板橋区加賀の「加賀五四自治会(肥田一穂氏寄贈)文書」は、旧東京第二陸軍造兵廠板橋工場の跡地が、戦後に学校や研究所などの用地へ変わっていく過程を記録した資料です。旧軍施設の図面や写真、跡地の利用に関わる文書が含まれ、加賀の街が軍需工業の拠点から教育・研究の場へ変わった歴史を伝えています。
加賀前田家下屋敷から陸軍の火薬工場へ
加賀一・二丁目を中心とする地域には、江戸時代に加賀藩前田家の広大な下屋敷がありました。明治4年(1871)、新政府はその敷地の一部を火薬製造用地とし、明治9年(1876)には板橋火薬製造所の操業が始まりました。その後、工場は東京第二陸軍造兵廠板橋工場となり、昭和20年(1945)の終戦まで軍用火薬の製造・研究が続きました。
工場は製造建物のほか、試験場、貯蔵施設、事務施設を備えていました。昭和18年(1943)の「東京第二陸軍造兵廠本部及板橋製造所構内図」は、戦時中の施設配置を調べる資料の一つです。この構内図も、加賀五四自治会に関わる文書群を通じて伝えられています。
終戦後の「五四」と施設の貸付け
終戦後、旧陸軍用地は占領下で管理され、加賀周辺の旧工場区域には「五四」という管理番号が付けられました。軍が使っていた煉瓦造の建物などは、戦災による被害を受けた学校や、研究・事業活動の場を求める団体に貸し付けられました。
昭和21年(1946)に使用を認められたのは、帝京学園、都立化工専、渡辺学園、野口研究所、資生堂絵具工業、板橋診療所(山田病院)、池影自動車の7団体です。同年、利用者によって「板橋管財施設利用組合」が結成されました。旧軍用地が教育、医療、研究、工業の用途に分かれて使われ始めたことを、この団体の顔ぶれから知ることができます。
1948年の「五四団体自治会」への再編
板橋管財施設利用組合はいったん解散しましたが、昭和23年(1948)に「五四団体自治会」として再結成されました。土地や建物を複数の団体が使うためには、施設管理や行政との連絡などを共同で扱う必要がありました。自治会の文書には、旧工場用地の利用とその後の建物の変遷を追うための情報が残されています。
肥田一穂氏が寄贈した資料は、写真、収受文書、構内図などを含む文書群として板橋区の登録有形文化財(古文書)となっています。軍の内部資料とは異なる利用者側の記録も、戦後の土地利用を調べるうえで重要です。
1943年の構内図と残された煉瓦建築
昭和18年の構内図を使うと、戦後に学校や研究所の施設として使われた建物が、戦時中にはどのように配置されていたかを比較できます。旧造兵廠の建物は後に改築や解体が進みましたが、東京家政大学の構内には煉瓦造の建物が3棟残っています。
これらの建築については旧東京第二陸軍造兵廠建物群の歴史、軍用施設の遺構全体については陸軍板橋火薬製造所跡の歴史で紹介しています。
資料の保存と地域の歴史
加賀五四自治会文書は板橋区立郷土資料館などの調査で利用され、旧工場の建物や施設の位置を確認する史料として活用されています。文書のすべてが常時展示されているわけではないため、閲覧を希望する場合は資料館へ確認してください。
加賀周辺の土地利用の変化は、加賀・板橋本町周辺の歴史と文化財でも取り上げています。
