1893年、麹町区中六番町の洋館に朝鮮国の旗が掲げられていました。門の内側では公使と書記官が日本政府との往復文書を作り、建物は一国の外交権を目に見える形で示していました。現在の千代田区四番町にあたる場所です。公館の役割は1905年に失われ、1910年には国号とともに東京の外交団から消えました。
帝国の解体、王朝交代、併合、分断国家の統一、限定承認政体の消滅では、公館の処理も異なりました。後継国が土地や文書を引き継いだ例がある一方、外交権の喪失と同時に閉鎖された公館もあります。残された土地、建物、文書、職員の行方には、それぞれの国家や政体が終わった過程が刻まれています。
同じ土地で現在まで続く公館は、東京で最も歴史ある現役大使館ランキングで紹介しています。こちらで追うのは、その反対側にある歴史です。
国が消えたとき大使館はどうなるのか
大使館や公使館は、派遣国が受入国との外交を担う国家機関です。明治期には大使館より格の低い「公使館」が一般的で、日本に置かれた外国公館も多くが公使館でした。両国が代表の格を引き上げると大使館になります。こうした制度と日本側の外交機構の変化は、日本外交史の流れと重なります。
国家が解体すれば、後継国どうしが在外資産や債務を分ける場合があります。王朝交代では、新政府が旧政府の外交機能を引き継ぐこともあります。併合では、併合された側の外交権と公館が消えます。統一では、一方の政府機関が閉じられ、他方へ文書や財産が移ります。実際の処理は、国際法上の承継だけでなく、日本政府がどの政府を承認したか、土地が所有か賃貸か、戦争や接収を挟んだかによって変わりました。
公館が閉じると、外交官の特権がいつまで認められるか、暗号文書や公印を誰が保管するか、建物の鍵と登記を誰へ渡すかという実務が生じます。外交関係の断絶だけなら、第三国が利益代表として建物や在留者を守る場合もあります。後継政府が承認されれば、同じ建物で国旗と看板だけが替わることもあります。東京の事例は、この制度が政治変動の現場でどのように働いたかを示しています。
コラム|ハワイ王国の外交代表
ハワイ王国は1881年、カラカウア王の来日を機に日本との関係を深め、移民交渉も進めました。1893年の王政転覆、1898年の米国併合によって、独立国ハワイの外交代表は役割を終えました。
帝政ロシアの公使館・大使館
帝政ロシアの東京公館は、芝の寺院などを経て、1873年に麹町区裏霞ケ関一番地へ移りました。現在の霞が関官庁街にあたる一帯です。広い旧大名屋敷地に公使館が置かれ、1907年に日露双方の代表格が引き上げられると大使館になりました。
1917年3月の二月革命後、ワシーリー・クルペンスキーはロシア臨時政府の駐日大使として職務を続けました。11月の十月革命で臨時政府が倒れた後、日本政府はソヴィエト政権を承認せず、霞が関の旧大使館には旧政権系の職員が残って在日ロシア人の保護や財産管理などを扱いました。クルペンスキー離日後は代理者が実務を引き継ぎ、1925年の日ソ国交樹立まで旧ロシア公館の事務が続きました。
霞が関の旧公館地は、国会議事堂と中央官庁街の建設に伴って整理されました。1925年の日ソ基本条約で日本がソ連を承認すると、ソ連側は新しい駐日公館を設け、1928年に麻布台へ移りました。帝政期の霞が関公館は都市整備の中で姿を消し、外交機能は麻布台のソ連大使館へ移りました。
清国公使館
清国は1877年に何如璋を駐日公使に任命し、翌年1月、芝山内の月界院を仮公使館としました。同年10月には麹町区永田町二丁目へ移ります。外務省記録には、旧華族会館の建物と土地を清国公使館へ貸し渡す経緯が残っています。現在の国会議事堂周辺に近い場所でした。
1894年に日清戦争が始まると外交関係は断たれ、公使館の通常業務も止まりました。講和後に関係が戻り、永田町の公館は再び中国側の外交拠点となります。1911年の辛亥革命と1912年の清朝退位で清王朝が終わり、中華民国政府が代表権と公館機能を引き継ぎました。
そのため、清国公使館の看板は中華民国公使館へ替わりましたが、土地、職員、文書の処理は王朝交代に伴う機関承継として進みました。公使館に蓄積された条約、在留者、通商、領事案件の記録は、新政府が日本との関係を続けるうえで必要な行政資産でした。王朝の終焉と外交実務の継続が同時に起きた例です。
1928年、国会議事堂と官庁街の整備に伴い、中華民国大使館は永田町から飯倉方面へ移っています。土地は日本政府から貸し渡された経緯があり、都市計画による移転も政府間の土地処理として進みました。清国公使館跡は、王朝の消滅と首都改造が重なった場所です。
朝鮮王朝・大韓帝国の公使館
朝鮮国は1876年の日朝修好条規後、日本との常設外交を整えました。東京の公使館は移転を重ね、1888年に日本政府が麹町区中六番町の土地を買い上げ、公使館用地として貸し渡しました。1893年の写真に写る洋館は、その外交関係を支えた建物です。
