皇居の西側、一番町の並木の向こうに英国旗が上がります。赤坂の坂道では米国大使館の敷地が官庁街を見下ろし、芝公園の高台にはオランダ大使館、麻布台と三田にはロシア、イタリアの大使館が構えています。いずれも関東大震災、戦災、戦後の再建、都心の再開発を経験しながら、外交の拠点を同じ土地に置き続けてきました。
東京で「最も古い大使館」を探すと、国交が始まった年、公使館が開かれた年、建物の竣工年が混ざりがちです。ここでは、2026年7月現在も使われている主要敷地へ移った年を基準に並べます。最も長いのは1875年から一番町にある英国大使館で、1886年のオランダ、1890年の米国が続きます。さらに、一般的な紹介では抜けやすいメキシコとスペインも上位に入ります。
30秒で分かる結論
- 現在地の使用開始が最も古い現役大使館は、1875年に一番町へ移った英国大使館です。
- 第2位は1886年のオランダ大使館、第3位は1890年の米国大使館です。「英国の次は米国」ではありません。
- 1898年から同じ永田町の土地を使うメキシコ、1927年に現在の公邸を公使館として建てたスペインが続きます。
- ベルギーとソ連はともに1928年に現在地へ移りました。月日による前後を確定できないため同順位です。
- 建物の古さではなく、外交施設が同じ土地に根を張った時間を見るランキングです。
ランキングの基準
対象は、2026年7月の外務省「駐日外国公館リスト」で東京の大使館として確認でき、現在と同じ主要敷地を使い始めた年を公的・公式資料で追える施設です。庁舎や公邸の建て替えは順位を変えません。公使館から大使館への昇格は施設の継続として扱い、国交断絶や国家承継で中断・主体変更があった場合は注記しました。公邸だけが古く事務所が別の場所にある例、現在地への移転年を確認できない例は順位から外しています。
候補確認では、戦前から外交関係を持つ国を中心に、フランス、ノルウェー、スイス、トルコ、デンマーク、タイ、イラン、スウェーデン、南米諸国なども照合しました。公式資料で確認できる現在地の開始年は、フランス1933年、ノルウェー1962年、トルコ1977年、スイス1978年、デンマーク1979年、タイ2013年などで、今回の上位8館より後です。
現在地の歴史が長い大使館一覧
| 順位 | 国・現在地 | 使用開始 | 建物・継続性 |
|---|---|---|---|
| 1 | 英国 千代田区一番町 | 1875年 | 震災後に主要棟を再建。1872年に土地貸付が始まり、近年は敷地の一部を交換・売却 |
| 2 | オランダ 港区芝公園 | 1886年 | 1923年に旧館焼失。1928年公邸、現代の事務棟へ更新 |
| 3 | 米国 港区赤坂 | 1890年 | 震災後の旧庁舎を経て1976年に現庁舎。1941~52年は国交断絶 |
| 4 | メキシコ 千代田区永田町 | 1898年 | 1945年に建物焼失。仮事務所期を経て同じ土地へ戻り、1962年に新館 |
| 5 | スペイン 港区六本木 | 1927年 | 現公邸は当初のスペイン公使館。事務棟は2000年代に更新 |
| 6 | ベルギー 千代田区二番町 | 1928年 | 現在地で3代目となる庁舎を2010年に開館 |
| 6 | ロシア 港区麻布台 | 1928年 | ソ連公館として移転。帝政ロシア期の霞が関とは別系統。現庁舎は1976年 |
| 8 | イタリア 港区三田 | 1930年 | 戦災後に再建。現公邸は1965年完成、事務棟は2005年改修 |
ベルギーとロシアは、ともに1928年の移転まで確認できますが、同じ基準で比較できる月日がそろわないため同順位としました。イタリアは土地取得や工事準備を1929年とする記録もありますが、駐日イタリア大使館が示す「大使館所在地として1930年から」を採用しています。
第1位 英国大使館|一番町で続く明治以来の外交
英国の外交代表部は、幕末には高輪の東禅寺、その後は横浜に置かれました。明治政府との交渉が日常化すると、皇居と外務省に近く、まとまった土地を確保できる番町が新しい拠点になります。日本政府による土地貸付は1872年に始まり、1875年に英国公使館が一番町の現在地へ移りました。

