音楽はネルソン・マンデラ解放にどう関わったのか|「Free Nelson Mandela」から1988年コンサートまで

1937年にウムタタで撮影された19歳ごろのネルソン・マンデラ

1984年、イギリスのバンド、The Special AKAは『Free Nelson Mandela』を発表しました。

軽快なスカとアフリカ音楽のリズムに乗せて繰り返されたのは、南アフリカで長期収監されていたネルソン・マンデラを釈放せよという要求です。曲は全英シングルチャート9位まで上昇しました。

4年後の1988年、ロンドンのウェンブリー・スタジアムではマンデラ70歳記念コンサートが開かれ、60か国以上へ中継されました。投獄された一人の政治指導者の名前が、テレビと音楽を通じて世界中の家庭へ届きました。

マンデラの釈放には、南アフリカ国内の抵抗、国際制裁、経済状況、政治交渉などが重なりました。音楽は、マンデラの名前と解放要求を広げ、政治運動へ参加する入口を作りました。

マンデラはなぜ長く投獄されていたのか

ネルソン・マンデラは、アフリカ民族会議(ANC)に参加し、白人少数政権による人種隔離政策に反対しました。

当初のANCは非暴力の抗議を中心としていました。しかし、1960年のシャープビル虐殺後、政府はANCを非合法化し、多数の活動家を逮捕しました。マンデラらは、政府施設への破壊活動を行う武装組織ウムコント・ウェ・シズウェを結成しました。

マンデラは1962年に逮捕され、1964年のリボニア裁判で終身刑を言い渡されました。ロベン島の刑務所に収監され、採石場での労働や厳しい生活を課されました。1982年には本土のポルスモア刑務所へ移され、その後も収監が続きました。

1937年にウムタタで撮影された19歳ごろのネルソン・マンデラ
ネルソン・マンデラ、19歳ごろ、1937年。撮影者不詳/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。
ロベン島に残るネルソン・マンデラの旧独房を外側から見た様子
ロベン島のネルソン・マンデラ旧独房、1998年。White House Television crew/Clinton Presidential Library/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

南アフリカ政府は、マンデラの発言、写真、文章が社会に広がることを制限しました。それでも、ANC、家族、弁護士、海外の支援団体を通じて、獄中のマンデラはアパルトヘイトへの抵抗を象徴する人物になっていきました。

海外での解放運動は、南アフリカの政治犯釈放、ANCなどの合法化、非常事態の解除、全人種が参加する政治制度を求めました。

音楽以前から「マンデラを釈放せよ」という運動はあった

イギリスの反アパルトヘイト運動は、署名、デモ、議会への働きかけ、商品ボイコット、スポーツ・文化交流の停止などを続けていました。地方自治体、労働組合、教会、学生団体も、マンデラを名誉市民としたり、施設や通りに名前を付けたりしました。

音楽は、すでに存在した政治運動を広い聴衆へ運ぶ手段になりました。ライブ会場では資料が配られ、観客は署名、募金、団体加入、デモ参加へ案内されました。

1983年7月、ロンドンのアレクサンドラ・パレスで、マンデラ65歳を記念する「Festival of African Sounds」が開かれました。南アフリカ出身の音楽家ジュリアン・バフーラらが参加し、マンデラを題材にした曲が演奏されました。

The Specialsのジェリー・ダマーズは、この催しと楽曲から影響を受けたと回想しています。翌年、彼が書いた『Free Nelson Mandela』が発表されました。

『Free Nelson Mandela』は名前を世界へ広げた

明るい曲調で政治犯の存在を伝えた

『Free Nelson Mandela』は、1984年3月にThe Special AKA名義で発売されました。公式チャートでは10週間ランクインし、最高9位を記録しました。

曲は、スカ、ジャズ、南部アフリカの音楽を思わせる明るいリズムと合唱を使い、題名そのものを繰り返します。

この構成により、「ネルソン・マンデラ」という名前と「釈放せよ」という要求を、政治集会に参加していない音楽ファンも覚えられました。歌詞は、長期収監、家族との分離、南アフリカ政府による抑圧を簡潔に伝えています。

1986年にベルリンでFree Nelson Mandelaを掲げて行われた歌と踊りの公演
ベルリンの世界労働組合会議祝賀公演リハーサル、1986年。「Free Nelson Mandela」の表示が見える。撮影:Gabriele Senft/Bundesarchiv、加工:Crisco 1492/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0 DE。

反アパルトヘイト運動資料によると、この曲は南アフリカのサッカー会場でも抗議の曲として歌われました。政府が情報と集会を規制する中で、短い言葉と旋律を共有できる音楽は、解放要求を広める手段になりました。

ジェリー・ダマーズは運動組織にも参加した

作詞・作曲したジェリー・ダマーズは、学生時代から反アパルトヘイト運動に関心を持っていました。

曲の成功後も活動を続け、1986年にイギリスのArtists Against Apartheidを組織しました。この団体は、音楽家に南アフリカ公演を拒否するよう求め、文化ボイコットを広げました。

