸造は「丸大豆」を残した

醤油の大豆原料には、丸大豆と脱脂加工大豆があります。脱脂加工大豆は油を取り除いた大豆原料で、たんぱく質を効率よく利用でき、大量生産にも向きます。

近藤醸造は丸大豆を使います。丸大豆には油脂が残っており、長い発酵・熟成の中で香りやまろやかさに影響します。麹を塩水へ仕込んだ諸味をゆっくり発酵・熟成させ、搾って火入れし、瓶詰めします。

三代目が作った「五郎兵衛醤油」では、仕込みに使う塩水を通常より少なくし、撹拌できる限界に近い濃さで仕込む方法も採っています。水分を減らせば原料由来の成分は濃くなりますが、諸味は硬くなり管理も難しくなります。大量生産より味を優先した商品です。

地元のゆずや直売所が、醤油蔵を地域産業に変えた

近藤醸造は醤油を造る工場であると同時に、秋川・五日市地域の商品開発にも関わっています。あきる野や青梅で採れたゆずを使うポン酢を商品化し、工場には直売所を設けています。

直売所では醤油だけでなく、めんつゆ、焼肉のたれ、酢、ドレッシング、醤油菓子などを扱います。2022年にはオンラインショップも開設しました。地域客への配達で築いた直接販売の関係を、直売所とECへ広げています。

創業時の近藤醸造は、地域の家庭へ醤油を供給する製造業でした。現在は、東京で醤油を造っている事実そのものが地域資源になり、工場見学や買い物を目的に人が訪れる場所にもなっています。

震災で工場を失った五郎兵衛から、四代目へ

近藤五郎兵衛は幼いころ奉公に出て、20年近く醤油を学び、33歳で独立しました。15年後には関東大震災で工場を損ない、山田で造り直しました。

戦後、大手メーカーが全国市場を広げると、近藤家は近隣家庭への配達を続けました。三代目は丸大豆や濃厚な仕込みを商品にし、醤油から加工調味料へ展開しました。四代目の寛さんは他県の蔵で学んだ技術を持ち帰り、直売、地域商品、オンライン販売まで仕事を広げています。

東京に醤油工場が1軒だけ残った背景には、東京の外側に巨大産地が成立した江戸期の地理、大手メーカーへの生産集中、家庭用醤油市場の変化があります。その中で近藤醸造が残った背景には、地域の顧客と直接つながり、量よりも自社の味を選ぶ経営を世代ごとに続けた歴史があります。

参考資料