『サン・シティ』とは何だったのか|スターたちがアパルトヘイトに挑んだ1985年

南アフリカの高級リゾート・サン・シティの入口

1985年、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、マイルス・デイヴィス、Run-D.M.C.、ボノ、ルー・リード、ジミー・クリフらが、一つの曲に参加しました。

曲名は『Sun City(サン・シティ)』。南アフリカの高級リゾートと同じ名前です。参加者は、そこで演奏しないという意思を歌にしました。

この曲の標的は一つの娯楽施設にとどまらず、サン・シティを成立させたホームランド政策、南アフリカの人種隔離体制、国際的な文化ボイコットを破る公演、制裁に消極的だったアメリカ政府の政策にまで及びました。

『サン・シティ』は何に抗議した曲だったのか

『サン・シティ』は、Artists United Against Apartheid(アーティスツ・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)が1985年に発表した反アパルトヘイト曲です。

団体名は「アパルトヘイトに反対するアーティスト連合」を意味します。50人を超える音楽家が参加し、ロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、ジャズ、レゲエ、ラテン音楽、アフリカ音楽を一つの作品に集めました。

中心となったメッセージは明確です。参加者は、アパルトヘイト体制下の高級リゾート、サン・シティでは演奏しないと表明しました。

南アフリカの高級リゾート・サン・シティの入口
南アフリカのサン・シティ。撮影:Maccoinnich/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

売上による資金援助も行われました。レコード、映像、関連書籍から生じたアーティスト印税はThe Africa Fundへ寄付され、南アフリカの政治犯と家族、国外へ逃れた人々の教育・文化活動、アメリカ国内の反アパルトヘイト教育に使われました。

作品は一枚のレコードで完結せず、ミュージックビデオ、ドキュメンタリー、書籍、教育用ガイドと組み合わされました。音楽を入口として、アパルトヘイトの制度を知ってもらう教育プロジェクトでもありました。

サン・シティとはどのような場所だったのか

サン・シティは、南アフリカ北西部のピラネスバーグ地域に建設された大規模リゾートです。1979年12月に開業し、ホテル、カジノ、ゴルフ場、人工湖、プール、コンサート会場などを備えていました。

施設があったのは、当時の南アフリカ政府が「独立国」と位置づけたボプタツワナです。ボプタツワナを南アフリカ国外として扱うことで、南アフリカ本国では制限されていたカジノなどの娯楽を提供できました。

国際的なスターの公演も、施設の大きな呼び物でした。フランク・シナトラ、クイーン、ロッド・スチュワート、エルトン・ジョンなどがサン・シティで公演し、反アパルトヘイト団体から批判を受けました。

批判は観客の人種構成だけでなく、高額な出演料を受け取って公演する行為そのものにも向けられました。南アフリカを文化的に孤立させようとする国際運動を弱めると考えられたためです。

ボプタツワナとホームランド政策

ホームランド政策が黒人の政治的権利を奪った

アパルトヘイトは、住居、教育、雇用、移動、結婚、公共施設などを人種によって分けた制度です。1948年に国民党が政権を握ると、人種隔離は多数の法律によって体系化されました。

その一部がホームランド政策です。南アフリカ政府は、黒人住民を民族別に分け、国土の一部を「ホームランド」としました。黒人を南アフリカ国民ではなく各ホームランドの住民として扱えば、南アフリカ全体の政治参加から排除できるという仕組みでした。

ホームランドの土地は国土の一部に限られ、地域も分断されていました。多くの住民は仕事を得るため、ホームランドの外にある都市や鉱山への移動を強いられました。

1986年時点の南アフリカに設けられたホームランドの分布図
1986年時点の南アフリカのホームランド分布。CIA/University of Texas Perry-Castañeda Map Collection/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

飛び地に分かれた「独立国」

ボプタツワナは、ツワナ系住民のホームランドとして設けられました。領域は一続きではなく、複数の飛び地に分かれていました。

1977年、南アフリカ政府はボプタツワナを「独立国」としました。しかし、国際社会では独立国家として承認されず、アパルトヘイト体制が作った名目的な国家と見なされました。

南アフリカ内に分散していたボプタツワナの領域を赤色で示した地図
旧ホームランド・ボプタツワナの位置。作成:Htonl/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