番町は江戸城西側の台地で、江戸時代には大名・旗本の屋敷が広がっていました。開国直後の寺院や開港場の公館から、政府中枢に近い山の手の広い敷地へ移るという、東京の外交地区形成を最も早く示した例です。1905年に公使館から大使館へ昇格しました。この制度変化と明治外交の流れは、日本外交史の展開とも重なります。
1875年の煉瓦造建物は1923年の関東大震災で倒壊し、1929年から再建が進みました。現在の敷地には、震災後の歴史的な公邸・事務棟と、1987年開館の新館が共存します。土地の輪郭は不変ではありません。2015年には日英両政府が借地権と所有権を等価交換し、2022年には約7エーカーあった敷地のうち未利用部分2.3エーカーが売却されました。それでも主要な公館部分は一番町に残り、1875年以来の場所の連続性を保っています。
第2位以下|芝、赤坂、永田町、六本木、麻布へ
第2位 オランダ大使館|1886年、芝切通の高台へ
オランダの公使館は横浜から東京へ移り、1886年に芝公園の現在地へ入りました。選地を担った外交官ヨアネス・ヤコブス・ファン・デル・ポットが選んだのは、増上寺に近い芝切通の高台です。当時は東京湾を見渡せる場所で、低地の開港場から山の手へ外交拠点が移る流れをよく示します。

木造の公使館は関東大震災後の火災で失われ、1928年に公邸が完成しました。現代の事務棟は出島の扇形を思わせる曲面を持ち、庭と高低差のある敷地が明治の選地を伝えています。契約や土地確保の時期には1883年などの記録もありますが、大使館委託の外交拠点史が示す「公使館が現在地へ移った1886年」を順位の年としました。
第3位 米国大使館|1890年から赤坂の同じ区画
米国の公使館は、下田、麻布の善福寺、築地などを経て、1890年に赤坂の現在地へ移りました。皇居南西の高台で、霞が関の官庁街と近く、外務省への往来にも便利な位置です。1906年に大使館へ昇格し、1923年の震災では建物が大きな被害を受けました。

震災後にはアントニン・レーモンドらが関わった旧庁舎が建てられ、1976年に現在の庁舎へ交代しました。1941年の日米開戦で外交関係は断たれましたが、1952年の講和発効後に大使館が再開し、同じ赤坂の敷地が再び外交の舞台となりました。日米関係の戦後再編と、日ソ・日露関係を含む条約の流れは、現代日本外交を決めた条約・共同声明でつながりを追えます。

第4位 メキシコ大使館|1898年の永田町に戻った公館
メキシコは1888年、日本が結んだ最初の対等条約の相手国となりました。その十年後、日本政府が永田町の約5,000平方メートルの土地を外交使節団に提供し、現在のメキシコ大使館も同じ土地にあります。国会議事堂、首相官邸、赤坂御用地に近い、東京の政治中枢そのものです。

旧公使館は1945年の空襲で焼失し、国交回復後の1952年には一時、帝国ホテルに仮事務所が置かれました。やがて永田町へ戻り、1962年に新しい大使館が開館します。建物が失われ、外交活動が別の場所に移った期間を挟みながら、明治に提供された土地へ復帰した例です。
第5位 スペイン大使館|1927年の公使館を残す六本木の丘
六本木一丁目の高台に立つスペイン大使公邸は、1927年に当初のスペイン公使館として完成しました。現在の大使館事務棟も同じ敷地にあり、2000年代初頭に新庁舎へ更新されています。周辺はのちにアークヒルズなどの再開発が進みましたが、公邸のある緑の区画は、谷町と呼ばれた時代の地形を残します。

ここでは公邸だけの古さではなく、最初の公使館が置かれた敷地に現在の事務棟もまとまる点を基準に採用しました。外から見える石垣、樹木、坂の高低差が、超高層ビルの間に残った戦前の公館用地を伝えています。
同率第6位 ベルギー大使館|二番町で3代の庁舎
ベルギーの最初の外交拠点は1866年の横浜に始まり、1893年に東京へ移りました。1921年に大使館へ昇格し、1928年に麹町区の土地を取得します。現在の住所は二番町ですが、公式沿革に残る「麹町の敷地」は同じ場所を指します。