アメリカでスティーヴン・ヴァン・ザントらが作ったArtists United Against Apartheidと名称は似ていますが、別の組織です。両者は文化ボイコットと反アパルトヘイトという目的を共有しました。

南アフリカ出身音楽家は何を歌ったのか

ヒュー・マセケラの『Bring Him Back Home』

南アフリカ出身のトランペット奏者ヒュー・マセケラは、シャープビル虐殺後に国外へ出て活動しました。

2009年に演奏する南アフリカ出身のトランペット奏者ヒュー・マセケラ
ヒュー・マセケラ、2009年。撮影:Tom Beetz/Wikimedia Commons/CC BY 2.0。

マセケラは、マンデラから誕生日の手紙を受け取ったことをきっかけに、『Bring Him Back Home(Nelson Mandela)』を書きました。曲は、マンデラが自由になり、南アフリカの街を歩く未来を描きます。

この曲は1987年のアルバム『Tomorrow』に収録され、解放運動の代表曲になりました。1988年のウェンブリー公演でも、マセケラはマンデラ解放を訴える音楽家として参加しました。

ミリアム・マケバ、ユッスー・ンドゥール、スティーヴィー・ワンダー

南アフリカ出身のミリアム・マケバは、国外からアパルトヘイトを批判し、1960年代から国連でも証言しました。長期の亡命生活を送りながら、音楽活動と政治活動を結びつけました。

セネガルのユッスー・ンドゥールは1985年にマンデラを題材にしたアルバムを発表しました。スティーヴィー・ワンダーは同年、アカデミー歌曲賞をマンデラに捧げ、南アフリカ放送協会が彼の音楽を放送禁止にしました。

『サン・シティ』は解放要求を制度批判へ広げた

1985年の『Sun City』は、マンデラ個人の釈放だけでなく、アパルトヘイトを支えるホームランド政策、文化ボイコット破り、アメリカ政府の南アフリカ政策を批判しました。

『Free Nelson Mandela』が人物名と解放要求を広めたのに対し、『Sun City』は、その人物を投獄した制度と、制度を国際的に支える関係を可視化しました。

Artists United Against Apartheidには、ブルース・スプリングスティーン、マイルス・デイヴィス、Run-D.M.C.、ボノ、ジミー・クリフ、ボブ・ディランらが参加しました。

イギリスのArtists Against Apartheidと、アメリカのArtists United Against Apartheidは、1988年のマンデラ70歳記念キャンペーンへつながる国際的な音楽家ネットワークを作りました。

1988年の70歳記念コンサート

1988年6月11日、ロンドンの旧ウェンブリー・スタジアムで「Nelson Mandela 70th Birthday Tribute」が開催されました。

1988年のマンデラ70歳記念コンサート会場となった旧ウェンブリー・スタジアム
旧ウェンブリー・スタジアム、1991年。撮影:Adrian Cable/Geograph・Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0。

企画は、イギリスの反アパルトヘイト運動とArtists Against Apartheidが進めました。ジェリー・ダマーズ、Simple Mindsのジム・カー、プロデューサーのトニー・ホリングスワースらが音楽家と放送関係者を集め、ANCとも計画を協議しました。

巨大コンサートを政治運動の入口にした

出演者には、スティーヴィー・ワンダー、ホイットニー・ヒューストン、スティング、ジョージ・マイケル、Dire Straits、Simple Minds、ピーター・ガブリエル、ミリアム・マケバ、ヒュー・マセケラらが含まれました。俳優、コメディアン、ダンサーも登場しました。

観客数は、資料によって7万人台から9万人台まで記録が異なります。共通しているのは、スタジアムが満員となり、BBCの映像が60か国以上へ提供されたことです。ネルソン・マンデラ財団のアーカイブは、世界の推定視聴者を6億人と記録しています。

この催しは、「Nelson Mandela: Freedom at 70」キャンペーンの開始行事でした。

翌日には25人の活動家がグラスゴーからロンドンへ向けて行進を始め、各地で集会を開きました。7月17日のロンドン集会には多数の市民が参加し、デズモンド・ツツらがマンデラ解放を訴えました。

名称をめぐって放送上の調整があった

反アパルトヘイト運動は、明確な政治要求を持つ催しとして計画しました。一方、世界規模で放送するには、放送局や広告主との調整が必要でした。

イギリスの反アパルトヘイト運動の記録によると、BBCが政治的な攻撃を受けにくくするため、公演タイトルは直接的な「Free Nelson Mandela」ではなく、「70th Birthday Tribute」とされました。

