横須賀製鉄所は、幕末の江戸幕府がフランスの技術協力を得て建設した造船・修船・機械製造の総合施設です。小栗忠順が計画を推進し、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが技術面を指導しました。「製鉄所」という名称から高炉による製鉄工場を想像しがちですが、中心となったのは船舶の建造・修理と、それを支える機械加工・鋳造・鍛造でした。
なぜ横須賀に造船所が必要だったのか
開港後の幕府は外国製軍艦を購入するだけでなく、国内で修理し、部品を製作し、技術者を育てる必要に迫られました。艦船を保有しても整備能力が海外に依存したままでは運用に制約が生じます。横須賀製鉄所は、海軍力を持続させるための産業基盤でした。
小栗忠順とフランス側の協力
小栗は財政・外交・軍事を担当した幕臣として事業を推進しました。駐日フランス公使レオン・ロッシュらとの交渉を経て、技師ヴェルニーが工場配置、設備、建設を指導しました。日本人の役人・職人・技術者も工事と運営に参加し、外国技術を国内に定着させる役割を担いました。
1865年の起工から明治政府への継承
慶応元年(1865年)11月15日に鍬入れ式が行われました。建設中に江戸幕府は崩壊しましたが、事業は明治政府に引き継がれ、1871年に横須賀造船所と改称されました。その後、横須賀海軍工廠へ発展します。幕府の政権交代をまたいで設備と技術が継承された点が重要です。
工場では何をしていたのか
造船・修船とドライドック
ドライドックは船を入れて排水し、船底の点検や修理を行う施設です。横須賀では石造ドライドックが整備され、艦船の維持管理を国内で行う基盤となりました。旧製鉄所のドック群は近代産業遺産としても重要です。
鋳造・鍛造・機械加工
艦船の修理には金属部品、工具、機械の製作が不可欠です。横須賀製鉄所では鋳造、鍛造、機械加工などの機能が整えられました。船そのものだけでなく、造船を可能にする工業技術を蓄積する施設でした。
技術者の養成
工場の継続的な運営には、設備の導入と並んで技術者の育成が欠かせません。測量、製図、機械の操作と保守などを習得する日本人技術者の育成が、事業の継続性を支えました。
横浜製鉄所はどのような役割を担ったのか
横須賀の大規模工場を建設するには、機械や工具を先に整え、部品加工や修理の能力を確保する必要がありました。その準備拠点となったのが横浜製鉄所です。横須賀の建設と横浜での機械・修理の実務を合わせて考えると、幕府が単一の造船所だけでなく、近代的な工業基盤そのものを育てようとしていたことが分かります。
第1号ドックの完成とメートル法
横須賀製鉄所の石造第1号ドックは明治4年(1871年)に完成しました。フランス人技術者の設計によりメートル法が使われ、日本人石工の技術も生かされました。船を入れて海水を抜き、船底の点検や修理をするドライドックは、軍艦を継続して運用するために欠かせない設備です。現在の米海軍横須賀基地内に残るドック群は、幕末から明治初期に始まる造船技術の歴史を伝えています。
1875年、軍艦「清輝」が進水
横須賀で建造された最初の軍艦は「清輝」で、明治8年(1875年)に進水しました。工場が完成したというだけでなく、日本人が外国人技術者とともに造船の経験を積み、艦船の建造へと進んだことを示す出来事です。建造の中心は明治政府への継承後であり、幕府時代の成果と明治政府時代の成果を時代ごとに区別すると、事業の継続性がより鮮明になります。
製鉄所の学校――数学から始まった技術者育成
横須賀製鉄所には日本人技術者を育てる学校が設けられ、代数・幾何・解析・三角関数などが教えられました。フランスのエコール・ポリテクニック出身のアドルフ・デュポンや、エコール・サントラル出身のポール・サルダらが指導に当たりました。設備と同時に教育制度も導入したことが、幕末から明治の技術移転を考える鍵です。
兵庫商社との違い
横須賀製鉄所は造船・修船と機械工業を担う生産施設です。これに対し兵庫商社は、開港を見据えて商業・金融・流通を組織化しようとした仕組みです。両者は小栗の政策を理解するうえで比較できますが、同一事業ではありません。兵庫商社の詳細は別記事で、構想と実績を分けて扱います。
現在どこで歴史を見られるのか
旧製鉄所の中心部は現在の米海軍横須賀基地内に位置します。周辺のヴェルニー公園、ヴェルニー記念館、よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸、横須賀市自然・人文博物館などが、横須賀の近代化を知る手がかりです。施設ごとの公開状況は訪問前に公式案内を確認してください。
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参考資料
- 横須賀市・横須賀製鉄所の公式解説
- 横須賀市観光情報・小栗忠順
- アイキャッチ写真:ライムント・フォン・スティルフリート撮影、1872年の横須賀造船所での明治天皇一行。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

