板橋区徳丸六丁目の徳丸北野神社には、寺子屋「梅樹堂(ばいじゅどう)」の師匠、大野時長(おおのときなが)を顕彰した石碑があります。明治5年(1872)11月5日に建立された碑には、梅樹堂で学んだ81人の名前が刻まれています。江戸時代末期に徳丸の子どもたちが学んだ場所と、その学びの広がりを伝える歴史資料です。
徳丸北野神社で開かれた梅樹堂
梅樹堂は、天保年間(1830~1844)から明治初年にかけて、徳丸北野神社の境内で営まれた寺子屋です。大野時長は神社の宮司を務めながら、地域の子どもたちに学びの場を提供していました。
寺子屋は江戸時代の町や村で、読み書きや手紙の書き方、商いに使う計算などを学ぶ場でした。教師には僧侶、神職、町人などがなり、神社や寺院の一角が授業の場所に使われることもありました。農村の徳丸では、神社が祭礼の場であるとともに、子どもたちの学習の場にもなっていました。
明治2年に亡くなった師匠と息子の顕彰
大野時長は明治2年(1869)に亡くなりました。その3年後の明治5年11月5日、息子の大野時信の代に顕彰碑が建てられました。碑の建立時期は、政府が全国的な近代学校制度を定めた学制公布と同じ明治5年にあたります。
徳丸ではその後、明治7年(1874)に安楽寺の建物を利用して紅梅学校が開校しました。梅樹堂の存在と紅梅学校の開校は、幕末の寺子屋教育から明治の小学校へ移る時期の地域史を伝えています。紅梅小学校校史資料の歴史では、その後の学校教育の記録を紹介しています。
碑に刻まれた81人の筆子
碑には梅樹堂の筆子(ふでこ)、すなわち師匠から習字などを教わった子どもたち81人の名前が刻まれています。名前が残るのは徳丸本村・脇村の子どもたちだけでなく、西台村、下赤塚村、下練馬村、さらに現在の埼玉県三芳町にあたる上富村の子どもたちです。
これらの村名から、梅樹堂が徳丸の一つの集落に限らず、周辺の村々からも子どもを迎えていたことが分かります。現在の区境を越える範囲に学びのつながりがあったことも、名前の記録から確かめられます。
使い終えた筆を埋めた「筆子塚」
碑文には「瘞退筆(いたいひつ)」の文字があります。「瘞」は埋めるという意味で、使い終えた筆を土中に納めたことを示す表現です。こうした石碑は筆子塚とも呼ばれ、学びを支えた師匠への感謝を表すとともに、筆を供養する性格を持ちました。
梅樹堂の碑は師匠の業績を記した顕彰碑であり、筆子の名前と退筆の記述が残る資料です。江戸時代の寺子屋に通った子どもたちの範囲を調べられる点から、令和3年(2021)3月11日に板橋区登録有形文化財(歴史資料)となりました。
所在地と周辺の文化財
所在地は板橋区徳丸6丁目34番3号、徳丸北野神社の境内です。神社では国の重要無形民俗文化財「板橋の田遊び」に含まれる徳丸北野神社の田遊びも伝えられています。祭礼や周辺の農村の歴史は徳丸・高島平周辺の歴史と文化財で紹介しています。
参考資料
- 板橋区「梅樹堂師匠大野時長の碑〈有形文化財(歴史資料)〉」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』