アメリカではFoxが遅れて編集した番組を放送しました。出演者や音楽誌は、政治的発言や南アフリカへの言及が大幅に削られたと批判しました。

同じコンサートでも、国や放送局によって政治的メッセージの届き方は異なりました。

コンサート後、マンデラの知名度はどう変わったのか

イギリス反アパルトヘイト運動のアーカイブは、公演後の世論調査について、イギリス人の77%がマンデラを知り、そのうち70%が釈放を支持したと記録しています。

この数字は、主催運動のアーカイブが、テレビ中継を含む一連の運動後の知名度と支持を記録したものです。

コンサート会場では反アパルトヘイト運動への加入を呼びかける資料が配られました。運動の会員数は1989年に約4万人へ達したとされています。

音楽はマンデラを釈放させたのか

マンデラは1990年2月11日に釈放されました。1988年のコンサートから約1年8か月後です。

南アフリカ国内では、住民組織、労働組合、教会、学生、ANCなどによる抵抗が続いていました。国外では経済制裁、投資撤退、スポーツ・文化ボイコット、外交圧力が拡大しました。南アフリカ経済の悪化、地域紛争、冷戦終結、F・W・デクラーク政権の判断、政府とANCの秘密交渉も関わりました。

機能具体的な働き
名前を広げる「Nelson Mandela」という固有名を繰り返し伝えた
要求を単純化する「釈放せよ」という行動目標を共有した
人物と制度を結ぶ政治犯の存在からアパルトヘイト全体へ関心を広げた
支持者を集めるコンサートから署名、加入、行進、ボイコットへ案内した
国境を越える放送、レコード、ライブを通じて各国へ同じ要求を伝えた
政治的圧力を可視化する多数の著名人と視聴者が解放を支持していることを示した

1990年、マンデラはウェンブリーで支援者に答えた

釈放後の1990年4月16日、マンデラは再びウェンブリー・スタジアムの催しに登場しました。

1988年のコンサート当時、本人は獄中にいました。1990年にはイギリスを訪れ、長年解放を求めてきた人々へ直接感謝を述べました。

マンデラ釈放後も、アパルトヘイト関連法の廃止、政治犯の釈放、亡命者の帰国、暴力の停止、全人種参加選挙の実現に向けて、交渉と運動が続きました。

1994年4月、南アフリカで初めて全人種が参加する総選挙が行われ、マンデラが大統領に就任しました。

よくある質問

『Free Nelson Mandela』の正式な曲名は何ですか

英国公式チャートでは『Nelson Mandela』として登録されています。一般には、繰り返される歌詞に基づき『Free Nelson Mandela』の名で広く知られています。

曲は南アフリカでも聞かれていたのですか

反アパルトヘイト運動の記録では、南アフリカのサッカー会場などで抗議歌として歌われたとされています。政府による放送・文化統制の下、商業放送以外の場でも広がりました。

1988年のコンサートには何人が来場したのですか

資料によって約7万2千人、8万2千人、9万2千人など異なる数字が記録されています。スタジアムが満員となり、60か国以上へ中継された点は各資料で共通しています。

1988年コンサートの収益がマンデラ本人へ渡ったのですか

催しはマンデラ個人への資金贈与ではなく、反アパルトヘイト運動と「Freedom at 70」キャンペーンの一部として実施されました。中心目的は解放要求とアパルトヘイト問題を世界へ広げることでした。

マンデラは1988年のコンサートを見たのですか

当時は刑務所に収監され、南アフリカ政府による情報統制下にありました。本人が公演全体を視聴したかは、今回確認した公式アーカイブからは不明です。

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  7. 文化ボイコットとは何か|南アフリカで演奏したスターはなぜ批判されたのか
  8. ロック・アゲインスト・レイシズムとは|英国のパンクとレゲエが極右に対抗した音楽運動

参考文献

  1. Nelson Mandela Foundation, “Biography of Nelson Mandela”
  2. Nelson Mandela Foundation, “Learners’ Biography”
  3. Nelson Mandela Foundation, “Trials and Prison Chronology”
  4. Nelson Mandela Foundation Archive, “Nelson Mandela 70th Birthday Tribute”
  5. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Free Mandela”
  6. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “The Anti-Apartheid Movement in the 1980s”
  7. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Jerry Dammers”
  8. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Jerry Dammers interview transcript”
  9. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Music”
  10. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Nelson Mandela 70th Birthday Tribute programme”
  11. Official Charts Company, “Special AKA—Nelson Mandela”
  12. Hugh Masekela Heritage Foundation, “Hugh Masekela”
  13. Library of Congress, “Beautiful Spirit,” Miriam Makeba
  14. Los Angeles Times, “The Other Side of the Mandela Concert,” 3 July 1988
  15. United Press International, “Freedomfest,” 6 June 1988
  16. Wikimedia Commons, “Young Mandela.jpg”
  17. Wikimedia Commons, “Shot of Nelson Mandela’s former prison cell from outside 1.png”
  18. Wikimedia Commons, “Free Nelson Mandela Protest, Germany (crop).jpg”
  19. Wikimedia Commons, “The old Wembley Stadium.jpg”
  20. Wikimedia Commons, “Hugh Masekela 2009.jpg”