現在の建物はこの敷地で3代目にあたり、2010年に開館しました。大きくガラスを用いた現代建築へ変わっても、番町の碁盤目状の道と皇居西側の立地は変わりません。英国大使館から歩ける距離にあり、明治から昭和初期に形成された外交地区の厚みを感じさせます。
同率第6位 ロシア大使館|霞が関から麻布台へ、主体はソ連
帝政ロシアの公使館・大使館は霞が関にありました。1917年のロシア革命後、日本がソ連を承認したのは1925年です。現在の麻布台の敷地へ移ったのはソ連公館で、1928年から使われています。したがって、幕末以来のロシア外交施設がそのまま麻布台へ続いたのではなく、国家体制の変化と国交再編を経て始まった場所です。
1945年には日ソ関係が断絶し、1956年の日ソ共同宣言で国交が回復しました。1976年の現庁舎を経て、1991年のソ連解体後はロシア連邦が大使館を引き継いでいます。飯倉の谷と台地の境にある大きな敷地は、帝政、ソ連、ロシア連邦を一続きにせず見る必要がある外交史の場所です。現在地を使い続ける大使館との対照として、東京から消えた国の大使館では、国号や政体とともに閉じた公館の行方をたどっています。

第8位 イタリア大使館|三田の大名屋敷跡と戦後建築
国会議事堂周辺の整備に伴い、イタリアの公館は永田町方面から三田へ移りました。駐日イタリア大使館は、現在地を大使館所在地として使い始めた年を1930年としています。敷地は松平隠岐守家の屋敷跡で、赤穂浪士のうち十人が預けられ、1703年に切腹した場所でもあります。

戦災で旧建物を失った後、公邸は1965年に完成しました。深い軒、庭の池、屋内外をつなぐ構成には、日本建築の要素とイタリアのモダニズムが重なります。事務棟は2005年に改修されました。三田の台地と庭園は、江戸の屋敷地、近代外交、戦後建築という三つの時間を同じ敷地に残しています。
なぜ大使館は番町・赤坂・芝・麻布に集まったのか
最初の外国公館は、幕府が監督しやすい寺院や、外国人居留地に近い開港場に置かれました。高輪の東禅寺、麻布の善福寺、横浜の外国人居留地などです。しかし明治政府の制度が整い、外交交渉が外務省を中心に日常化すると、使節団は皇居と霞が関へ通いやすい場所を求めました。
番町、赤坂、芝、麻布には、旧大名屋敷や寺社地を転用できる広い土地がありました。台地は低地より水害を受けにくく、庭園、公邸、事務所を一つの敷地に置きやすい利点もあります。道路が整い、高級住宅地が形成されるにつれ、大使館の存在そのものが地域の性格を強めました。
一方で、国会議事堂と官庁街の建設は外交地図を組み替えました。永田町周辺からベルギー、イタリア、ソ連などの公館が移ったのは、国家中枢の再配置と連動した動きです。大使館の分布は、単なる「外国の建物の集まり」ではなく、東京が江戸の屋敷地を近代国家の首都へ作り替えた過程を映しています。
建物が変わっても土地に残った外交史
1923年の関東大震災では、英国、米国、オランダなどの公館が倒壊・焼失しました。1940年代には戦争による断交と空襲が続き、メキシコやイタリアなどの建物も失われます。それでも外交関係が回復すると、多くの国が以前の敷地へ戻り、新しい庁舎を建てました。
現在の姿だけを見れば、英国の震災復興建築、ベルギーの2010年の庁舎、イタリアの1965年の公邸は別の時代の建物です。土地の履歴をたどると、同じ区画が条約改正、二つの世界大戦、占領と講和、冷戦、現代の再開発を受け止めてきたことが分かります。「最古の建物」では見えない、場所の継続が東京の外交史を形にしています。
参考文献・参考サイト
- 外務省「駐日外国公館リスト」
- 駐日英国大使館「駐日英国大使館の歴史を振り返る写真展」
- 駐日英国大使館「駐日英国大使館敷地の交換契約締結式」
- 英国政府「British Embassy and residence Tokyo, compound refurbishment」
- From Dejima to Tokyo「From Dejima to Tokyo」
- 東京都「Tokyo Embassy Talk: Japan and the Netherlands」
- 米国国務省歴史局「Japan」
- 駐日メキシコ大使館「Historia de la Relación Bilateral」
- 駐日スペイン大使館「Embassy of Spain in Tokyo」
- スペイン官報「東京の新大使館庁舎建設契約」
- ベルギー外務省「Diplomatic relations」
- 外務省外交史料館「外交史料 Q&A その他」
- 駐日ロシア大使館「大使館の沿革」
- 駐日イタリア大使館「大使館公邸と事務棟」