この制度によって、南アフリカ政府は黒人を形式上の「外国人」として扱おうとしました。ボプタツワナには政府、議会、警察などが置かれましたが、南アフリカへの経済的依存が強く、反対運動への弾圧も行われました。

一方で、サン・シティには世界各地から裕福な観光客が訪れました。貧困が広がるホームランドの中に豪華なリゾートが置かれた構図も、反アパルトヘイト運動が同施設を象徴的な標的とした理由です。

文化ボイコットとは何か

アパルトヘイトに対する国際的な圧力には、経済制裁、投資撤退、スポーツ交流の停止、文化交流の停止などがありました。

文化ボイコットは、音楽家、俳優、作家、映画関係者、教育・文化機関などに、南アフリカとの交流を控えるよう求める運動です。南アフリカ政府が国際的な文化活動を利用して、通常の国家として認められているように見せることを防ぐ狙いがありました。

国連総会は1980年12月、決議35/206 E「南アフリカに対する文化、学術その他のボイコット」を採択しました。各国に文化・学術・スポーツなどの交流を阻止する措置を求め、芸術家や音楽家にも南アフリカをボイコットするよう呼びかけました。

国連反アパルトヘイト特別委員会などは、南アフリカで公演した芸能人の登録簿も公表しました。これは世界共通の刑罰を科す法律ではなく、公演の事実を可視化し、出演を断る圧力を作る手段でした。

サン・シティはボプタツワナにあるため、施設側は南アフリカ国外での公演だと説明できました。反アパルトヘイト運動側は、その形式的な区別を退けました。ボプタツワナ自体がアパルトヘイト政策によって作られたためです。

Artists United Against Apartheidはどう作られたのか

スティーヴン・ヴァン・ザントが音楽家を集めた

企画の中心人物は、スティーヴン・ヴァン・ザントです。ブルース・スプリングスティーンのEストリート・バンドでギターを担当し、Little Stevenの名でも活動していました。

『Sun City』を企画したスティーヴン・ヴァン・ザントの2012年の写真
スティーヴン・ヴァン・ザント、2012年。撮影:Takahiro Kyono/Wikimedia Commons/CC BY 2.0。

ヴァン・ザントは南アフリカを訪れ、アパルトヘイトの実態と、音楽家が高額な出演料でサン・シティに招かれている状況を調べました。帰国後、音楽家が同施設で演奏しないことを公に示す企画を進めました。

団体は1985年に結成されました。共同制作者には、ヒップホップやダンス音楽の制作で知られるアーサー・ベイカー、ジャーナリストのダニー・シェクターらがいました。

ベイカーが制作に加わったことで、作品は当時のロック系スターを順番に歌わせる形式を取らず、ラップ、電子的なビート、ファンク、ジャズ、レゲエ、各地の音楽が交差する構成になりました。

曲、映像、書籍、教育活動を組み合わせた

レコーディングだけでなく、映像制作にも多くの関係者が参加しました。1987年のドキュメンタリー『The Making of Sun City』には、音楽家、制作者、The Africa Fundの関係者、南アフリカ解放運動の関係者へのインタビューが収録されています。

ミュージックビデオは1985年10月30日に国連で公開されました。作品の教育用パンフレットは、音楽を聴くだけでなく、映像、書籍、授業用ガイドを使ってアパルトヘイトについて議論することを提案しています。

この構成により、『サン・シティ』は有名人が一度集まって歌う企画ではなく、継続的な教育と運動のための素材になりました。

参加した音楽家をジャンル別に見る

参加者は一つの音楽業界や世代を越えていました。African Activist Archiveに記録された主な参加者を、音楽的な背景ごとに整理すると次のようになります。

分野主な参加者
ロック、シンガーソングライターブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ルー・リード、ジョーイ・ラモーン、ボノ、ピーター・ガブリエル、ピート・タウンゼント、ジャクソン・ブラウン
ヒップホップRun-D.M.C.、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・メリー・メル、カーティス・ブロウ、デューク・ブーティー、ファット・ボーイズ
ソウル、R&B、ファンクジョージ・クリントン、デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ダーリーン・ラヴ、ボビー・ウーマック、ノーナ・ヘンドリックス
ジャズマイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、スタンリー・ジョーダン
レゲエ、ダブ・ポエトリージミー・クリフ、ビッグ・ユース、リントン・クウェシ・ジョンソン
ラテン、アフリカ音楽ルベーン・ブラデス、レイ・バレット、ソニー・オコスン、マロポエッツ、ヴィア・アフリカ
演奏参加リンゴ・スター、ザック・スターキー、クラレンス・クレモンズ、キース・リチャーズ、ロン・ウッドほか