1897年、高宗が皇帝に即位して国号を大韓帝国とすると、公館も大韓帝国の公使館となりました。1905年11月、第二次日韓協約によって大韓帝国は日本以外の国との外交権を奪われます。条約は日本軍の展開と政治的圧力の下で締結され、韓国側では皇帝の批准を欠くことが問題となりました。東京公使館も独立した外交機関として存続できなくなります。
1910年の韓国併合で大韓帝国は日本の植民地となり、公使館は閉鎖されました。公使や書記官が日本政府と交渉する場は失われ、朝鮮に関する行政は日本の植民地統治機構へ移されました。公使館の閉鎖は、大韓帝国が外交権と主権を失った結果でした。
中六番町の公使館建物は失われました。日本政府が民有地を買い上げて朝鮮国へ貸し渡した経緯は公文書に残り、1893年の写真には門、旗竿、洋館の外観が写っています。現在の四番町に残る土地記録と写真から、当時の外交拠点の位置と姿をたどれます。
オーストリア=ハンガリー帝国の公館
日本とオーストリア=ハンガリーは1869年に修好通商航海条約を結びました。東京の公館は願海寺、築地居留地などを経て移り、1878年には麹町区紀尾井町三番地の土地が公使館用地として貸し渡されています。1883年に公使館、1907年には大使館の格となりました。
第一次世界大戦で日本が連合国側として参戦すると、1914年に両国の外交関係は断絶します。1918年、ハプスブルク帝国はオーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアなどへ解体しました。紀尾井町の帝国大使館は閉鎖され、戦後は新たに成立した各国が日本との外交関係を個別に結び直しました。
戦後のオーストリア共和国は1955年、元麻布に新たな公館用地を取得し、1957年に公使館を大使館へ昇格させました。帝国期の外交拠点は紀尾井町、共和国の大使館は元麻布に置かれています。
満州国大使館
満州国は1932年、関東軍が満州事変で支配を広げた地域に成立しました。日本は同年に承認しました。国際連盟総会は満州国の成立を承認せず、承認国は日本とその同盟・友好国など限られた範囲にとどまりました。
東京の外交拠点は当初、平河町の万平ホテルに置かれました。満州国側は1932年12月、元麻布にあった旧後藤新平邸を購入し、1933年1月に公署を移します。その後、大使館となった建物は、広い庭を持つ旧邸宅を利用したものでした。日本の政治家の邸宅が、日本の強い軍事・政治的関与の下で成立した政体の公館へ転用されました。
皇帝となった溥儀は1935年と1940年に訪日し、天皇との会見や式典に臨みました。訪問は対等な二国間外交を演出する機会でしたが、満州国の政策と軍事には日本側が深く関与していました。

1945年8月、ソ連軍の侵攻と日本の敗戦の中で満州国は消滅しました。東京の大使館も閉鎖され、派遣されていた職員は外交官としての資格を失いました。公印、電報、対日交渉文書は接収・整理され、土地と建物も占領下の管理対象となりました。
昭和館に残る1947年の写真には、元麻布の建物が「旧満州国大使館」として記録されています。建物は戦後もしばらく残りましたが、その後解体され、現在の元麻布に当時の公館建築は残っていません。
ソ連大使館
ソ連の駐日公館は1925年の国交樹立後に始まり、1928年から麻布台の現在地を使いました。帝政ロシアの霞が関公館とは異なり、革命後のソ連政府が新たに整えた外交拠点です。1945年の日ソ関係断絶を挟み、1956年の日ソ共同宣言で国交が回復すると、同じ麻布台で大使館活動が再開しました。
1991年12月にソ連が解体すると、十五の構成共和国が独立しました。ロシア連邦は国連に対し、ソ連の加盟国としての地位を継続すると通知し、在外公館の多くでも外交機能を引き継ぎました。独立国家共同体と各国の関係は、CISとは何かで詳しく整理しています。
麻布台では、看板と国旗がソ連からロシア連邦へ替わり、土地と庁舎もロシア連邦へ継承されました。大使館機能は同じ場所で続いています。

東ドイツ大使館
日本は西ドイツと1952年に外交関係を結び、東ドイツとは1973年5月に国交を樹立しました。東京には二つのドイツ国家の大使館が並存します。1978年の外務省儀典官室資料を収録した港区史では、ドイツ民主共和国大使館の所在地は港区赤坂七丁目五番十六号、赤坂マンションと記されています。西ドイツ大使館は南麻布にあり、別々の政府を代表していました。
1989年にベルリンの壁が開き、1990年10月3日、東ドイツの各州がドイツ連邦共和国へ加わる形で統一が実現しました。東ドイツ大使館は独立した公館としての根拠を失い、在日代表機能は西ドイツ側を継承した統一ドイツ大使館へ一本化されます。職員の雇用、賃貸契約、備品、機密文書は閉館作業の対象となり、外交記録は統一国家の外務省と公文書制度へ引き継がれました。ドイツ外務省の政治文書館は、現在、東ドイツ外務省を含む外交記録を所蔵しています。
