板橋区南常盤台二丁目にある「平安地蔵」は、昭和20年(1945)6月10日の空襲で亡くなった人々を追悼するため、昭和23年(1948)に地域の住民が建立した地蔵です。南常盤台・東新町一帯はこの空襲で大きな被害を受け、近くの天祖神社にも爆撃の痕跡が残っています。
1945年6月10日、南常盤台・東新町への空襲
第二次世界大戦末期、東京は繰り返し空襲を受けました。板橋区内でも軍需工場や住宅地が被害を受け、昭和20年6月10日には南常盤台から東新町にかけて爆撃がありました。
板橋区の文化財マップは、この空襲による被害を死者270名以上、負傷者155名、罹災者2,467名と記しています。罹災者とは空襲によって住居や生活に被害を受けた人々を指します。地域の学校日誌や当時の報告には、被害の集計や避難者の記録が残されました。
1948年、地域の人々が建立した平安地蔵
終戦から3年後の昭和23年(1948)、地元の人々は空襲犠牲者の冥福と恒久平和を願って地蔵を建てました。寺院や神社の境内に限らず、暮らしの場の近くに追悼の石仏を残したことは、被害を受けた地域社会にとって慰霊が身近な行為であったことを伝えます。
地蔵菩薩は古くから子どもや旅人を守る仏として信仰され、道端にも石像が祀られてきました。平安地蔵はその信仰の形を受け継ぎながら、1945年の空襲と戦後の追悼という明確な歴史を持っています。
南常盤台天祖神社の狛犬に残る傷
平安地蔵から近い南常盤台天祖神社では、狛犬の台座に円形の傷が残っています。板橋区の散策案内は、この傷を1945年6月10日の空襲で飛んだ爆弾の破片によるものと紹介しています。神社は旧上板橋村の鎮守で、現在も地域の祭礼を支えています。
平安地蔵が戦後に建てられた慰霊の記念物であるのに対し、狛犬の傷は空襲時の建造物への被害を伝えます。二つの場所には、戦争を経験した地域の人々が残した異なる形の記録があります。
学校日誌が伝える避難者の姿
近隣の上板橋小学校に残る昭和20年の学校日誌にも、6月10日の空襲と地域の避難者についての記録があります。校内へ避難した人の人数や、通学区域で被害が出たことが書き留められました。こうした日誌は、空襲直後の住民の行動を知るうえで大切な資料です。
上板橋小学校校史資料の歴史では、学校が残した被害記録と近代教育の歩みを詳しく紹介しています。
所在地と関連資料
平安地蔵の所在地は板橋区南常盤台2丁目11番付近です。南常盤台天祖神社は南常盤台2丁目4番にあります。どちらも地域の生活と信仰に関わる場所であり、見学時には通行や参拝の妨げにならないよう配慮してください。周辺の歴史は常盤台・前野・西台周辺の歴史と文化財で紹介しています。
参考資料
- 板橋区「常盤台散策コース」
- 板橋区「上板橋地区所在文化財 解説カード」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』