参加者の豪華さだけでなく、1985年の時点でロック、ヒップホップ、ジャズ、レゲエを同じ政治的メッセージの中に配置した点が特徴です。

Run-D.M.C.などのラッパーは、曲の飾りとして短く参加したのではなく、社会問題を語る重要な声を担いました。ジャズ奏者も別録りの演奏者にとどまらず、アルバム内の楽曲に参加しています。

歌詞は何を批判したのか

歌詞の中心は、公演拒否の宣言です。その理由として、次の問題が挙げられています。

  • 黒人住民を名目的なホームランドへ移す政策
  • 家族や地域社会の分断
  • 黒人多数派に南アフリカ全体の参政権がないこと
  • 暴力と抑圧が続く中で、海外の音楽家が高額な報酬を受け取ること
  • アメリカ政府が南アフリカへの強い制裁に消極的だったこと

歌詞では、レーガン政権の「建設的関与」も批判されました。

建設的関与は、南アフリカとの関係を維持しながら、対話と段階的改革を促す政策です。レーガン政権は、広範な経済制裁が黒人住民や周辺諸国にも打撃を与え、暴力的混乱を招く可能性があると説明しました。

反対派は、この政策が南アフリカ政府への圧力を弱め、アパルトヘイト体制の存続を助けていると批判しました。『サン・シティ』は、娯楽施設への出演拒否とアメリカ外交への批判を一つの歌に入れています。

We Are the Worldとは何が違ったのか

1985年には、アフリカの飢餓救援を目的とした『We Are the World』も発表されました。どちらも多数の有名音楽家が参加したため、現在でも比較されます。

両者は社会問題への働きかけ方が異なります。

比較We Are the WorldSun City
主な目的飢餓救援の資金を集めるアパルトヘイトへの文化ボイコットを広げる
聴衆に求めた行動レコード購入や寄付南アフリカ公演を拒否する運動への支持
政府・制度への批判救援を中心とし、直接的な政府批判は抑制南アフリカ政府、ホームランド政策、アメリカ政府の対応を批判
音楽構成ポップ・バラードを中心とするロック、ラップ、ファンク、ジャズ、レゲエなどを混合
資金の用途飢餓救援政治犯の家族、亡命者、反アパルトヘイト教育など

『サン・シティ』を『We Are the World』への正式なアンサーソングとする位置づけは、今回確認した一次資料による裏づけを欠きます。同じ年に生まれた、方法の異なるオールスター企画として捉える方が正確です。

商業成績より大きかった教育的な役割

『サン・シティ』は、イギリスの公式シングルチャートで最高21位を記録しました。アメリカではBillboard Hot 100の最高38位とされ、参加者の知名度に比べると商業的には巨大ヒットに至らず、

作品は1987年のグラミー賞で「Best Rock Performance by a Duo or Group with Vocal」と「Best Music Film」にノミネートされました。

The Africa Fundの教育資料は、曲、ビデオ、書籍、授業用ガイドを学校や地域団体で利用することを想定していました。商業チャートだけでは測れない役割が、反アパルトヘイト教育と文化ボイコットの可視化にありました。

また、参加者が公演拒否を公に宣言したことで、「サン・シティから高額な出演依頼を受けたらどうするか」という判断が、音楽業界全体の問題として扱われるようになりました。

『サン・シティ』はアパルトヘイトを終わらせたのか

アパルトヘイト廃止は、南アフリカ国内の抵抗と国際的な圧力が重なった結果であり、『サン・シティ』一曲だけに還元できるものではなく、複数の要因から捉える必要があります。

南アフリカ国内では、黒人住民、労働組合、市民団体、学生、宗教者、アフリカ民族会議などによる抵抗が続いていました。国外でも経済制裁、投資撤退、スポーツ・文化ボイコット、外交圧力が重なりました。アパルトヘイト廃止には、南アフリカの経済・政治状況、冷戦終結、政府と解放運動の交渉なども関わっています。

1980年代の南アフリカで行われた反アパルトヘイト抗議運動
1980年代の南アフリカにおける反アパルトヘイト抗議運動。撮影:Paul Weinberg/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