東ドイツ大使館は赤坂マンション内に置かれた小規模な公館でした。1990年の統一で閉鎖され、在日代表機能は南麻布の統一ドイツ大使館に集約されました。赤坂七丁目の所在地は外交公館としての役割を終えました。
南ベトナム大使館
1954年のジュネーブ協定後、ベトナムは北緯十七度線付近を境に暫定的に分かれました。南側では1955年にベトナム共和国が成立し、日本は同政府と外交関係を持ちます。東京のベトナム共和国大使館は渋谷区元代々木町五十番十一号に置かれました。現在のベトナム社会主義共和国大使館と同じ住所です。
1975年4月30日にサイゴン政府が崩壊すると、ベトナム共和国大使館は外交代表としての根拠を失いました。館員には帰国、第三国への移動、日本での在留資格の整理が必要となり、領事文書や公館財産も閉鎖処理の対象になりました。政府の消滅によって、館員の外交官としての地位も失われました。
日本は1973年にベトナム民主共和国と国交を結び、1975年10月にハノイへ日本大使館を開設しました。1976年1月にはベトナム民主共和国大使館が東京に開かれ、同年7月、南北統一によってベトナム社会主義共和国大使館となりました。日本の外交相手は、ベトナム共和国から統一国家へ移りました。
元代々木町五十番十一号は、現在もベトナム社会主義共和国大使館の住所です。1975年にベトナム共和国大使館が閉鎖された後、1976年にベトナム民主共和国大使館が東京で開設され、同年7月から統一国家の大使館となりました。統一後の政治と社会の変化は、1975年からドイモイまでのベトナムへ続きます。
東京にあった消滅国家の公館一覧
| 国・政体 | 公館と所在地 | 終わりと後継 |
|---|---|---|
| 帝政ロシア | 公使館→大使館 裏霞ケ関1番地 | 1917年革命。1925年にソ連との国交開始。麻布台は別敷地 |
| 清国 | 公使館 永田町2丁目 | 1912年清朝退位。中華民国公館へ移行 |
| 朝鮮国・大韓帝国 | 公使館 中六番町 | 1905年外交権喪失、1910年併合で閉鎖 |
| オーストリア=ハンガリー | 公使館→大使館 紀尾井町など | 1914年断交、1918年帝国解体。戦後にオーストリア、ハンガリーが別公館 |
| 満州国 | 公署→大使館 平河町、元麻布 | 1945年消滅。旧後藤新平邸の建物も現存せず |
| ソ連 | 大使館 麻布台 | 1991年解体。ロシア連邦が公館機能を継承 |
| 東ドイツ | 大使館 赤坂7丁目 | 1990年ドイツ統一。代表機能を統一ドイツへ一本化 |
| 南ベトナム | 大使館 元代々木町 | 1975年サイゴン政府崩壊。統一ベトナムとの外交へ移行 |
現在もたどれる場所
最も形が分かりやすいのは麻布台です。ソ連からロシア連邦へ継承された大使館が現在も同じ土地にあります。元代々木町のベトナム大使館も、南ベトナム大使館が置かれた住所と重なります。いずれも現役の外交施設で、歴史をたどれる範囲は公道から見える街並みと所在地です。
朝鮮公使館の中六番町は現在の四番町、清国公使館の永田町は国会議事堂周辺、帝政ロシアの裏霞ケ関は官庁街へ姿を変えました。元麻布と赤坂では当時の公館建築が失われ、旧町名、公文書、古写真が往時の位置を伝えています。
麻布台ではソ連の土地と公館機能をロシア連邦が継承し、永田町では清国公使館の機能を中華民国が引き継ぎました。四番町の大韓帝国公使館は外交権の喪失とともに閉鎖され、元麻布の満州国大使館と赤坂の東ドイツ大使館は建物や用途を失いました。東京に残る土地と消えた公館の違いは、それぞれの国家や政体が終わった経緯を伝えています。
参考文献・参考サイト
- 外務省外交史料館
- 外務省「日本外交文書デジタルアーカイブ」
- 川崎晴朗「明治時代の東京にあった外国公館(2)」外務省調査月報
- 川崎晴朗「明治時代の東京にあった外国公館(5)」外務省調査月報
- 国立公文書館「朝鮮国公使館ヲ麹町区中六番町ニ移ス」
- アジア歴史資料センター「麹町区中六番町吉原重成所有地買上朝鮮国公使館用地トシテ貸渡一件」
- 外務省「日ソ基本条約」
- オーストリア外務省「Austria in Japan」
- オーストリア外務省「The Embassy Building」
- 昭和館デジタルアーカイブ「駐日満洲国公署」
- 昭和館デジタルアーカイブ「旧満州国大使館」
- 国際連合「Russian Federation」
- ドイツ外務省「Deutschland und Japan: Bilaterale Beziehungen」
- 港区「デジタル版 港区のあゆみ―区内における外国公館」
- 外務省『外交青書』1975年版
- 駐日ベトナム大使館「List of Viet Nam Ambassadors to Japan」