『サン・シティ』が果たした役割は、その複雑な運動を音楽ファンに見える形へ変えたことです。ホームランド、参政権、文化ボイコット、アメリカ外交といった問題を、スターが出演を断るという具体的な行動へ結びつけました。

印税による資金援助も実施され、映像や教育資料も残されました。音楽が政策を直接変更したというより、問題を知らせ、参加の方法を示し、国際的な圧力を広げる手段になりました。

その後のサン・シティと南アフリカ

1990年、ネルソン・マンデラが釈放されました。1994年には全人種が参加する総選挙が行われ、マンデラが大統領に就任しました。

ボプタツワナを含むホームランドは南アフリカへ再統合されました。サン・シティは現在も北西州のリゾートとして営業しています。

現在のサン・シティは、アパルトヘイト期とは異なる政治制度の下で営業しています。ただし、その名前は1985年の曲によって、文化ボイコットと音楽家の社会的責任を考える歴史的な言葉として残りました。

よくある質問

サン・シティは南アフリカ国外にあったのですか

地理的には南アフリカの国土内にありました。当時の南アフリカ政府は、所在地のボプタツワナを独立国と位置づけていましたが、国際社会では独立国家として扱われず、アパルトヘイト体制が作った名目的な国家と見なされました。

曲の売上はすべて寄付されたのですか

African Activist ArchiveとThe Africa Fundの資料では、レコード、ビデオ、関連書籍から生じたアーティスト印税がThe Africa Fundへ寄付されたと説明されています。政治犯と家族、国外へ逃れた南アフリカ人、反アパルトヘイト教育などに配分されました。

参加者全員が同じ場所で歌ったのですか

参加者は複数の録音や映像制作に関わり、歌唱だけでなく楽器演奏やアルバム収録曲への参加もありました。参加者には、主旋律を順番に歌った人物だけでなく、楽器演奏やアルバム収録曲を担った音楽家も含まれます。

サン・シティで公演した音楽家は違法行為をしたのですか

文化ボイコットは国際的な政治・社会運動であり、世界共通の刑罰法規ではなく、公演した音楽家は、反アパルトヘイト運動や業界団体から批判され、国連関係機関が作成した登録簿に記載される場合がありました。

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音楽による寄付、抗議歌、文化ボイコット、反人種差別運動を、8本の記事で解説しています。

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  3. We Are the WorldとSun Cityは何が違ったのか|寄付と抗議に分かれた1985年
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  6. 日本にも反アパルトヘイト運動があった|「名誉白人」と南アフリカをめぐる日本
  7. 文化ボイコットとは何か|南アフリカで演奏したスターはなぜ批判されたのか
  8. ロック・アゲインスト・レイシズムとは|英国のパンクとレゲエが極右に対抗した音楽運動

まとめ

『サン・シティ』は、高級リゾートを題材にした曲ではなく、アパルトヘイト体制を支えたホームランド政策と文化交流の利用に抗議した作品です。

サン・シティがあったボプタツワナは、南アフリカ政府が「独立国」としたホームランドでした。国際社会はその独立を認めず、反アパルトヘイト運動は同地での公演も南アフリカ公演と同じだと考えました。

Artists United Against Apartheidは、音楽家が出演を断るという行動を共同宣言に変えました。作品の印税は支援活動に使われ、映像、書籍、教育用ガイドも制作されました。

アパルトヘイト廃止は、南アフリカ国内の抵抗と国際的な制裁・交渉が重なった結果です。『サン・シティ』は、その国際運動を音楽の言葉で広げた代表的な記録です。

参考文献

  1. United Nations General Assembly, “Cultural, academic and other boycotts of South Africa,” A/RES/35/206[E], 16 December 1980
  2. United Nations Centre against Apartheid / Special Committee against Apartheid, “Register of entertainers, actors and others who performed in apartheid South Africa,” 1984
  3. African Activist Archive, “Artists United Against Apartheid”
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  7. South African History Online, “Rustenburg the Segregated City”
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  9. South African History Online, “Bophuthatswana, was Previously a Homeland”
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  15. Wikimedia Commons, “Bophuthatswana in South Africa.svg”
  16. Wikimedia Commons, “Southafricanhomelandsmap.png”
  17. Wikimedia Commons, “Steven Van Zandt (7479336458).jpg”
  18. Wikimedia Commons, “Anti-Apartheid Protest 02 F.jpg”